眠り月
煌 第六話
朝起きて、彼が起きてくるのを待って朝食をとり、それから外に出て彼がマナを感じようと瞑想したり、木の様子を見て回るのを邪魔にならないくらいの距離で見守る。昼になったら家に戻り、ハルヒさんたちと一緒に食事をし、午後からは彼女らと一緒に彼が練習をするのを見つめる。
日が暮れる前に薪を集めに行ったり、風呂の支度なんかをして、少しは家事にも貢献した上で夕食の時間を迎え、ゆっくりと話しながら過ごした後に彼と同じベッドで眠る。
それが、規則正しいリズムとして体に馴染み始める頃には、彼は僕以上にこの暮らしに慣れ親しんでいた。
笑顔を見せることが増え、声を立てて笑い、楽しそうに過ごしている。
それなのに……どうしてだろう。
僕と目があったり、僕と二人きりになると彼は黙り込んでしまうのだ。
それが酷く悲しくて、苦しい。
彼とこんなに近くにいて、穏やかに過ごせているはずなのに、そうであるほどつらくなる。
彼は、同じ人間の方がいいんだろうか。
そうでなくて、彼女の方がいいということかもしれない。
考えないでおこうと思っても、そんなことばかり考えてしまう。
そのせいだろうか。
ある日の昼食時に、彼が不意に、
「…古泉、お前、最近核の輝きが鈍ってないか?」
と言って僕を驚かせてくれた。
「そうですか?」
「ああ。……調子でも悪いのか?」
「いえ…そんなことは……」
「………とてもそうは見えんから聞いたんだが?」
低く唸るように言われて、それでも僕は、正直に答えることなど出来ない。
「自分で気になるようなことはありませんね。…それとも、あなたから見ると、僕はどこかおかしいでしょうか」
「……」
むっすりと黙り込んだ彼だったけれど、僕から目を背け、握りしめたスプーンに視線を落とした上で、小さく呟いた。
「どうせ俺が癒せるのは、見た目の傷だけだからな」
「え…?」
彼の言葉の真意が理解出来なくて戸惑う僕に、彼は何も教えてはくれなかった。
そんな、どこか重苦しくて辛気臭い空気を追い払おうとしてか、午後の講義でハルヒさんはマナの樹についての話を始めた。
「全てのものがマナの女神と、その眠っている姿であるマナの樹から始まったってことくらい、あんたも知ってるでしょ? 何もかもがマナの女神から始まったってことは、全てにマナの力は含まれてるってことなの」
「だが、マナの樹なんて本当にあるのか?」
もっともな問いかけに、彼女は少し考えた。
「この世界にあるのかどうかは分からないわ。あるいは別の次元にあるのかも知れない。今はまだないってことも考えられる。でも、かつてあったってことは間違いないんじゃないかしら。樹そのものが失われても、この世界はなくならなかったし、今も続いてる。マナの力もまだあるわ」
でも、と彼女は少しさびしそうに呟いた。
「マナの力は弱り続けてる。この世界が壊れ始めてるからこそ、マナの樹も弱ってきてるってことなんでしょうね。……だけど、そうやって壊れるってことは、新しいことが始まるってことだと思わない?」
「……そう言う面もあるだろうな」
「だからあたしは、これからが楽しみで仕方ないわ。壊れて、新しいものが始まるのが」
そう笑って結んだ彼女は強い。
徹底的に壊れて、本当に新しいものが始まってくれるのかと恐れるような気持はみじんもないようだった。
「新しく始まる兆しが、マナの力かも知れないわ」
と彼女は言う。
「小さなものが寄り集まって全体を作る。でも、小さなものは同時に全体でもあって、ただの部分なんかじゃない。マナの力を知るのは、大きな世界を知ることでもあるし、自分自身を知ることでもあると思う」
「…お前の話を聞いてると余計に訳が分からなくなるがな」
そう文句を言いながらも彼は静かに目を閉じ、瞑想する。
マナの力を感じられるようになるにはそれがいいと彼女が提案したので、ずっと続けているのだ。
「あらゆるものを感じて。女神はどこにだっている。あたしたちが良いと思うものにも、悪いと思うものにも」
邪魔にならない程度の静かな声で彼女が言い、少しずつ彼の核の輝きが強まっていく。
それを見ながら、僕は自分が不要なものにしか思えなくなって、少し、悲しくなった。
ここは本当に安全な場所であるらしく、危険らしいものはまるで感じられない。
ここにいれば彼はきっと安全だ。
それなのに…僕がいる必要はあるだろうか。
ずきりと胸が痛んだ。
その時だ。
「……ん?」
と彼が小さく声を上げ、首を傾げつつ目を開いた。
「どうしたのよキョン」
「いや、今なんか…………」
そう言いながら彼は僕の方に目を向ける。
立ち上がり、こちらに歩いてくる。
そして、僕の核にそっと触れてきた。
「っ…!」
核なんて、人に触れさせるものではない。
触れるものでもないと、分かっているはずだろうに、彼はためらいなくそうした。
僕の核を優しく撫でて、
「傷は……ない…よな、やっぱり。だが……なんでだ? お前が痛がってる気がした」
その言葉に、思わず彼を抱きしめそうになるのをぐっと堪えた。
胸が痛い。
苦しい。
彼が側にいることが、つらい。
「……うん、やっぱりお前、調子が悪いんだろ。無理せずに休めよ」
そう気遣ってくれるのが嬉しいのに、苦しい。
僕はやんわりと彼の手を自分の核から引き剥がし、
「…そうですね、少し休ませていただきます」
と言って彼から離れた。
いや、彼から逃げ出したのだ。
彼が優しくしてくれるのに、それさえ今の僕には苦痛になるなんて、どうしたらいいんだろう。
部屋のベッドに逃げ込み、僕は体を小さくする。
何もかもが嫌になった。
自分の弱さも彼の優しさもこの場所も全てが。
だから……僕は決めた。
どれくらいの時間が過ぎたんだろうか。
小さな音を立ててドアが開いたと思うと、布団の上から彼の声がした。
「大丈夫か?」
「……ええ…」
「…そうか。なら、いい」
短く言って、彼はぐるりと回り込むようにして、ベッドに座った。
「……俺…隣に居ない方がいいか?」
「そんなことはありませんよ。…もう、寝る時間ですか?」
「ん…」
「どうぞ」
布団を軽く持ち上げると、彼は背中から入ってきた。
僕と顔を合わせたくないのだろうか。
…なんて、思ってしまうのは被害妄想もいいところだし、そろそろ本気で病気の領域に入りつつあるということは分かるのに、核が痛む。
僕に背中を向けたまま、彼は小さく告げた。
「…マナの力とか……なんとなく、分かった気がする。いきなり自分の目が開いたみたいで、ちょっと怖いけどな」
「怖い…ですか?」
「いきなり見えるものが増えたみたいな感じがすると、怖くないか? …それまで自分がどれだけ物を見れてなかったのかってことも分かって、そっちも怖いな」
そう言って少しの間黙り込んだ彼は、消え入りそうな声で、
「……お前が痛がってたのに気づけなくて、悪かったな」
僕は、それにどう答えればよかったんだろう。
その声が小さかったのをいいことに、聞こえなかったふりをしてしまった。
「今、なんと仰ったんです?」
「…なんでもねえよ。おやすみ」
ぶっきらぼうに言って、彼はそれきり黙った。
少しして、彼が寝息を立て始めたので、僕はそっとベッドから抜け出した。
余計な音を立てないよう慎重に階段を踏み、一階に下りると、ハルヒさんはまだリビングにいてくれた。
「古泉くん、もういいの?」
そう気遣ってくれる彼女に、僕は苦笑だけを返した。
「…お願いがあるんです」
「なに?」
「……僕だけ、この森の外に出してもらえませんか」
僕が言うと、彼女は予想でもしていたのか、静かな声で、
「……理由を聞かせてもらおうかしら」
「…ここなら、彼は安全でしょう? 彼を守る騎士なんて必要ないはずです。むしろ、彼のことを思うなら、僕は彼の側にいない方がいい。そうすれば、彼は涙を流すこともなく、長く生きられるでしょう」
だから、と言おうとした僕に、
「本当のことを言わないと、外に放り出してなんかあげないわよ」
と彼女は言う。
「正直に言いなさい」
厳しく問われて、僕はため息を吐いた。
「……聞いても不快なだけだと思いますよ」
「誤魔化される方がよっぽど面白くないわ!」
と断言されては、白状するしかない。
「……彼といると苦しいんです。ずっと前からそうでした。それがいよいよ酷くなってきたので、彼から離れたいと思うんです。彼のことはあなたにお願いします。…僕をどこかよそへ行かせてください」
端的に言ってしまえばそういうことだと吐き出した時だった。
「ま……っ、待てよ、このばか!」
と泣き出しそうな怒鳴り声が聞こえ、驚いた。
振り返ると、階段の途中から彼が身を乗り出して僕を睨んでいるところだった。
「あ……」
見つかってしまった、とうろたえている間に、彼は残る数段を飛び越えるようにして、その勢いのまま駆け寄ってきた。
押し倒されそうな勢いで抱きつかれ、よろける。
彼はきつく僕を抱きしめ、
「置いてったり、す、んな、ばか…」
と僕を罵る。
「…すみません、でも……もう…つらいんです…。僕では、あなたを守れない。あなたの側にいる資格もない。その程度の男のことなんて、忘れてください。騎士が必要とのことでしたら、ハルヒさんが引き受けてくださったら問題ありません。騎士は珠魅でなくても務められるものですし…」
「そうじゃない!」
と彼は怒鳴った。
いや、喚いた。
「お前と一緒にいなくて、なんの意味があるんだ。騎士と姫だからじゃない。俺は……お前といたくて…珠魅になったのに……!」
「え……?」
何を言われたのか、理解できなかった。
珠魅になった?
気が付いたらなっていたというだけじゃなかったのか?
それに、僕といたくてというのはどういうことだ。
混乱の極みにある僕に、静かな声が告げた。
「…見ていなかったのはあなたも同じ。知りたかったなら、珠魅同士ならばすぐに理解できたはず。それを拒絶したのはあなた。あなたが心を閉じていたからこそ、彼の気持ちも理解出来なかったし、自分の言動の何が彼を傷つけてしまったのかということすら分からなかった」
「有希さん…」
実験室から出てきたらしい彼女は、その透き通った美しい瞳で僕を見つめた。
その姿はまるで断罪者そのもののようだ。
「彼はあなたを見ていた。あなたを知りたがっていた。ただの好奇心や興味が理由でなく、彼はあなたと同じになりたがった。それをあなたが拒んだから、彼は傷ついた。それでも彼はあなたに近づこうとするのに、あなたが逃げ出すの?」
「そん…な……」
そんなことはあるはずないと思うのに、僕を抱きしめたまま有希さんを振り返った彼は、この上なく真っ赤な顔をして、
「なっ、ちょ、有希! 勝手にばらすな! 後なんで知ってるんだ!?」
と怒鳴っている。
有希さんは涼しい顔で、
「見ていればそれくらいのことは私にも分かった。分かろうとしなかったのは…」
と僕を見つめる。
僕はどうしたらいいのか分からないような気持ちで彼を見つめる。
「…本当……ですか…?」
彼は泣き出しそうに顔を歪めながら、それでもはっきりと頷いた。
「…分かってなかったのは、お前くらいだろ」
大体、と彼は唸るように呟く。
「お前が、どんなに俺が一緒にいても、何か話しかけようとしても、自分はただ一人きりで孤独だって顔してるから、悪いんだ。そうじゃなかったら、俺だってもっと、お前に何かしてやるなり、その根性を叩きなおしてやるなり出来たのに、お前は何しても無駄だって風にしか、見えねえし…」
「…泣かないでください」
「泣かねえよ!」
怒鳴り返して、彼は僕を睨んだ。
「…俺はもう、お前が怪我した時以外、泣かないって決めたんだ。それから、何があってもお前といるって、決めたんだから、置いてったり、すんな…」
「そう…だったんですか……?」
「勝手に決めて悪かったな」
だが、と彼は僕の背中に回した腕に力を込める。
「離さないからな…」
そうしておいて、彼は有希さんを振り返り、
「これだけは、絶対にお前がばらすなよ。俺が…自分でちゃんと言うから」
「…そう」
…いったい何を言うつもりなんだろうか。
首を傾げていると、彼は僕を見つめ、小さな声で告げた。
「……俺は、お前が好きだから」
「……え…」
「お、お前は嫌かもしれないが、だが、俺は…お前が好きで、だから、珠魅になりたいと思ったし、お前のために泣いたりもしたんだ。だから……だか、ら…俺のことを置いて行ったり…するな…。しないで、くれ…」
そう言って彼は僕の核に頬を寄せる。
「泣かないでください」
「泣かねえって、言っただろ!」
「でも、泣き出しそうに見えます」
「…誰のせいだ……」
「……ごめんなさい」
謝って、僕は彼を抱きしめ返した。
「…僕も、あなたが好きです。好きだからこそ苦しくて…逃げ出そうとしました。……すみません」
「……馬鹿野郎…!」
という言葉と、核へのキスが彼の返事だった。