眠り月

おふろ(後編)




キョンを抱えて洗い場に行き、わざわざ用意しておいてくれたらしい子供用の椅子にキョンを座らせる。
まだ呆然としていて動けないのが好都合だ。
入る前の様子だと、二人で押さえつけて洗う破目になってただろうからな。
ふんふんと鼻歌なんぞ歌いながら、これまた用意してあった子供用のシャンプーハットをキョンの頭にはめてやる。
シャワーからお湯を出し、温度を確かめてその頭に掛けても、キョンはまだ動かない。
よっぽどショックだったんだな。
備え付けのシャンプーでわしゃわしゃと頭を洗い、お湯で洗い流す。
シャンプーハットを外し、子供らしく柔らかでぷにっとした体をスポンジでしっかり洗ってやる頃になると、少し正気が戻って来たらしい。
泣きそうな顔をするキョンに、
「じっとしてれば別に大丈夫だ。暴れたりする方が危ないぞ」
と言って聞かせる。
「……脅してるように聞こえますよ」
などという外野の勝手な意見はもちろん無視だ無視。
わん古ははらはらしながらこちらを見ている。
シャンプーハットなしで頭を自分でちゃんと洗えるのが偉い。
本当によく出来たやつだ。
……ずっと育て方の違いだと思ってきたが、これがもし、俺と古泉という人間のそもそもの出来の違いによる差だったら、泣くに泣けないな。
正気に戻ったらまた怯えて暴れ出しそうなキョンをしっぽまで手早く洗い上げて、お湯で流す。
そうしてようやく一息ついた。
もう目的は果たしたようなものだから、とキョンを解放し、
「また転ぶとまずいから、走ったりするなよ」
と言って聞かせると、キョンはまだぼんやりしたままこくんと頷き、そろそろこわごわ歩いてく。
そこまで慎重にならなくてもいいと思うんだが、可愛いから放っておこう。
わん古が慌ててキョンを追いかけていったから、心配もないだろう。
さて、それじゃあ俺もきれいになるかとスポンジに手を伸ばそうとしたら空振りした。
「……なんのつもりだ」
と古泉を睨めば、古泉はにこやかに、
「背中を流そうかと思いまして」
と言って俺の背中にスポンジを押し当てた。
「……ちび共の前なんだから、妙なマネはするなよ」
短くそう脅すだけにしたのは、俺も多少疲れてたせいもあるんだろう。
それに、人に背中を流してもらったりするのは嫌いじゃない。
むしろ気持ちいいくらいなんだが、
「そういや、お前に背中を流してもらうのも初めてか」
「そうですよ」
なるほど、それもあってやりたがったのか。
「じゃあ、力入れてやれよ」
「ええ、気持ちを込めますよ」
そう言って丁寧に背中を洗ってくれる手つきが優しい。
というか、案外うまいな。
「そうですか?」
「ああ。…気持ちいい」
目を細めると、古泉も嬉しそうに笑った。
しっかり背中を洗ってから、
「前も洗いますか?」
親切めかして言うのは勝手だが、
「当然断る」
お前に任せられるか。
「残念です」
断られるのを予想していたんだろう。
古泉はかすかな笑い声を立てて俺から離れた。
「どうせなら後で髪を洗ってくれ」
「いいんですか?」
「ああ、頼む」
「喜んで」
嬉しそうに応じた古泉が自分の体を洗うのを見ると、
「……ん、それ、さっきの怪我か?」
古泉の腕に出来た、真新しく赤い筋状の傷が目に入った。
「ええ」
と苦笑した古泉は、
「なかなか鋭い一撃でしたよ」
「血は?」
「止まりました」
ってことは多少は出たのか。
「すまんな」
「いえ、どうってことはありませんから。これくらい、怪我にも入らないくらいでしょう」
「そう言ってもらえると気が楽だが……」
「気になるのでしたら、舐めてくれます?」
さらっと変態発言をする余裕があるなら大丈夫ってことだな。
そう判断した俺は、それ以上そのことを気にするのはやめにして、自分の体をさっぱりさせた。
やっぱり水を使って体をきれいにするってのはいいよな。
しみじみしたところで、
「そろそろですか?」
と声を掛けられたので、
「おう」
と応える。
いそいそとやってきた古泉がシャワーを取り、うつむいた俺の頭にお湯をかける。
それもどこか優しく、丁寧だ。
予洗いのつもりなのか、お湯と一緒に髪の間を抜けていく指の感触が気持ちいい。
軽く頭皮を揉まれるのも結構よかった。
俺の頭を存分に濡らした古泉が、また馬鹿丁寧に手の上でシャンプーを泡立てる。
それを俺の頭に乗せて、地肌からきちんと洗ってくれているのが分かる。
くすぐってえなあと思いながらも、悪い気分じゃない。
「流しますよ」
と声を掛けられて、頷くのを確かめてから掛けられるお湯も気持ちよかった。
「……はー…お前本当に器用だよな。なんでも出来るというか……」
「お褒めに与り光栄です」
と軽口を叩いた古泉に、
「お前がするとなんでも気持ちよくていかん」
と正直に言ってやると、
「……誘ってます?」
などと耳元で囁かれた言葉については、全力で否定させてもらうが。
「アホ言ってないでさっさと浸かるぞ」
古泉の手を引いて湯船に向かう。
広々としたそれがどうしようもなく嬉しいのはやっぱり俺の体に流れる血が原因だろうか。
それにしても、ちびたちはどうしてるんだと思い、あたりを見回すと、わん古がせっせとキョンをなだめていた。
「キョンくん大丈夫ですか?」
「…大丈夫じゃない」
「うう……どうしましょうか。本当はお湯に浸かった方がいいんですけど……」
「やだ」
「ううん……でも、お湯を掛けられても平気でしたよね?」
「死ぬかと思っ……う…」
「あああ、な、泣かないでください」
「泣いてないっ!」
意地を張るのは可愛いが、そこで蹴り飛ばすのはどうなんだ。
あと、素っ裸でとび蹴りはやめとけ。
流石に見かねたのか、古泉が人好きのする、つまりは作り物の笑みを浮かべ、
「怖いのでしたら僕がついてますから、一度浸かりませんか?」
とキョンに向かって、湯船から手を差し伸べた。
キョンはちらっとその手を見つめ、それから古泉を見つめ、泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
ぐすぐす鼻を鳴らすキョンを抱きしめてやった古泉が、
「大丈夫ですからね」
などと優しく言い聞かせながら、キョンの足を湯船につける。
「みっ…!」
泣きそうな声を上げて、ぎゅうとしがみつくキョンに、
「怖くありませんよ。溺れさせたりしませんから」
「ぜ、絶対離すな……」
「ええ」
よしよしと撫でて、少しずつお湯に浸かる。
そうしてキョンの胸のあたりまでつけてやった。
「ほら、怖くないでしょう?」
「こ、こわい……」
「おやおや……」
困りましたね、と言いたげに呟くのは勝手だが、
「……どう見てもいたいけな子供を怖がらせて喜ぶ、いけないおじさんに見える」
ぼそりと呟いた俺に、古泉は苦笑して、
「そうですか?」
「そうにしか見えん」
「僕が至らないということですね」
でも、と古泉は少しばかり嫌な笑みを見せた。
おそらく、俺にしか向けないような類の笑みだ。
ちょっとでなく、いやらしい。
「僕の顔が脂下がって見えるとしたら、あなたのせいですよ」
「なんでだ」
「さっきから、ずっとこっちを見ているでしょう? ……まるで妬いてるみたいな、面白くなさそうな顔で」
意地悪く囁くのが癇に障るが、こういう時、逆上してはこいつが調子に乗るだけだ。
だから、と俺は薄く口を開き、
「……妬いてるとしたら?」
「……え」
「お前は俺の世話を焼くんじゃなかったのか?」
あえて拗ねた調子で呟いてやると、古泉が目に見えて慌てるのが分かって、つい笑っちまった。
おっと、失敗だ。
「…かっ……からかわないでくださいよ……」
と言った声がいくらか幼く聞こえる。
顔の赤みが増したのは、のぼせたからだなんて言い訳もするなよ?
「一樹」
滅多に使わない呼び方をしてやると尚更その顔が赤くなる。
「今度は二人だけで来るか」
「……っ、是非……」
だがまあ今日は子連れだからな。
ダメージから立ち直り、一応湯船には浸かったものの、隅っこでへこんでいるわん古に向けて、手招きしてやる。
「わん古、こっち来るか」
「……いいんですか?」
「ああ。せっかく一緒に来たんだからな」
「…ありがとうございます」
ふにゃりと笑ったわん古が、お湯をかき分けるようにしてやってきたのを抱き留めてやる。
「自分でやってたみたいだが、ちゃんときれいに洗えたか?」
「洗えたと思いますっ」
どれどれ、と見てやれば、耳の後ろまできちんと洗えているようだ。
ここが洗えていれば、他も大丈夫だろう。
よしよしと頭を撫で、
「それにしても、よく出来たな」
「はい、事前に勉強しておきましたから!」
「風呂の入り方をか?」
「ええ、何かおかしいですか?」
おかしいとまでは言わないが……。
「…律儀な奴だなぁ」
そういうところも古泉に似たのか。
「で、勉強したってことは、風呂がどんなものか分かってて来たんだろう? 実際入ってみてどうだった?」
「えっと……気持ちいいです」
「だろう? たまにはキョンを誘ってきてやってくれるか?」
「はい!」
とわん古は元気よく返事をしてくれたのだが、
「お、俺はもう二度と入らないぞ!」
とキョンが喚いた。
何がそんなに嫌なんだこいつは。
「おぼれるのが怖いって言うんだったら、水泳の訓練に参加させてやるが……」
「ひぎゃっ!」
本気で悲鳴を上げ、しがみついてくるキョンを、古泉は優しく撫でてやりつつ、
「濡れること自体が怖いのでしょうね。慣れたらきっと怖くなくなりますから、少しずつ通いましょうね」
と言っている。
それでいい。
ここで甘やかすようなことを言ったらそれこそ沈めてやるところだ。
キョンは目に大粒の涙を溜めて、それでも、逃げられないと分かったのか、
「……そ、総長が一緒なら……我慢する……」
「ええ、いいですよ。慣れるまではお付き合いしましょう」
「……うん…」
ぎゅうと抱きつくのを見ていると、妙に胃の中がむかむかした。
相手がちびじゃなかったら何かしでかしていたかも知れん。
ともあれ、風呂でさっぱりきれいになった俺たちが風呂から上がり、その間に洗濯してあった服を身に着けた。
「はー……生き返った気分だな」
「全くですね」
「ここで風呂上がりのフルーツ牛乳でもあったら最高なんだがな」
「おや、涼宮さんのことですから、用意されてるのでは?」
「ああいうのはやっぱり合成じゃ今一つだろ。……まあ、飲むけどな」
ぱちぱちと端末を操作して、四人分のフルーツ牛乳を用意した。
「ほら、飲んどけ」
と渡してやると、キョンも嬉しそうに飲んだ。
そうしてキョンの機嫌も取り、気分よく外に出ると、ちょうど女湯からハルヒたちが出てきたところだった。
「お前らも来てたのか」
「あたしたちは二回目よ。あんたたちが騒いでたから、もう一回入りたくなったんじゃない」
おいおい、俺のせいにするつもりか?
思わず身構え、話題の転換を図ろうとハルヒたちを見ると、長門がながとの手を引いているのはともかく、朝比奈さんが大きな袋をぶら下げているのが気になった。
「…朝比奈さん、それは……?」
「あ、これ?」
気付いてもらえて嬉しいとばかりに朝比奈さんは微笑し、
「ちみちゃんって、いつでもどこでも寝ちゃうでしょう? 移動の時に起こすのが可哀相だから、持ち運べるようにバッグを作ってみたの。ちみちゃんも気に入ってくれて、ちゃんとこの中で眠ってくれるんですよ」
かわいいでしょ、と言っているあなたが可愛いです朝比奈さん。
袋を覗き込むと、なるほど、ちみちゃんがすやすやと眠っていた。
髪が乾ききっていないようだが……つまり、一応風呂には入ったのか。
ハルヒの後ろにいたはるにゃんは、キョン以上に消耗したようで、ぐったりしている。
「お疲れさん」
と声を掛けて気づいたが、
「カチューシャがぬれてるな。つけたまま入ったのか?」
しっとりしたそれを外してやろうと思い、触れた瞬間、
「ぴゃあああああああああああああああああああ!!!」
と絹を裂くような悲鳴が響いた。
「なっ……」
カチューシャは外れなかった。
というか、生えてんのかこれ!
驚く俺から庇うように、ハルヒははるにゃんを自分の後ろに隠し、
「ちょっとキョン! なんてことするのよ!」
とそれこそ子供に手を出された母親の如く怒鳴ったが、これは当然の反応だな。
深く反省しながら、
「いや、まさか生えてるとは思わなかったんだ。すまん」
と頭を下げる。
そういや、たまごから出てきたときにはすでにあったような気もするな。
「しかし、どういう理屈だ?」
と首を傾げる俺に、ハルヒは胸を張って、
「眼鏡は顔の一部って言うじゃない? あたしのカチューシャも、大事なあたしの一部だって分かったんでしょうね。キョンと違ってよく分かってるわ」
俺はと言うとそんな話を聞いているどころじゃなく、めそめそしみしみ泣いているはるにゃんに罪悪感を募らせているのだが、ハルヒはどうってことないらしい。
「もう、いい加減泣きやみなさいよね! 一度泣き出したらいつまでも泣いちゃうんだから」
「みっ…! ご、ごめんなさ……」
ますますびくついて泣きじゃくるはるにゃんに、ハルヒのイライラも募っているが、そこはなだめてやれよ……。
どうするか、と思っていると、キョンがはるにゃんに歩み寄った。
「それくらいで泣くなよ」
と言ってやるところに意外なものを感じたのだが、
「えうっ……だ、だって………うぅ……」
「泣くなって」
と言いながら、優しく頭を撫でるかと思いきや、ぐいっとカチューシャを引っ張ったあたり、非常にキョンらしかった。
「みゃああああああああああああああああああああ!!!!」
さっき以上の悲鳴を上げるはるにゃんを流石に見かねてか、いつもならキョンの味方をするはずのわん古すら、
「きょ、キョンくん、はるにゃんさんをいじめちゃだめですよ」
と抑えにかかったのだが、
「…わん古のくせに俺にさからうのか」
の一言と共に噛みつかれて敗退した。

何度思ったか分からんことだが、もう一度繰り返させてくれ。
…やっぱり、育て方間違えたかな……。