眠り月

しつけ


「それでは、僕はこれで」
「ああ、じゃあ、またな」
そう言って古泉と別れた。
俺たちの手にはそれぞれ、犬耳と猫耳がいる。
各自で世話をするということで、いつもそばに置いておけということになったのだ。
おかげで、俺は久しぶりにこんな小さな生き物の相手をする破目になっている。
俺はどちらかと言うとハルヒみたいな猛獣担当なんだがな、とため息を吐きながらも、じーっとこちらを観察している猫耳に、いい加減名前を付けてやらねばならんということを思い出した。
「…名前、か」
「なまえか?」
「…………」
この、下手に独り言も呟けん状況はどうにかならんものだろうか。
じっと見つめ返してみたところで、猫耳は首を傾げるだけだ。
いや、話しかけてやった方が言葉もちゃんと覚えるだろうとは思うんだがな。
それにしても……。
ああいや、今悩むべきは名前だった。こいつに一体どんな名前を付ければいいのか。
考えたところで、思いつかない。
犬ならポチ、猫ならタマなりミケなりそれなりに定番の名前があるのだが、いかんせん、相手は未知の生物であり、現状では俺たちの側としての呼び名も存在しない。
おまけに、耳だけでは何猫なのかということもよく分からんから、茶トラだとかキジだなんて名前を付けるのも不可能だ。
だからと言って俺の名前をくれてやるのは気に食わん。
……そうだ、俺が気に入っていない名前を押し付けてやればいいんじゃないか?
名前、というか、あの忌々しいほど定着し、今ではなんと本当に正式の書類でない限り、それで通用してしまうという恐ろしい呪いめいたあだ名である。
「キョン」
そう呼ぶと、
「きょん?」
と復唱した。
「お前のことだ」
「おまえのことだー」
「………まあ、いい」
「まあいいー?」
「…キョン」
そう呼びかけると、今度は自分が呼ばれたとなんとなく分かったんだろうか、じっとこっちを見ている。
「…とりあえずは、トイレとか覚えような」
と言って頭を撫でると、キョンはくすぐったそうに体を竦めた。
しかし、トイレのしつけなんてどうしてたかね。
妹の時は、それこそ小さいうちはおむつにしてたし、それより大きくなったら、ちょっとずつ、トイレに行くように仕向けたもんだが。
それから、猫の場合は最初は諦めて、どこか適当なところにするのを待ち、それを片付けて匂いのついた紙屑なり布きれなりをトイレにしたい場所に設置すると、そのうちそこでするもんだと覚えてくれたものだが。
さて、こいつの場合はどうすりゃいいんだろうか。
考えたところで仕方がない。
どこかその辺でやっちまったらやっちまったで、次からはここでするようにとトイレに連れてって見てもいいし、あるいは焦っているように見えたら連れて行ってもいいだろう。
そう考えたところで、ふと思い出したが、今日はまだ昼飯も食ってない。
今から食堂に行くのも面倒だから、と端末を叩いて適当な食い物を合成する。
俺のしていることをじっと観察していたキョンだったが、突然テーブルの上にサンドイッチが出現したのを見ると、ぴゃっと飛び上がり、俺の後ろに隠れた。
「怖くないぞ」
「こあくない?」
「怖くない怖くない」
言い聞かせながら、俺はサンドイッチに手を伸ばし、それをキョンによく見せてから、ぱくりと口に放り込んだ。
キョンは、それでやっとそれが食い物だと分かったんだろう。
じっとサンドイッチを見つめている。
「食べるか?」
「たべるか?」
「……ほら」
サンドイッチを一切れ渡してやると、キョンはそれにぱくんと食いついた。
「おいしいか?」
「おいし?」
「…おいしいな」
そう言うと、キョンはにこにこと笑った。
子供らしく。
こうしていると本当に可愛くて、守ってやらなきゃならんという気になる。
生物の生き残るための知恵というか、DNAだの遺伝子だのってのは凄いもんだな。
俺はそっと小さなその頭を撫で、
「成り行きとはいえこうなった以上、大事に育ててやるよ」
だから安心してのびのび育て。
キョンはくすぐったそうに目を細め、かすかに喉を鳴らした。
食事の後、ミルクとお茶をそれぞれ飲んで、幼児向けの映像なんかを探して見ていると、キョンがもぞもぞし始めた。
何やら居心地が悪そうなのが、見覚えがある。
「キョン、トイレ行くぞ」
と声を掛け、立ち上がると、キョンもぴょこんと立ち上がった。
その小さい手を引っ張って、部屋についているユニットバスのトイレに座らせてやる。
ズボンなんかを脱がせてやったから、それで分かったんだろう。
失敗することなく用を足せたので、
「ん、よく出来たな、キョン」
と頭を撫でてやったら、嬉しそうにした。
そんな調子で、ほめたり、あるいはいたずらをした時に叱ったりして躾けていくのは、猫や小さい子供と同じなんだなと実感したのは、数日を一緒に過ごしてからだった。
それまでは、これでも知的生命体らしい異星人なら、飛躍的に成長してくれるんじゃないかとか色々妙な期待をしたりもしたものだが、そうではないらしいということがやっと納得できたとでもいうんだろうか。
もちろん、一度教えたことは忘れずに覚えてくれるというのは、人間や猫と比べると随分頭のいいところだとは思う。
それでも、教えてないことを察するというのは苦手のようで、いちいち見本が必要らしい。
言葉もどこまで覚えられるものか怪しい。
果たして他の連中は……特に、子育てなんざしたことがないだろう古泉はどうしているのだろうかと、基地建設の準備や惑星探索で忙しいせいでしばらく会えなかった奴に会う口実を作った俺は、久しぶりに居心地の良いその部屋を訪れたのだが、あいにく、俺のお気に入りの場所である古泉のベッドの上には先客がいた。
そいつはベッドの上にちょこんと座って、ちっさい脚をぷらぷらさせ、上機嫌で尻尾を揺らしている。
「……犬耳…」
「そういう呼び方はないと思いますよ?」
耳障りなくすくす言う笑い声を立て、生意気にも俺をたしなめた古泉を軽く睨むと、優しく見つめられた。
くすぐったい。
「最近は、勤務中に顔を合わせても、モニター越しだったり、ほんの短い時間だったりしたでしょう? あなたに会うのも、なんだかとても久しぶりのような気がしてしまいまして」
「……それは…まあ、俺も同じだが」
それにしてもなあ。
古泉と一緒に過ごすのが普通になり過ぎている現状が少しばかり歯がゆいというか照れくさい。
むず痒さに耐えかねて、
「そんなことより、」
と無理矢理話題を変えようと、犬耳を指さし、
「ちゃんと躾けたりしてるんだろうな?」
「ええ、大丈夫だと思いますよ。ねえ」
そう言って話を振られた犬耳はというと、分かっているのかいないのか、
「はいっ」
と元気よく返事をした。
「…分かってんのか?」
「どうでしょう? 少しは分かっていると思いますけど……あの返事は多分、ただの条件反射ですね」
そう苦笑した古泉は、
「躾についてですが、僕はどうも子供の扱いと言うのが苦手でして……ですから、好きにさせておいたんですよ。どこに行くのにもついてきますし、じっとこちらを観察しているということは、僕が気を付けて生活していれば、必要なことは覚えてくれるだろうと思いまして」
「…って、トイレにもついて来させたりしてたのか?」
呆れて問いかけたってのに、古泉は軽く首を傾げて、
「なにかおかしいですか?」
「………お前のそういうところには驚かされるな」
「ええ?」
心配そうに眉を寄せる古泉に、俺は小さく声を立てて笑って、
「別に、だからって愛想尽かす気はないから安心しろ」
と肩をぽんと叩くと、その手を取られて抱き寄せられた。
「おい…」
「これくらいならいいじゃないですか」
「って……お前のまねばかりするちびたちがこっちを注視してるんだが?」
どこかで真似されたり、吹聴されたりすると非常にまずい。
「つぶらな瞳がまっすぐにこっちを見つめてくると、若干の罪悪感があってだな…」
「罪悪感だなんて言わないでください。…あなたと僕の関係は、そんなにも罪深いものですか?」
「…そうは言わんが……というか、あるだろ? 小さい子供なんかに、性の匂いがするような行為を見せたくないってのは、大人として」
「僕にはよくわかりませんけど……あなたがそう言うのでしたら」
そう言って、古泉は残念そうに俺を解放した。
やれやれだ。
…俺だって、抱きしめられるのが嫌ってんじゃないんだがな。
小さくため息を吐き、
「それはそうとして、そいつのことはなんて呼んでるんだ?」
と聞くと、
「え? ああ、まだ言ってませんでしたっけ。わん古と呼んでますよ」
「……は?」
さらりと言われたが…なんだって?
「ですから、犬なのでわんこ……で、僕そっくりなので古泉の古を取ってて……」
わん古、と。
「……名前か? それ」
呆れて呟くと、古泉が恥ずかしそうに頬をかすかに染めたのが妙に可愛く見えて、俺は思わず自分の頭を壁に打ち付けた。
本気で俺はどうかしてる。