眠り月

煌 第五話


一通り素振りを終えた僕は、座り込んだまま静かにしている彼に、「…起きてますか?」
と小さく声を掛けた。
「寝てねえよ」
「失礼しました」
むっすりと不機嫌な顔を上げた彼は、
「終わったのか?」
「ええ。…どうします? 家の中に戻りますか? それとも、この近くを歩いてみます?」
「…そうだな、少し歩くか」
ゆっくりと立ち上がった彼が歩き出す。
僕はその隣を歩きながら、家の周りを見回した。
昨夜はよく見えなかったけれど、森の中でここだけ開けているからか、他の場所とは少しばかり植生も違うようだ。
明るい光が注ぎ、生い茂った木々は果物を実らせているようだ。
「おかしな森だな」
と彼が呟いた。
「そうなんですか?」
「ああ。…オレンジとリンゴとブドウが同じ土地に生えて平気で育ってるなんておかしいだろ」
「ああ…言われてみればそうですね」
「ハルヒが何かしたのかもな」
ため息のように呟いておいて、彼は愛しげに木々を見つめた。
「……やっぱり、木が好きですか?」
「……そう…だな。長いこと一緒にいたし……」
というのは、彼が珠魅になる前には、ちょっとした果樹園で手伝いをして生活していたからだ。
木々の世話をし、果物を収穫し、それを売りに行くのが彼の仕事だった。
そんな穏やかで、自然と共に暮らしていく生活を彼から奪ってしまったのは僕だ。
「……恨んでますか」
ぽつりと弱音を吐き出すように呟いた言葉を、彼の耳はちゃんと拾ってくれたようだった。
「んなことねえよ。大体、お前のせいじゃないだろ」
「しかし、あの時、僕のために泣いたりしなければ…」
「うるさい。木の声が聞こえないからお前はちょっと黙ってろ」
そう言って僕を黙らせ、彼は傍らの大きな木に抱きつくような格好で、耳をその幹に当てた。
そんな風にしているのを見ていても、そうして抱きしめられるのが僕だったら、なんて思ってしまう。
同時に罪悪感に押しつぶされそうになりながら。
…これだから、僕のどうしようもないこの感情は始末が悪い。
僕は彼の姿を見つめながら、彼と出会った時のことを思い返していた。
最初は彼をただのお節介な人だと思い、鬱陶しいと思ったし、苦手な人種だとも思ったはずなのに、どうしてここまで愛しくなってしまったんだろう。
小さくため息を吐いたところで、彼が優しくぽんと幹を叩き、体を離した。
「ここの木は元気だな。…これも、マナの力が濃いからか?」
「そうですね、おそらくはそうなのでしょう」
「…お前には、その力ってのがあるのかどうか、分かるんだな?」
そう確認してきた彼に、僕は小さく笑みを向け、
「ええ。…いうなれば、あなたにとっての空気と同じようなものですよ」
「……空気は目に見えんぞ」
「ええ、マナも見えません。でも、空気があるのは分かるでしょう? それと同じです」
「……分からんな」
難しく顔を歪めて、彼は唸った。
「空気と同じようなものだとしたら、なんでそれを感じられる人間と感じられない人間がいたりするんだ?」
「それは多分、空気よりも当たり前に存在するからではないかと思います」
「は?」
「当たり前すぎて、存在することにすら気づけないんですよ。だから、それが少なくなっていることも分からない人が多いんでしょう」
「……俺にも分かるようになるか?」
「きっと」
「…そうか」
じゃあ、と彼は僕の隣を行き過ぎ、
「ハルヒに頼みに行かんとな」
と呟いたのも当然のはずなのに、核が小さく疼いた。
家に戻ると、いい匂いがしていて、
「おかえりっ! そろそろお昼にするわよ」
とハルヒさんが迎えてくれた。
献立は昨日のスープの残りと、あぶったパンがメインだけれど、今度は瓶詰の野菜が添えてあった。
「実験はひと段落したんですか?」
と聞いてみると、
「ん、まあね。…でも、なかなか難しいわ」
唇をへの字に曲げて、彼女は軽く腕を組んだけれど、
「それより今はおいしいご飯のことを考えましょ。昼食をとりながら考えるのおかしいけど、夕食の希望があるなら聞くわよ」
と明るく笑って、僕たちを座らせた。
今日は、彼は僕の隣に座ってくれたけれど、なんだか落ち着きが悪そうに見えるのは、僕の気のせいだろうか。
不安を覚えながら、それを顔に出さないように気を付けて、僕はそろりと口を開いた。
「ハルヒさん、少しお願いがあるのですが……」
「何? 夕食の希望?」
「ではなくてですね、」
と僕は少し苦笑して、
「彼に、マナの力の感じ方を教えてほしいんです」
と端的に希望を述べた。
「どうして? 珠魅なら分かるんじゃないの?」
「それが…彼はまだよく分からないようでして……。僕で教えてあげられるものでしたらいくらでもそうするのですが、僕にとっては空気も同然で、教えづらいものがありまして」
「それであたしにってことね」
「その通りです」
「そうねぇ……」
と彼女は腕組みをして彼を睥睨する。
「…あたしでいいの?」
「……こいつが教えられんのなら、お前しかないだろ」
「それもそうね。…いいわ、実験の合間にちょこちょこ見てあげる」
そう彼女が笑っても、彼の表情はどこか晴れず、
「ああ、よろしく頼む」
とどこか上滑りするような調子で返しただけだった。
どこかぎこちなく、違和感のある空気に首を傾げつつ、
「よろしくお願いします」
と言い添えておいた。
食事が始まっても、もっぱら喋るのは僕とハルヒさんか彼とハルヒさんであり、有希さんはずっと黙り込んでいるし、僕と彼の間には会話らしいものもない。
というよりも、一番よく喋るのがハルヒさんだったということなんだろう。
「古泉くん、年は忘れたって言ってたけど、生まれたころってどんなことがあったの?」
といきなり質問されて僕は苦笑しつつ、
「そうですね……。あの頃は確か………ああ、そうでした、木馬王が活躍していたころだと思います」
「ふむ…ざっと四百年は前ってことね」
「そうなりますかね」
「じゃあ、もしかしてアニュエラに会ったこととかもあるの?」
「アニュエラ……ああ、伝説の大魔女ですか? 七賢人の一人と言う…」
「そう、そいつ!」
大魔女をそいつ呼ばわりすることに驚いたものの、彼女らしいと笑って、
「流石にお目にかかったことはありませんね。……すぐに珠魅狩りが激しくなりましたから」
「…そうね。珠魅狩りなんて無意味なことを何百年も続けてるなんて、ほんと、馬鹿げてるわ」
「……ではお聞きしますが、あなたは本当に核が欲しくないんですか?」
あえて挑発的なことを尋ねると、隣で彼が驚いたのが分かったけれど、彼女は少しも動じなかった。
「要らないわね。核だけ持っていてどうするっていうの? 珠魅の核が一番美しく輝くのは、その胸にある時でしょ」6
あっさりとそう言われ、僕は笑みを苦笑に変える。
「誰もがそう思ってくれるならいいんですけどね」
「ちなみに、古泉くんの核は何て呼ばれてる石なの?」
「石の名前でしたら、ビビアナイト。蘭鉄鉱とも言いますね。石としての通称は知りませんけど」
「ふぅん…。キョンは?」
と彼女が彼に問いかける。
一瞬、僕が代わりに適当なことを言って誤魔化そうかとも思ったけれど、彼の判断にゆだねることにした。
彼は迷うように僕を見た後、彼女を見つめなおし、
「……俺のは…涙石だ」
「涙石…って、珠魅を癒すっていう?」
ああ、と頷いておいて、彼はじっと彼女の目を見つめた。
彼女がどんな反応を示すか、静かに観察しているようだった。
その彼女はと言うと、きらきらと目を輝かせて、
「涙石からも珠魅が生まれるってことは、珠魅も繁殖するってこと?」
と聞いてくる。
「いや、そうじゃない。…というか、お前が興味を示すのはそこなのか」
「だって、気になるじゃない。珠魅と他の種族の大きな違いって言ったらそこでしょ?」
「まあ、そりゃそうだが……」
「で、そうじゃないならどういうことなの? 涙石って通称で呼ばれる石だってこと?」
「いや、本当に涙石だ。……俺は、もともと人間なんだ」
「人間? つまり、珠魅じゃなかったって意味?」
「ああ」
「そんなことがあるの?」
「あったんだから、そうなんだろ」
「なんであんたは珠魅になったの?」
「…俺にもよく分からん」
そう言って彼がそっぽを向いてしまったので、僕は彼女に、
「他の種族が珠魅になるという例も、極稀にではありますが、存在するそうですよ。たとえば、核だけになってもなお強い力と意識を保った珠魅が、自らの選んだ人間と同化するということがあると聞いたことがあります」
「ふぅん…興味深いわね。そうだわ、そもそも、珠魅と直接話をして、色々教えてもらえるっていうことがまず珍しいのよね」
「珠魅は隠れ住んでますからね」
「噂だと、他の種族と関わってはいけないっていう決まりがあるんだっけ?」
「そうなのですか? 僕はあまり、一族というものを意識しないできたので、そういったしきたりには詳しくないんです」
「噂だから違うかも知れないわ」
「どうなのでしょうね。……ただ、珠魅が狩られる時代ですから、他種族との関わりを避けるのは当然のことでしょうし、狩られることを恐れるからこそ、珠魅は排他的なものですからね。十分考えられるしきたりかと」
「古泉くんはどうなの? あたしたちと関わりたくなかった?」
「捕まえておいてそんなことを聞くんですか?」
と笑うしかない。
「正直に答えても構いませんか?」
「いいわよ、もちろん」
「では……当然、警戒はまだしています。…というより、これが僕の性分なんでしょうね。……他人を信じるのが苦手なんです」
「…そういうセリフも、古泉くんが言うとまるで口説き文句みたいに恰好がつくから不思議よね」
全然ピントのずれたコメントをされて、僕は目を剥いた。
「どうしてそうなるんです?」
「あたしはそうじゃないって分かるわよ。でも、うかつにそういうことは言わない方がいいわね。若い女の子になんて、絶対に言っちゃだめよ。古泉くんみたいなちょっと翳のあるいい男がそう言うこと言うと、ころっと参っちゃうのが多いんだから」
「……よくわかりませんが、ご忠告には従わせていただきますね」
ところで、と彼女は彼に話を振った。
「元は珠魅じゃなかったってことは、あんたは何をしてたの?」
「俺は特になんの取り柄もないからな。果樹園の手伝いなんかをしてた。あいにく、気が付いた時には親もいなかったからな」
「あらそう。じゃあ、果樹にも詳しいのね?」
「…あんまり珍しいのじゃなけりゃな」
警戒するように彼は言ったけれど、彼女は気にした風もなく、
「だったら、うちの周りの木の世話も頼むわね」
「それくらいなら構わんが……」
「全然世話してないから」
「してなくってあれだけ育つのか?」
驚く彼に、彼女は当然のように答えた。
「これだけマナが濃ければ、木だって元気よ」
「そうなのか」
うーん、と少しの間唸っていた彼は、
「…それだけ言われると、マナの力っていうのがどんなものか、知りたくなるな」
「興味を持ったなら、分かるようになるのもすぐよ」
と彼女が保証すると、実際その通りになるように思えた。