眠り月

おふろ(前編)



隙があれば逃げ出しそうなキョンをがっちり抱えたまま、俺は古泉と共に風呂を目指す。
勿論、封鎖は全部解除し、捕まったやつらの写真も公開済みだ。
キョンの仏頂面と来たら、記念に残しておきたいくらいのもんだったからな。
鼻歌でも歌ってやりたい気分になりつつ、
「風呂ってのはいいもんなんだぞ」
と言い聞かせてやる。
「体は暖まるし、全身の血行が促進されることと適度な水圧のおかげで疲れも取れるんだ。もちろん、汚れも落とせるしな。それに、キョン、知ってるか? 普段のエアシャワーなんかでは表面の汚れしか落とせないんだぞ」
「俺はきれいにしなくても十分きれいだっ」
「ほこりまみれで言うな」
全く、とため息を吐くと、古泉が小さく笑った。
「何か言いたいことでもあんのか」
「いえ……微笑ましいと思っただけですよ」
何がだ。
「あなたとキョンくんのやりとりが、年の離れた兄弟のようで…」
「いっそ兄弟ならまだ許せたんだがな」
少々わがままを言われようと、迷惑をかけられようと、それは兄弟なんだから仕方ないと思えただろうし、面倒を見て当然だからな。
だが、こいつは兄弟なんかではない。
勿論俺の子供でもない。
ただの他人だ。
だからなおさら腹が立つ、と唸る俺に、古泉はくすくすとかすかな笑い声を立てた。
「なにがおかしい」
「いえ、やっぱり可愛らしいなぁと思いまして」
「……お前は目の前で箸を転がしても面白がりそうだな」
「あなたがしてくださるのでしたら」
「やめろ」
一瞬、古泉の目の前で真剣な面して箸を転がしてる自分を想像して寒気がした。
勿論古泉は愉快そうに笑うことだろうが。
思わず眉を寄せたが、それも男湯と大きく書かれたのれんを見ると緩んだ。
やっぱりこれだよな。
「合理的じゃないって言うやつも多いだろうが、風呂屋の入口にこれは欠かせんな」
「僕は風呂屋に通ったことがないのでこれが正統なのかは知りませんが、風情がありますよね」
「適当に話を合わせようとするな」
と笑いながらのれんをくぐり、
「いつになるか分からんが、国に戻って休暇が取れたら、一緒に行ってみるか?」
「はい、是非」
にこにこといつもよりも更に柔らかな笑みを見せる古泉に、俺もつい顔がゆるんだが、腕に込めた力だけは緩めるわけにはいかん。
いよいよだと分かってじたばたじたばたと全力で逃げようとするキョンの首根っこを引っ掴み、脱衣所に入る。
ハルヒの趣味で番台まで設置してあるのだが、座ってるのがロボットじゃちょっとばかり寂しいな。
下手な奴を座らせるわけにいかんからそうなったんだろうが。
ともあれ、キョンの服を引っぺがしてやらなきゃならん。
「みぎゃああああああああああ! 虐待だあああああああああ!」
と喚くのがやかましいが、助けは来ないぞ。
お前を風呂に放り込んでやるってことはみんな知ってるからな。
「無駄な抵抗はよせ」
というか諦めろ、と言い聞かせるがまだ暴れるつもりらしい。
仕方ない、この手は使いたくなかったんだが……。
「古泉、手を貸せ」
「はい」
苦笑というにはあまりにも楽しそうに笑うこいつを変態呼ばわりしてやるべきなんだろうか。
今度けんかでもしたらねちっこくいじめてやろう。
そんなことを考えているとは顔にも出さず、俺はキョンの上体をがっしりと掴み、
「下脱がせちまえ」
「かしこまりました。…全部ですよね?」
「じゃないと風呂には入れんだろうが」
ついでに言うと、流石に下を脱がされたら逃げ出せないくらいの羞恥心はもうあるはずだしな。
びいびい泣き喚くキョンに、わん古はおろおろと心配そうな様子だが、なんとも出来ないと分かっているんだろう。
そんなわん古の反応もあってか、古泉は少しだけ申し訳なさそうな顔をして、
「嫌な思いをさせてごめんなさい。でも、お風呂に入らないといけませんから、ね」
とご丁寧に言ってやった上で、キョンのズボンに手を掛けた。
そのまま一息で下着まで脱がせる手際のよさについては、コメントなどしたくもない。
「ひ……」
と声を上げて絶句したキョンは、なんだか分からんが真っ赤になっている。
「どうした?」
と聞いても返事がない。
よっぽどショックだったんだろうか。
よく分からんが、固まってくれて助かる。
よいしょ、とキョンを抱え直し、今度は膝のあたりを押さえてやる。
「上も脱がせてやってくれるか?」
「もう無抵抗のようですけど……」
「それでも、我に返って逃げられたら困るだろ。俺が押さえておくから」
「はい」
古泉はそれこそなんとも言いたくない手際のよさで上着のボタンを外し、脱がせる。
インナーシャツも簡単に剥ぎ取って、ぱふ、と声を漏らしたキョンはそれでようやく我に返ったらしい。
じわりと目に涙を浮かべて、実に罪悪感を煽る感じで俺たちを睨んでくる。
「なんだか悪いことでもしているような気持ちになりますね……」
と古泉がため息交じりに呟いたが、
「悪いことはしてないだろ」
と返し、
「お前もとっとと脱げ。わん古もな」
「あ、はい。…あなたは……」
「お前が脱いだらこいつを渡すから。俺はそれからでいい」
「分かりました」
そう頷いた古泉は手早く服を脱ぎ捨てた。
恥じらいも何もない潔さだ。
それにしても、服を脱ぐのも様になるってのは、腹が立つな。
むう、と唸る俺に古泉は苦笑して、
「そんなにいいものじゃないと思うんですけどね」
「黙れイケメン」
くすくすと笑って、古泉がこちらに向けて手を伸ばすので、俺は大人しくキョンを引き渡した。
べそべそしみしみと泣いているキョンが古泉にしがみついて、
「キョンのおにー……。幕僚総長…キョンがひどいんだ…。俺のこといじめるんだ……」
などと言っているが、お前が同情を誘おうとしているそいつは俺の手先だぞ。
「あなたのことを思ってのことですから」
なだめるように言ってキョンの背中をぽんぽんと叩いてやる優しさはいいんだが、その目がじっとこっちに向けられているのはなんだ。
「先に風呂に入ってていいんだぞ」
「いえいえ、お待ちしてますよ」
俺が服を脱ぐのを見るのも初めてじゃないし、そもそも俺はそんなに出し惜しみもしてないはずなのに、なんだって見たがるんだろうなこいつは。
半ば呆れながら、俺もさっさと服を脱ぐ。
わん古はというと、少々ゆっくりではあったものの、ちゃんと服を脱いでいた。
……脱いだ服をちゃんと畳んでいるのも、古泉を見てるってことなのかね。
「わん古はちゃんとできてえらいな」
と声を掛け、俺も脱いだものをちゃんと畳んでいると、
「そ、そんなことないです」
と言ったわん古の鼻から何やら赤いものがたらりと……。
「ん? どうした、頭に血でも上ったのか?」
「ふえ? ……あっ」
そこでやっと自分が鼻血を出してることに気付いたらしい。
「風呂に入るのはやめといた方がいいかも知れんな」
と俺が言うと、
「だだ、大丈夫ですっ、お風呂入ります!」
と言って風呂場の方に走ってく。
おいおい、鼻に綿ぐらい詰めとけ。
「元気だな…」
かわいいもんだ、と呟いた俺の横で、古泉がえらく厳しい顔をしてるので、
「どうした」
と聞いてやると、
「いえ……」
と言葉を濁したくせに、何やら言いたそうにしている。
「吐け」
「……どちらに反応したのかと、思いまして」
「……はあ?」
「多分……大丈夫だとは思うんですけどね」
「最近はそうでもないと思ってたが、お前の話は相変わらず訳が分からんな」
「すみません」
と笑顔で謝っておいて、
「僕たちも入りましょうか」
俺も異存はないので、ぐずぐずと泣きじゃくっているキョンを古泉に任せたまま、浴場に入った。
ぱしゃぱしゃと顔を洗っていたらしいわん古の顔はもうきれいになっていた。
どうやら鼻血は一時的なものだったらしい。
「水なんか嫌だああ」
爪が立ちそうなくらいきつく古泉にしがみついたキョンが唸るように呟いている。
呪いの言葉じみたそれに俺への罵りがまざっている気がするが、聞こえないってことにしてやろう。
「怖くないから。……ほら」
ちょっとだけ手ですくったお湯を掛け湯代わりに掛けてやった瞬間だった。
「みゃあああああああああああああああああああああああああああ」
はるにゃんの上げそうな悲鳴を上げて、これまでにないほどの大暴れをしたかと思うと、
「痛っ!」
と思わず古泉が声を上げたくらいのダメージを残してその腕の中から逃げ出した。
「あっ! こら待て、風呂場で走るな!」
と言ってやったのは親切心だったのだが、全くの無駄に終わった。
風呂場に他に人はいないがそれはみんな入り終わったからであって、一番風呂だからではない。
つまり、浴場は使用済みであり、濡れている。
濡れたタイルの上を後先考えずに全力疾走すればどうなるか。
……考えるまでもないだろう。
キョンは思い切りよく滑り――そして、壁にぶつかって止まった。
「……あーあ」
「あーあじゃなくて、無事を確認した方がいいんじゃ……」
「……だな」
余りにも展開が早くて頭が追いつかん。
俺まで滑ったりしないように慎重に近づき、キョンを回収した。
あちこちぶつけて放心状態になってはいるが、頭を打った様子もないし、大きなけがもなさそうだ。
「キョンくん大丈夫ですか…?」
と心配するわん古に、
「これなら大丈夫だろ」
と言っておいて、掛け湯をしに戻った。
いっそちょうどいいとばかりに、呆然としたまま固まっているキョンに掛け湯をする。
それから自分も掛け湯をして、
「さっさと体を洗うぞ」
と古泉に声を掛けると、古泉はまじまじと俺を見つめ、
「……あなたって時々、驚くほど冷淡ですよね」
と言いやがった。
色々と気になる発言だが、褒め言葉ということにしておいてやろう。