眠り月

今日もあなたに殺される


生徒が登校してくる標準的な時間、というのは学校によって違うものだろうけれど、どこでも大体、バスや電車の時間の都合から、少しだけ早いものの、部活の朝練でもない限り、大抵は朝のホームルームに間に合うぎりぎりの頃が多いだろう。彼もそういうタイプだ。
僕はというと、それよりほんの少し早めに登校するように心がけているから、彼と登校時に会うことは滅多にない。
あるとすれば僕が彼を待ち伏せしている時くらいだ。
それを少しさびしく思いながら、でも、わざわざ待ち合わせなどして周囲に知られてもまずいことがあるので、仕方なくいつものリズムを守って通学路を歩いていると、
「よう」
と後ろから何かをぶつけられた。
ぽすん、と柔らかい感触は、鞄のものだろう。
その声を聞くだけでにやけてしまっているのにな、と思いながら振り返った僕は、驚きに目を見張ることになった。
彼は茶色くて四角いフレームの眼鏡をかけていた。
「…何呆けてんだ?」
理由は分かっているだろうに、彼はにやにやして僕を見ている。
「あ………おはようございます」
そうとりあえず決まり文句を口にしておいて、僕は素直に問いかけた。
「目が悪かったんですか?」
「たまにな。普段はそうでもないんだが……」
よく分からない、と首を傾げると、彼は眼鏡の向こうで目を悪戯っぽく細めた。
「お前、驚き過ぎて素が出てるぞ」
「…っ、す、すみません」
慌てて取り繕おうとするけれど、どこがいけないのかよく分かっていない。
まずは落ち着こうと少し深呼吸をしていると、彼は楽しそうに、
「素の状態のお前ってほんと……」
と語尾を濁し、くっくっと喉を鳴らす。
「…意地悪言わないでください」
「ほらまただ」
「…………」
もう黙っておいた方が賢明な気がしてきた。
「へそを曲げるなよ」
知りません。
「……この眼鏡はな、というか、俺の目は、ちょっとばかりムラッ気が激しくてな」
不貞腐れていると、彼がそう説明を始めたので、僕は彼を見た。
彼はゆっくり歩き始めながら、それでも僕を見ていて、なんだかくすぐったい。
僕も隣に並び、彼の説明を聞く。
「目を使いすぎたりして、神経が疲れると、だれでもピントが合いづらくなったりするだろ? あれがちょっとばかり酷いんだ。疲れると乱視かってくらいピントが合わなくなるんで、そう言う時だけ眼鏡の世話になってる」
「そうだったんですか…。……昨日はそんなに目を酷使したんですか?」
「ん…まあな」
と濁した彼をじっと見つめていると、困ったように笑って、
「……ちょっと、勉強し過ぎたらしい」
「勉強…ですか?」
「ああ。慣れないことをしたからか眠りが浅くて、早起きしちまったから、早めに出てきたんだ」
なんだか彼らしくない、と思ったのがばれたらしい。
「…俺が勉強しちゃ悪いか?」
と拗ねたような言葉が返ってきた。
「いえ、そんなことはありません」
けど……どうしてだろう?
「というかだな、俺が勉強が嫌いなのは、この目のせいもいくらかはあるんだぞ。家でまでちまちま勉強なんかしてたらすぐにこれだからな」
「本当ですか?」
「おう」
と言いながら笑ってるのは、それが半分くらい冗談だという証拠なんだろう。
僕も一緒になって笑うと、彼はじっと僕を見て、
「で、お前は嫌いか?」
「え?」
「眼鏡」
「……いいえ」
むしろ好きだと思うくらい、彼は眼鏡がよく似合っていた。
眼鏡を掛けると賢そうに見えるものだと思うのだけれど、彼の場合は、どこか悪戯っぽく、可愛く見える。
目を細めた僕に、彼は満足そうにうなずいて、
「これからは眼鏡の世話になることが多くなるからな。嫌いじゃないならよかった」
「え?」
それはつまり、これからは勉強を頑張るということだろうか。
でも、どうしていきなりそんな心境の変化が起きたのだろう。
「この前ちょっと模試を受けに行ってみてな。やっぱりあんまり芳しくなかったんだ。……月並みだが、やっぱり一緒の大学に行きたいとは思うから、俺も必死なんだ」
照れくさそうに言って顔を背ける彼に、僕はまたしても首を傾げる。
「一緒の大学って………」
誰と、と問う前に彼は振り返り、少し赤い顔で僕を睨んだ。
「お前と、だからな。…というかだな、今更わざわざこんなこと言わせるな。それくらい省略させろ」
不貞腐れる彼に、僕は今日も殺される。
「なんですかその殺し文句…」
「うるさい」
恥ずかしくなったんだろう。
真っ赤になった耳だけを見せて歩き去ろうとする彼に、
「待ってくださいよ」
と声を掛けながら追いかけるのも楽しい。
どうせ今の時間帯なら、人通りもあんまりないんだ。
彼の腕を掴んで、引き寄せて、一瞬肩が触れ合った隙に、
「好きです」
と囁いたら、彼はこの上なく赤い顔をして、それでも笑ってくれた。
気をよくした僕が、
「どうせなら、一緒に勉強しませんか?」
「……いつ、どこで」
「放課後、部室で…というのは怒られるでしょうか」
「知らん。そんなもんはハルヒに聞け」
「そうですね。許可が得られたら部室で。もしだめでしたら、部活の後、僕の部屋で…というのは?」
彼は僕の手を振りほどき、
「ちゃんと勉強させろよ」
と言ったけれど、
「本当に言葉通りに受け取っていいんですか?」
僕の部屋で勉強道具を広げ始めた彼にそう尋ねると、彼は拗ねた子供のような顔をして僕を睨み、
「勉強しなきゃまずいって分かってんだろ」
「それは……まあ、そうですね。少しは…」
「少しで足りるか。大体、お前の志望校つったらあそこだろ」
と言って彼が挙げた名前に僕は首を傾げた。
そんなレベルの高いところを志望した記憶はない。
というか、そんな名前を口にしたこともないはずなんだけれど。
「誰からの情報です?」
「は? …お前の担任がなんか言ってたんだが……」
ああ、なるほど。
「それは勝手に言っているだけですよ。僕としてはもう少し近くて学費の安いところがいいです」
「はぁ? なんでだよ。勿体ない。…俺のためだって言うなら……」
「違いますよ」
皆まで言わせずに、僕は笑った。
「この町が、好きなんです」
「……なんだそりゃ」
「思いがけずここに住むことになった僕は、いつまでここにいるか分からない気持ちでここに来ました。…でも、ここで暮らすうちに、ここにいたいと思うようになったんです」
照れくさい気持ちでそう口にする。
なぜなら、この町の良さを知ったのも、ここが居心地のいい場所に思えるようになったのも、彼がいてくれたおかげなんだから。
「涼宮さんは、高校を卒業したらきっと、もっと広い場所を求めて他の土地に行くでしょう。でも、そうなっても僕は、彼女と同じ土地に行くことではなく、ここにいたいと思うんです。…それは、おかしなことでしょうか」
「……おかしくは、ない…な」
そう言っておいて、彼はうつむいてしまった。
僕は何かまずいことを言っただろうか。
「…あの……?」
「けど、な」
赤い顔で、彼はうつむいたまま、とても小さい声で、
「…そうしたら、一人暮らしなんか出来ないし、同居も出来んぞ」
なんてことを呟くから、
「……あなたと来たら………全く…」
僕の顔まで熱くなる。
赤くなる。
「…一日に何度、あなたに殺されるんでしょう」
「は…?」
「一体何度、あなたに惚れ込んだらいいんでしょうね?」
笑いながら彼を抱きしめる。
案外華奢な体を折れないように気を付けて抱きしめ、彼の優しい匂いを吸う。
「ちょ、こ、古泉…っ! 勉強……」
「後にしてください。今は……あなたを抱きしめていたい」
「………なんなんだよ…」
「我慢出来なくなりました。…あなたが好きです」
「……うん」
「一緒に暮らしたい、なんて、思ってくださってたんですね」
「わ…悪いかよ……」
居心地悪そうに少しもがく彼の手足を押さえつけて、頬をすり寄せる。
「嬉しいです」
それだけでは足りなくて、
「愛してます」
と告げて、彼に口づける。
「あなたと二人暮らし、なんて素敵ですね」
「……けど、お前はこっちに住み続けるつもりなんだろ? 市外にすら出ないのに、家から出られるかよく分からんぞ」
「大学生になったんだから、という理由で独立させてもらうという方法もあると思いますし……それに、そうですね。あなたと一緒に暮らせるのでしたら、遠くの大学でも悪くはありませんね。あなたがいてくれるならきっと、その町も好きになれると思いますし」
だから、と僕は冗談めかして笑って、
「せめて大学を卒業するまでは、見捨てず一緒にいてくださいね? そうでないと、大学を中退してでもその町を離れると思いますから」
「……あほか。訳の分からん脅し文句を言う暇があるんだったら、勉強させろ」
そう言っておいて、彼は僕の鼻に軽く歯を立てるようにして噛みついて、
「向こう五十年の計画まで一緒に立ててやるから」
と囁いた。