眠り月

穏やかな日を


夏休みの朝は、とても穏やかなのに、ちょっとした寂しさから始まる。ふと気が付くと、隣から温もりがなくなっていて、その寂しさで目が覚めるのだ。
俺は手探りでその温もりを探し、それでも見つけられなくて目を開ける。
隣には痕跡しかない。
「………くそ…」
唸りながら、俺は起き上がり、ベッドから落ちるようにして下りた。
昨日はあれだけ静まり返っていた家の中に、今日はいろいろな音が響いている。
電気製品が動いている音なら、冷蔵庫の音や洗濯機の音、それからコーヒーメーカーが立てる音。
テレビの音もする。
料理をする音も。
それから何より、ぱたぱたと歩き回る音が愛しい。
俺は寝室を出て、その足音のする方へと早足で向かった。
足音の主は台所でいそいそと働いていた。
なんというか………。
「……ファンの女の子が見たら泣きそうな甲斐甲斐しさだな」
「おや、おはようございます」
くるりと振り向いた古泉はチェック柄のエプロンまでしていた。
「……はよ」
「もう少し寝ててもいいんですよ?」
「いい」
短く言って俺は椅子に腰かけた。
「……俺にもコーヒー」
「あなたはミルクにしておいてください」
意地悪のつもりではないのだろうが、からかうように笑いながら言われるとやっぱり面白くない。
むっすりとむくれた俺に、古泉は手早く冷たいミルクをよこしたのだが、
「…これ……」
「少しくらいならいいでしょう?」
そう古泉が笑ったように、ミルクにはかすかにコーヒーが混ぜてあった。
真っ白いはずのミルクがほんの少しだけ茶色を帯びていて、コーヒーの香りだけがする。
飲んでみても苦みはほぼない。
ほんの少しの苦みが優しくて、古泉そのものみたいだと思った。
「……おいしい」
「それは何よりです」
そう言って、古泉は調理台の方へと向き直り、
「今、朝ご飯を作ってますから」
「手伝おうか?」
「いいですよ。座って待っていてください」
……そりゃあ、俺が手伝えることなんか、たかが知れてるだろうしな。
「僕があなたのために作りたいんですよ」
そう言って調理してる手際は案外いい。
「…料理、うまいよな」
「練習したんですよ。前はろくに作れませんでしたから。…でも、せっかくあなたをお招きするなら、おいしいものを食べてほしいじゃないですか」
「……ありがとな」
照れくさいが嬉しいのは事実で、素直にそう返すと、古泉は楽しそうに料理を続ける。
そうして出来上がったのは、きつね色に焼けたトーストとふわふわしたオムレツ、カリカリのベーコンもブロッコリーのサラダもおいしそうだ。
「立派なもんだな」
感心して呟くと、古泉は恥ずかしそうに、
「いえ、簡単なものばかりですよ。……昼と夜はもう少し張り切りますから。昨日は結局外食になってしまったでしょう? その分も」
外食になったりしたのは、買い出しに行く間もなく慌てて帰ってきてくれたからであり、その後も買い物に行けなかったのは俺が古泉にしがみついたまま眠り込んでしまったからなのだが、申し訳なさそうにそんなことを言う。
「手伝えることがあるなら、手伝わせてくれよ。世話になるばかりじゃ悪いし、俺だってお前に何かしてやりたいんだからな」
「ありがとうございます」
一緒にテーブルについて、一緒に朝食を食べる。
それだけのことが幸せでならない。
何気ない会話すら嬉しい。
「そういえば、」
と口を開いたのは古泉だった。
「妹さんはお元気ですか?」
「ああ、元気も元気、毎日毎晩律儀に夜泣きしてお袋を参らせてるよ」
「おやおや……それは大変ですね」
「赤ん坊は泣くのも仕事のうちだろ。それに、いつかは落ち着くさ」
「面倒を見てあげたりはしてるんでしょうね。あなたのことですから」
「まあな。……育児休暇でお袋が家にいるのが増えた分、俺も家で過ごせるし」
これが勤務中で長期の留守となったりして、他所に預けられるのがまた面倒なんだ。
何しろそうなると、たとえ古泉が地上にいても会いに行くのが難しくなっちまうからな。
むっつりとしてそんなことを言ったら、古泉はにこにこ笑って、
「妹さんが生まれて、あなたはまたしっかり者になってきましたね」
「しっかりせざるを得んだろ。何も分からんわけでもないんだし、お袋が参っても困るからな。だが、」
と俺は小さく笑う。
多分、子供らしからぬ人の悪い笑みになっていると思うが、相手は古泉なんだからいいだろう。
「その分、甘えたいとも思うんだ」
「…それは……」
察しているのだろう古泉の顔がほんのりと赤くなる。
俺はにやにや笑いながら、
「お前なら、甘やかしてくれるよな?」
「…ええ、いくらだって、そうさせてください」
ではまず、と本当に嬉しそうに古泉は笑い、
「今日は何をして過ごしましょうか。せっかく早起きしましたし、出かけますか?」
「そうだな。…買い出しはいいのか?」
「ええ、一通りは手配しましたから。……でも、そんなにたくさんは買ってませんから、また何日かしたら、買い物に付き合ってもらえませんか?」
「んなもん、頼まれてなくてもついてくに決まってんだろ」
「ありがとうございます」
そう言った古泉が本当に嬉しそうで、俺は、自分がちっぽけなガキだってことも忘れて、古泉の頭を撫でてやりたいような衝動に駆られたくらいだった。
自分が子供だと言うことを忘れたいとは思わない。
それを利用している面だって大いにある。
だが、それでも、恋人としては古泉と対等でいたいような思いもあるのだ。
「その、古泉…」
「はい、なんでしょうか?」
律儀に手を止めて、古泉はまっすぐに俺を見つめてくれる。
「…さっき、甘やかしてくれ、みたいなことを言っておいてこんなこと言うのもおかしいかも知れないけどな」
と前置きをしておいて、続きがうまく口に出せない。
こんなことを言って呆れられたり……それで…その、なんだ?
ゲームやなんかじゃないが、好感度が下がったら、なんて思っちまったわけだ。
口ごもる俺に、古泉は優しく、
「どうしました?」
「………なんでも…」
「なんでもない、なんて誤魔化さなくていいですから、教えてください。あなたの思っていること、感じていることも全部、知りたいです。…全部、というのは欲が深すぎるでしょうけれど」
そんなことを言ってくれる。
やっぱりこいつの方が大人なんだよな、と当たり前のことを改めて感じながら、俺は少しうつむいて、
「俺は、お前に甘やかして欲しくもあるけど、お前と対等でいたいとも、思うから……お前が甘えたいなら、俺だって甘やかしてやるからな」
と言ったものの、今一つ言葉が足りないというか、意味が分からん。
どうしたものか、と考える俺に、古泉は柔らかく微笑して見せた。
「ありがとうございます。…僕は十分、甘やかしていただいていると思いますよ」
「そんなことないだろ」
「ありますよ。それに、あなたにわがままを言われたり、あなたが僕にしかできないだろう話を聞かせてくれるのも、実に嬉しいものなんです。……恋人の特権、でしょう?」
そんなことを恥ずかしげもなく言うんだから、本当に呆れる。
「…ばか」
小さく毒づいて、俺は精いっぱい手を伸ばし、古泉の頭を撫でてやった。
それから支度をして、古泉と二人で出かけた。
手を引かれて歩くなんて、それこそもっと小さい子供のようで恥ずかしいのだが、
「あなたが小さくて嬉しいことがここにもありますよね。こうして堂々と手をつないで歩けるんですから」
と古泉に嬉しそうに言われてしまっては、止めてくれともいえない。
せめて知り合いに会わないことを願いたい。
それにしても、だ。
「…お前と手をつないだりすると、お前との体格差が際立つな……」
「あなたはこれから大きくなるんですよ」
「だが、『あいつ』だってお前よりは小さかっただろ?」
俺が拗ねたように言うと、古泉はなんでもないように笑って、
「あなたが『あの人』と同じように成長するとは限らないでしょう? 僕よりも大きくなるかも知れません」
「…そうか?」
「ええ。……あなたが大人になるのが楽しみです。でも……同時に少し、怖くもなります」
そんなことを言って軽くうつむいた古泉の顔を、俺はじっと見上げた。
その言葉が嘘でないというような、不安げな顔に俺まで不安になる。
「古泉?」
「大人になったあなたが、今のように僕のことを好きでいてくれるという保証はどこにもありませんから」
「……んなもん、お前だってそうだろ」
お前がいつまでも俺を好きでいてくれるなんて保証はない。
だが、
「俺が信じたくて、勝手に信じてるんだ」
「…僕も、そうしますね」
そう言って、古泉は小さく唇を歪めた。
笑ったんだろうとかろうじて推測できるような形だった。
「それから……たとえあなたが一時的に僕を好きでなくなったとしても、また僕のところに戻って来てくれるのを信じます。信じて…待ちます。ですから、本当に危ないと思ったら、遠慮なく通報でもなんでもしてくださいね」
と最後だけは冗談めかして笑ったが、結構本気だろ。
「お前がそんな風に執着してくれたら、たとえ他に気になる奴が出来たって、あっという間にお前に惚れ直すに決まってんだろ」
ぎゅっと手を強く握りしめると、古泉がほっとしたように笑ってくれる。
「お前の作り笑いは好きじゃない。けど、お前が本当に笑ってくれたら、どうしようもなく嬉しいよ、俺は」
「…これは……また…殺し文句を言ってくださるものですね」
「こんなもんで殺されちまうのか? 頼りない司令だな」
からかうように笑ってやると、
「ええ、あなたには絶対に勝てません。勝ちたいとも思いません。……それくらい、あなたを愛してます」
それこそ息が止まりそうな殺し文句を寄越しやがった。