眠り月

きょうふ


それは僕が、キョンくん以外の仲間たちと初めてまともに顔を合わせた日のことでした。
生まれてすぐに会っているとのことだけれど、ほんの一週間ほど前のことだというそれが、僕らには遥か昔のことのように思えたのを、今も覚えています。
おそらく、生まれたばかりの僕らには自我というものがなく、周りのことを吸収するのに精いっぱいだったからなのでしょう。
僕たちからすれば、その日が初めて出会った日となりました。
それぞれに自己紹介を済ませ、SOS艦隊の正式な乗組員として登録された後、僕たちにはちょっとした自由時間が与えられました。
というのも、キョンくんがさっさと逃げ出してしまったからです。
それを追認する形で涼宮閣下が自由行動を認めてもらったのはいいのですが、眠ってしまっているちみさんはともかくとして、どこかへ行ってしまった彼とはるにゃんさんをどうすればいいんでしょうね。
とりあえずは彼を追うことに決めて、僕も会議室を出ました。
辺りに残る匂いをかぎ分けて、彼の跡をたどります。
勿論、僕が彼の匂いをかぎ分けられないことなどはなく、僕はすぐに彼を見つけることが出来ました。
「キョンくん」
僕がそう声を掛けると、彼は可愛い目をキッと吊り上げて、
「俺は作戦参謀だと言っただろ! わん古、お前までなんだ」
「失礼いたしました。作戦参謀殿」
可愛いなぁ、と苦笑しながらそう訂正した僕に、彼はふんっと不機嫌に鼻を鳴らしておいて、
「で、なんの用だ」
「ええ、作戦参謀ともあろうお方がおひとりで出歩かれては格好がつかないかと思いまして、僭越ながら、おともしますよ」
「勝手にしろ」
不機嫌に耳をとがらせて、彼は先に立って歩き出す。
「どちらへ向かうおつもりですか?」
「まずは潜伏場所や装備が欲しいところだろ」
……どうやら、本気でここの支配者になりたいらしい。
彼のためなら協力するのもやぶさかではないところだけれど、僕たちはまだ子供だし、何より、あの大将閣下に勝てる気がしない。
彼が怪我をしないように、精々フォローさせてもらわないと。
やれやれ。
そっとため息を漏らしたところで、彼がぴくりと耳を震わせ、駆け出した。
「どうしたんです?」
と尋ねるけれど返事はない。
そのまま追いかけると、彼は何かに飛びかかって動きを止めた。
「ひゃあああああああ!」
あがった可愛らしい悲鳴で分かる。
捕まったのははるにゃんさんだ。
「キョンくん、不審者じゃなくてはるにゃんさんですよ」
「…だな。……あっ、べ、別に不審者だと思ったわけじゃないぞ! ただ、目の前になんかひらひらしてるのが見えたから、つい……」
ああ、猫の本能ですか。
それはともかく、
「離してさしあげては?」
離れられないのでしたら、手をお貸ししますけど。
「別に、手なんかいらん」
ぷいっと顔をそむけながら彼は立ち上がった。
はるにゃんさんはまだ床に伏せたまま、めそめそしみしみ泣いておられる。
僕はポケットからハンカチを取り出し、
「大丈夫ですか?」
と声を掛けた。
顔をあげたはるにゃんさんは、顔を涙でぐちゃぐちゃにしながら、ふるふると頭を振った。
「いたい……」
「ぶつけました?」
「…おなかとか……あしとか……」
……ああ、凄いタックルだったから…。
肝心の加害者はと言うと、呆れた顔をして、
「あれくらいで泣くなよな」
なんて言っている。
素晴らしいまでの傍若無人っぷりだ。
……かっこいい。
惚れ直します。
少ししたら、彼女も落ち着いたようで、ようやく立ち上がった。
「せっかくだからお前も手伝え」
と言って、彼が強引に立たせたのだけれど、それでも彼女は立ち上がれた。
少し目が潤んでいたけれど、痛みも治まってきていたのだろう。
「て、手伝うって…何するの……?」
びくびくしている彼女を見ていると、守らなくてはいけないような気もするのだけれど、あいにく僕は彼の味方をすると決めている。
その、僕が守りたい彼はと言うと、悪者みたいな顔をして、
「いいからついてこい」
と言った。
おかげでますますびくついたはるにゃんさんが逃げ出そうとしたけれど、当然許されない。
彼ははるにゃんさんの腕を引っ張って歩き出した。
…妬いてなんていません。
いませんったらいません。
ざくざくと歩く彼に引っ張られ、よろけるようにはるにゃんさんが歩いて行く。
結局目的地はどこなんだろうと思っていたら、彼は小型艇などの並ぶデッキに向かっているようだった。
「どうするんです?」
まさかいきなり宇宙に飛び出すわけではないと思いたいんだけど……。
そう思っていると、彼は目的の人物を見つけた様子で足を速めた。
「おい、谷口」
と呼び止めたのは、作戦参謀のご友人の谷口氏だった。
整備部にいる彼らしく、どうやら小型艇の整備にいそしんでいたらしいけれど、油まみれの顔をひょこりと出すなり、ぶはっと笑い出した。
「おま…っ、な、なんだ? どうした? お前らだけで」
笑いながらそう言った谷口氏に、キョンくんは胸を張って、
「お前が前に言ったんだろ。女の子紹介したら艇のひとつくらい貸してやるって」
「あーあーあー、言った言った」
言ったんですか!
というか、女の子って……。
「キョンくん…まさか……」
「ほら、可愛い女の子連れてきたぞ!」
キョンくんは迷うことなくはるにゃんさんを谷口氏に向かって突き飛ばした。
「わひゃあ!」
と悲鳴を上げてよろけたはるにゃんさんをうまく受け止めた谷口氏は、けらけら笑って、
「確かにな」
びくっと竦み上がったはるにゃんさんの頭を乱暴に、でも優しくわしゃわしゃと撫でた谷口氏は、
「それじゃ、ちょうど出来てるから約束のモンを渡さないとなぁ」
と言ってはるにゃんさんを解放し、何やらデッキの隅の方に行く。
わくわくと目を輝かせるキョンくんの目の前に持ってこられたのは、段ボールで作った小さな小型艇だった。
それこそ、僕たちが一人乗れるかどうか、というくらいの。
ご丁寧に、底部には脚を出すための穴も空いている。
「おお!」
とキョンくんは目を輝かせ、はるにゃんさんも、
「わぁ…」
と目を見開いて喜んでいるけれど……ええと…御二方とも、純粋ですね。
「お前ももうちっと子供らしくしろよ。…ま、あの幕僚総長と四六時中一緒にいりゃ、こうなるか」
ほいっとキョンくんに小型艇を渡した谷口氏は、
「ここにこう脚を通してだな…」
なんて丁寧に説明しているけど……勤務時間中じゃないんですかね。
谷口氏の労働と引き換えに、キョンくんは無事小型艇の乗り方を習得した。
そうなったら、もちろん、勝手に走り出すに決まっている。
「行くぞ! わん古!」
と声を掛けてもらえただけよしとしましょうかね。
そうして走り出した彼を、僕とはるにゃんさんが追いかけて走り始めてしばし。
デッキから離れたところで、何かが聞こえた気がして、僕は足を止めた。
「今、何か聞こえませんでした?」
「ふぇ?」
とはるにゃんさんは首を傾げ、彼も一応足を止めて耳を澄ませたけれど、
「気のせいじゃないか?」
「…そう……ですかね」
なんだかこう……谷口氏によく似た声で、悲鳴のようなものが聞こえたような気がしたんだけれど。
変だなぁと思ったけれど、
「そんなことより、行くぞ」
と言って彼が走り出すと、追いかけない訳にいかない。
どうやら外に出たいらしい彼が、出入り口のあるところを目指して順に走り回るのを追いかけるうちに、はるにゃんさんはスタミナが切れてきたらしい。
「ふぁ……うう…キョンくん…もう休も……?」
へとへとになった彼女がそう要求するので、流石の暴君…いえ、キョンくんもかわいそうになったのか、
「…ちょっとだけだぞ」
と言って歩みを緩めた。
…もしかしたら、自分も休みたかったのかもしれない。
「いったん休憩な」
と廊下の隅っこに座り込んだのはいいけれど、僕たちみんな疲れていたみたいで、うとうとと眠り込んでしまった。
その眠りを覚ましたのは、鋭い悲鳴だった。
「みゃああああああああ!」
という悲鳴はもちろん、はるにゃんさんのものだ。
もう何度も聞いているから間違いない。
驚いて目を覚ました僕があたりを見回した時には、はるにゃんさんの姿が見えなくなっていた。
「……え…」
「んん…どうしたわん古…うるさいぞ……」
ようやく目を開けた彼だったけれど、どう見ても寝ぼけてます。
「はるにゃんさんがいなくなったんです…」
「…逃げたか」
「いえ……そうとも言い切れなくて……」
「ん?」
「…悲鳴が、聞こえたんですよね」
「悲鳴って……」
「何かに襲われたかのような………」
ひゅう、と冷たい風が吹き抜けた気がした。
もちろんそれは気のせいなのだろう。
空調が完全に管理されている艦の中で、風なんて吹くはずがない。
…出入り口が空いてさえいなければ。
「………キョンくん、幕僚総長たちのところに戻りましょう」
「な、なんでだよ」
そう言った彼の声もかすかに震えている。
「あなたも本当は気づいているのでは?」
「…何に」
「今日のこの艦はおかしい、ということですよ。谷口氏の悲鳴にしても、はるにゃんさんが悲鳴を上げて、いなくなったことにしても。それに………今日はあまりにも人が少ないと思いませんか?」
「………気のせいだろ」
「現実逃避はよしましょう」
僕が言うと、彼はぎゅっと段ボールの艇を握り締め、僕を睨んだ。
「じゃあ、なんだってんだ」
「異常事態ですよ。…今はとにかく、安全な場所に戻りましょう」
本当にそこも安全なのかは分からないけれど、少なくとも、僕たちが二人だけでいるよりはずっといいはずだ。
「……」
「動くのが怖いですか?」
「ちがっ…」
否定しようとしたけれど、彼の顔からは血の気が引いて真っ青だ。
僕は殊更に笑みを作って、
「大丈夫です。…僕がいますから。何があろうとあなたを守りますから」
「…………ばかわん古」
そう罵りながら、彼は僕に近寄り、そっと僕の服の袖を摘まんだ。
「……見捨てて逃げたり、すんなよ。へたれ」
「ええ、何があろうとも」
僕たちは、慎重に歩き始めた。
耳を澄まし、あたりに気を配りながら歩いても、動く者の気配は捕えられない。
そのことの方が、よっぽど怖かった。
まるでもう動くものが何もいないかのようで……。
そんなことはない、と不安を振り払い、SOS団の部屋を目指す。
どうかそこに作戦参謀たちがいてくれますようにと願いながら。
僕たちは、随分長いこと歩いて、ようやくそこにたどり着こうとしていた。
緊張のあまり、せっかく彼と二人きりだというのに、ろくにしゃべってもいない。
しゃべる余裕もなかった。
そうしてドアを開けた瞬間、部屋から何者かが飛び出してきた。
その向こうに一瞬見えたのは、テーブルに倒れ伏す、作戦参謀や幕僚総長の姿で…。
僕は反射的に、キョンくんをそいつから守ろうとして、立ちはだかった。
「彼に手出しはさせません!」
そう言ったのに、そいつは軽やかに僕をかわして、キョンくんに襲い掛かった。
「ぎゃああああああああああああ!」
「キョンくん!」
守るって言ったのに、僕は守れなかったのだろうか。
慌てて振り向くと、そこにいたのは、
「………ながとさん?」
…ですよね。
なんだか薄汚れてますし、口の周りなんかよだれでべとべとですけど。
彼女はキョンくんを抱きしめて、ご機嫌で尻尾をもぐもぐしていた。
キョンくんはと言うと、あれだけ緊張したところにいきなり襲いかかられて、失神してしまっていた。
「……ええと…ながとさん、もしかして、さっきからあちこちでそういうこと…してました?」
彼女はまだもぐもぐしながら、小さく頷いた。
「……谷口氏とか…はるにゃんさんとか……ええとそれから、作戦参謀と幕僚総長も……」
肯定。
「……もしかして、ちみさんとかにも?」
肯定。
「………」
そんな中、僕だけ噛みつかれてないっていうのは…いったいどういうことでしょうか。
僕ってそんなにおいしくなさそうですか?
いえ…決して、食べられたいわけじゃないですけど。
ため息を吐きながら、部屋の中に入ると、幕僚総長が体を起こした。
「おや…戻ってきたんですか?」
「はい。……えっと……ながとさんに、噛みつかれたんですか?」
「ええ。……小さい子には抵抗しづらくて……」
でも、と幕僚総長は苦笑して、
「……痛いです」
と言い、またテーブルに伏せた。
よっぽど痛むのかな、と思って目を剥ければ、制服のズボンに歯形が付いている。
穴こそ開いていないけれど…もしかして、肌にはあざでも出来てるんじゃないだろうか。
…………噛まれなくてよかったのかもしれない。
安堵しながら……僕はこの後のことを考えてため息を吐く。
…彼にどう謝ればいいのかと思うと、とても気が重かった。