眠り月

光 (前編)


そいつを初めて見た時、きれいだとか美しいだなんて思う余裕はなかった。それでも俺はくっきりとその姿を覚えている。
いや、忘れられない。
そして、あんな姿は二度と見たくないと思っている。


そいつを見つけたのは、ただの偶然だった。
手伝っていた果樹園から町まで果物を運び、荷物を下ろし終わるまでの間の、ちょっとした休憩時間でのことだ。
疲れのせいで軽くうつむいていた俺は、誰かにぶつかるのも面倒で、ごった返す道の端をのろのろと歩いていたのだが、それでも押しのけられ、店と店の隙間に転がり込んだ。
その、本当に細い路地の先に、そいつは小さくうずくまっていた。
胸元に傷を負っているらしく、手できつく抑えているがその隙間から赤い血が見えた。
「お、おい、大丈夫か?」
「近寄らないでください」
思わず声を掛けた俺に、冷たい言葉が返ってきた。
「近づいたら…殺しますよ」
青ざめた顔の中で、目だけが刃のようにぎらぎらと光っていた。
手負いの獣が一番危ない、ということは俺だってよく分かっていた。
だが、相手は人間なんだ。
放っておけるわけがないだろう。
俺は自分が腰につけていた、万能ナイフを外し、足元に置いた。
その上で両手を上げ、
「まあそう殺気立つな。武器は今置いた。持ってたって大して役には立たんがな。ないと尚更だ。これじゃリンゴも剥けん」
冗談を口にしても、そいつの警戒を和らげる役には立たんらしい。
「あなたのその言葉のどこに信頼がおけると?」
「うん、まあ、そうだろう。だが、俺はいわゆる今時呆れられるくらいのお人好しってやつらしくてな。怪我人を放置でもしたら、寝覚めが悪くなるのが目に見えてるから、声を掛けさせてもらったんだ」
「怪我をしていると近寄ってくる人間というのは多いですが、そういう輩の方が信用ならないものですよ。放っておいてください」
「そうしたら、お前はどうなるんだ? これからどこかへ行くとか、そういうあてがあるなら、それこそ俺のこれは余計なお世話でしかないだろうが、あてがないなら、放り出せんぞ」
「うるさいな…」
「大体お前、動けるのか?」
「動けますから、そこから消えてください」
そう言っておいて、しびれを切らしたようにそいつは立ち上がり、ふらつく足で歩いて行こうとする。
しかし、それは二、三歩の間しか持たず、すぐにその場に崩れ落ちた。
「無理するなって」
慌てて駆け寄り、手を貸そうとしたのだが、パシンと音がするほど強くたたき落とされた。
「全く……」
思わず笑っちまったのは、それが昔、傷を負った猫を拾った時と同じような反応だったからだ。
「お前に危害を与える気はないし、恩を着せるつもりもない。ただ、俺の安眠に協力してほしいだけだ。大人しくしててくれ」
と言ったのも多分、猫を拾った時と同じだな。
反論する気力も失ったらしいそいつは、悔しげに唇をかみしめたまま、それでも一応俺の手を取ってくれた。
肩を貸してそいつを店まで連れ帰り、積み下ろしの終わった荷車に載せてやる。
店の奴らは、新手の追剥とかじゃないかなんて心配もしてくれたが、それにしちゃ傷が深そうだろと言い訳をしておいた。
傷からは少しずつではあるものの絶え間なく血が流れ、薬を塗ろうと縛ろうと止血が成功する様子はない。
その体はあっというまに命を流し尽くしてしまいそうで、正直、恐ろしかった。
街道の途中で夜を迎え、暖かいスープを作ってそいつに差し出した。
そいつはもう、反発する力どころか気力も失いつつあるのだろう。
うつろな目でそれを見るだけだった。
「つらいだろうが、とりあえず飲め。飲まなきゃこのままくたばっちまうぞ」
「……飲んでも同じことですよ。そんなものは、何の役にも立ちません」
「だったら、何がいいんだ?」
用意できそうなものなら用意してやるが、街道の真ん中じゃ厳しいだろうか。
「あなたに用意できるものじゃありませんよ」
そう言ってそいつは笑ったが、それはある種の嘲笑であり、それも自分に向けてのものに見えた。
「もう、いいじゃないですか。あなたは自分に出来る限りのことをした。それで満足しては?」
「何を……」
「僕は珠魅です」
笑いを帯びた声で、そいつはそう言った。
珠魅という種族について、知っていることはほとんどない。
ただ、彼らが胸に宝石を持っており、それを狙われているということくらいだろうか。
珠魅でないものにしてみれば、珠魅の核があったら一生遊んで暮らせるのに、なんて他愛もない夢を見て笑う程度の認識しかない。
その珠魅が目の前にいるらしい。
だからと言ってどうする気にもなれない。
「珠魅ってことは、俺なんかとは体の造りが違ったりするのか? どうやったらその傷は治るんだ」
俺がそう聞くと、そいつは驚いたように目を見開き、それからクッと音を立てたから、もしかしたら笑ったのかも知れん。
「無駄ですよ。……ほら」
そう言ってそいつは幾重にも重ねた服を切り裂き、胸を開いた。
そこにあるのは、美しい緑の宝石だ。
しかしそれは、痛々しいほどはっきりとしたヒビが入っていた。
「これは……もう治らないのか?」
石に傷が入った場合、治るとは到底思えない。
しかしもしかしたら、と思いながら問えば、
「まず不可能ですね」
ですから、とそいつは今度こそ、笑顔の形を作り、
「僕の核を抉り取って売り飛ばしてはいかがです? そうすればあなたには一生楽出来るくらいのお金が手に入り、僕はこの生の苦しみから解放されることになる。それで万々歳じゃありませんか」
とんでもない暴言を吐きやがった。
「ふっざけんな!」
怒鳴って、それじゃあ足りなくて、裂かれた服を無理矢理に掴んだ。
「お前がどんな目にあってそんな怪我をしたりしたのかとか、どんな人生送って来たのか、俺は全く知らないがな、そんな風に自分を大事にしないでどうするんだ! 核だけ残してどうなるっつうんだ! 売り飛ばされて、それで、お前はいいのかよ!」
くそ、こっちが泣きたくなってきた。
「お前はまだ生きてるんだろ! さっきの口ぶりだと、助かる可能性も全くないって訳じゃないんだろ!? だったら、諦めるなよ……」
「……泣かないでください」
「泣いてねえ…!」
「泣いてはいけないんです。……珠魅のために泣いてはいけません」
そう言ってそいつは俺の手を軽く握りしめた。
「先ほどのは失言でした。あなたにも失礼なことを言ってしまってすみません」
「俺のことは別にいいが…」
言いながら服から手を放しても、そいつは俺の手を放さなかった。
「……すみません。それから、ありがとうございます」
「…何がだ」
「本当に心配してくださってたんですね」
……そういうことか。
だが、まあ、
「そういうものを持ってたら、仕方ないんだろうな」
ため息を吐きながら、そいつの胸の核を見つめる。
弱弱しい光しかなくても、それは美しく、これを欲する人間は少なくないだろうと、宝石に興味がない俺にも分かる。
「……きれいだな」
ぽつりと呟くと、そいつは軽く首を傾げ、
「傷だらけで、もうきれいじゃありませんよ」
「いや、十分綺麗だろ。……ああでも、本当ならもっときれいなのか」
それを見てみたいなと思ったのは、別に変ったことじゃないだろう。
「治る可能性が少しでもあるんだったら、それ以上悪化させないように大人しくしてろ」
「………はい。でも…僕は、食糧は必要ありませんし、薬も効きませんから、気を遣わないでください」
「分かった。お前は荷車の上で大人しくしてろよ」
とは言ったものの、少しばかり作り過ぎたスープをどうしたものかな。
「なあ、何も食えないのか?」
「え? ……あ、いえ、食べられないことはありませんけど…」
「だったら、すまんがこれを片付けるのを手伝ってくれると助かる。正直作り過ぎたし、捨てるのももったいないだろ」
俺が言うと、そいつは小さく笑って、
「…はい、それくらいでしたら」
と頷いた。
その笑顔が柔らかくてほっとした。
そうしてようやく俺は気が付いたんだ。
「お前の名前もまだ聞いてなかったな」
「そうでしたね」
「…教えてくれるか?」
最初のあの警戒ぶりだと無理だろうか、と思いながら小さく尋ねると、そいつは頷いて、
「……古泉一樹といいます」
と名乗った。