眠り月

煌 第三話


台所からスープか何かを煮込むいい匂いが漂い始めてきた頃になって、外から羽音が聞こえてきたと思うと、窓辺から甘い花の香りが漂ってきた。誰か来たらしい。
「みくるちゃん、いらっしゃい」
と僕らの女主人が笑顔で迎えたのは、鳥のような脚と色とりどりの花々の翼をもつセイレーンの美少女だった。
セイレーンは普通海辺に住むものだけれど。
「こんな森の中に…セイレーン……ですか」
戸惑う僕にセイレーンは恥ずかしそうに頬を染めて、
「あたしは、海の近くは苦手なんです」
と言っておいて、
「あ…えっと、はじめまして。朝比奈みくるです」
とどこかおっとりとあいさつした。
警戒心というものを人に起こさせないタイプだけれど、だからこそ警戒してしまいそうになるのは、僕の悪い癖と言うものだろうか。
彼のように柔らかな笑みのひとつも見せて、
「はじめまして、キョンです」
なんて返せたらいいのに。
「…古泉一樹です」
と返すのがやっとだ。
それだって、彼が名乗ったからであり、そうでなければ黙り込んでいた可能性の方が高い。
ハルヒさんは満面の笑みで、
「みくるちゃんは凄いのよ! もう、そんじょそこらのセイレーンやマーメイドなんてぜんっぜん目じゃないんだから!」
と言っているけれど、それだけ歌が上手いと言うことなんだろうか。
セイレーンの美醜は歌の上手さによって決まるという話だから、彼女の美しさからして歌も相当のものなのだろうけれど、セイレーンの歌と言うものを聞いたことがないので、予想も出来ない。
「そんな……あたしなんて全然です」
と言っているのも謙遜なのかと思っていると、彼女は本当に困った顔で、
「あたし、歌が下手なんです。だから、他のセイレーンといるのはつらくて……。だって、一緒に歌っても、迷惑をかけちゃうだけでしょ? だから、他にセイレーンがいなくて、あたしの歌で迷惑をかけるような人のいないところに住みたいと思ってたら、この森を見つけたんです。そうしたら、気に入られちゃって……」
困った様子で言っているけれど嬉しそうな彼女の気持ちは、なんとなくだけれど分かった。
他の人といるのがつらいと思っていても実際一人になるのは寂しいことだし、そこで誰であれ必要とされ、そばにいることを許してもらえるのは嬉しいとか喜び以上のものになると、僕もよく知っていた。
それで、少しばかり警戒が緩んでしまったんだろうか。
「…お前にしちゃ表情が柔らかいな」
と彼に言われて驚いた。
「そうですか?」
彼はそうだとも違うとも言わずに、ぷいっと顔を背け、
「鼻の下を伸ばし過ぎるなよ」
なんて言ったけれど、心外だ。
「あなたこそ」
つい、拗ねた調子で言ってしまって後悔した。
これじゃ、あまりにも人に対して無警戒で、若くてきれいな女性と見るとにこやかにする彼に、その都度妬いていると白状するようなものだ。
なんとか取り繕おうと口を開きかけた瞬間、
「夕食が出来たから運ぶの手伝ってくれる?」
とハルヒさんに声をかけられて、失敗した。
…彼が気にしていないことを願う。
………いや、彼は気にしたりしないだろう。
そんな細かいことを気に留める人ではないし、僕が彼のことを想っているなんて、可能性を思い付くことさえしてくれないだろう。
気づいてもらえないのは虚しくもなるけれど、でも、だからこそこんな邪な僕が彼の側にいられるのかと思うと、彼の鈍感さに救われる面もある。
何事につけ、善かれ悪しかれ色々なんだよな…と珍しく、年寄らしいことを思った。
「綺麗な水があれば十分ですから」
と断ろうとした僕にも、
「珠魅でも食べれるのは食べれるんでしょ? どうせならみんなで一緒に食べた方がおいしいんだから、古泉くんも付き合ってよ」
という彼女の一言で用意された食事は、簡素ながらもおいしいものだった。
森の中でとれたのだろうキノコのスープにフルーツのシロップ漬け、硬くても味わい深いパンはどこかで買ってきたのだろうか。
彼もそう思ったのか、長い間咀嚼していたパンを飲み込んで、
「このパンはどこかで買ってきたのか?」
と独り言みたいにして呟くと、朝比奈さんが、
「時々あたしがお使いに行くんです。あたしだったら森の中で迷子になることもありませんし、ハルヒさんや有希さんと違って、誰かに見つかって困ることもありませんから」
なるほど、彼女が外界との連絡役ということか。
「それで、あなたに危険はないんですか?」
と彼が問うと、彼女は柔らかく微笑して、
「大丈夫です。帝国の人たちはセイレーンを怖がるか、歌うしか出来ないものだと思ってるから、警戒なんてされませんし…」
でも、と彼女は苦笑して、
「当然ですよね。あたしもずっと、自分に出来るのはへたっぴでも歌うことくらいだって思ってたんだもの。……でも、ハルヒさんたちと知り合って、お使いとかを頼まれるようになって、あたしでも役に立てるんだなって思えるようになったんです」
そう嬉しそうに言うと、ハルヒさんは、
「みくるちゃん、それは違うわ」
と力強く言った。
「役に立つかどうかなんて大事じゃないの。存在してくれるってだけでいいのよ。誰かの役に立つってことは、そのついでに存在するだけで、全然重要じゃないの」
「えぇ…?」
と朝比奈さんは戸惑っているけれど、それも当然だろう。
ハルヒさんの言うことは随分と突拍子もない。
存在するだけでいいなんて言葉、そうそう言える言葉でもないだろう。
でも彼女はいたって本気で、本当に大真面目にそう言っているようだった。
「誰だって、なんだって本当はそうなのよ。存在するだけでいいの。どんな人にもマナの力は与えられるし、誰だって自由だわ。それを変に歪めようとするかおかしくなるのよ。……あたしは賢人とは違うから、何をしたってその存在を認め、祝福するなんてことは言えないけど、でも、役に立たないってことは、余計なことをするよりもずっといいことだってことくらい、知ってるわ」
そう言ってパンをねじ切るようにしてかじった彼女に、朝比奈さんは嬉しそうなくすぐったそうな顔をしていた。
そんな少し変わった講義を含んだ夕食の後、僕たちは二階の部屋に案内された。
寝室に、というのはいいのだけれど、二人で一部屋なのは他に部屋が空いてないかららしい。
小さな家だから当然だろう。
おまけに家主であるハルヒさんも屋根裏部屋で有希さんと一緒に寝るのだと言われれば、文句も言えない。
彼と二人きりで眠るのもいつものことだと思ってみても、同じベッドでというのは珍しいことで、どきどきする。
邪な感情を彼に気づかれないように祈りながら、僕は身に着けていた鎧を脱ぎ、用意してもらった綿のローブに着替える。
彼の着替える音を聞かないように気を付けつつ、
「今日は不思議な日になりましたね」
と声を掛けると、
「そうだな」
と短い返事だけが返ってきた。
「……本当に、分からないものですね。こんなところで、望んでもいなかった助けを得られるなんて」
「…そうだな。……本当にこれで助かるかはよく分からんが」
「そうなんですよね……」
この森が本当に安全ならばともかく、昼間夢想したように、帝国がこの森を焼き払いにでもかかったならどうなるか分からない。
「……何があっても、あなたのことを守りますから」
そう僕が告げると、彼はかすかな不機嫌さを声に含ませて、
「だから、それでお前に何かあったんじゃ意味がないだろ。また大怪我でもするつもりか?」
「怪我で済むくらいならいくらでも」
「古泉」
咎めるような鋭い声に僕が振り返ると、彼はきつく眉を寄せて僕を睨んでいた。
「俺は自分を守るために誰かが傷つくところなんて見たくないって、俺に何度言わせたいんだ?」
「…すみません」
でも僕は、あなたを守り抜きたい。
たとえそのために核が傷つき、挙句の果てに砕け散ったとしても、あなたを守れるなら僕は構わない。
……そう、言えるならいいのに。
言えないまま僕はベッドにもぐりこみ、
「おやすみなさい」
と小さく告げた。
応えは聞こえなかった。
ずきずきと胸の核が痛む。
痛いんですと彼に訴えたら、彼は僕のためにまた泣いてくれるだろうか。
そんなことを考える自分が嫌で、僕は思考を手放すようにして無理矢理眠った。

翌朝も、いい天気だった。
気持ちよさそうに熟睡している彼を起こさないように部屋を抜け出した僕が一階に下りると、ハルヒさんももう起きていて、
「おっはよう、古泉くん!」
と元気な挨拶が来た。
今日は昨日のような怪しい服装ではなく、研究者らしい白衣を羽織っている。
その下はラフなシャツに膝上のショートパンツというのが少しばかり目に眩しいけれど、おそらく彼女にとって動きやすい服装というものなんだろう。
「おはようございます」
と返した僕に、
「疲れてるんだったらまだ寝ててもいいのよ?」
と言ってくれるくらいには、彼女も優しい人なんだろう。
「疲れは特に感じませんから」
「そう」
「ところで、昨日聞きそびれたことをお聞きしても?」
「いいわよ。なに?」
「この森のことです」
「森?」
「…どうしてここはこんなにも清浄なんでしょうか」
「……多分、ここが特別な場所だからね」
答えになっているのかどうかよくわからないことを言って、彼女は僕に椅子を勧め、自分も向かいの席に腰を下ろした。
「ここはかつてマナの樹があった場所だと言われているわ」
「マナの樹が?」
大いなる力の源と言われ、それがあればあらゆる望みが叶うとも言われる伝説の樹だ。
それは世界の全てであり、世界の始まりであるとも言う。
マナの樹は何度となくこの世界に現れ、失われた。
今どこにあるのか、そもそも今存在しているのかということさえ分からない。
そんな伝説上の物がここにあったと?
「もちろん、そう言い伝えられてるだけで、実際にそうだったかということは分からないわ。でも、今もここはマナの力が集まる場所だし、だからこそこんなにも空気が清浄で、力に溢れているの。だから、ここの木々もただの木じゃないわ」
「え?」
「古泉くんは賢そうだから、色々考えたんじゃないの? 上空から攻撃されるんじゃないかとか、森を焼き払われるんじゃないかって」
にやっと笑って見せた彼女は、
「大丈夫よ」
とかえって心配になるほど簡単に太鼓判を押した。
「上空こそ、この濃密な力が放出されるのよ? ちょっとやそっとのものは通過も出来ないわ。焼き払うのもまず無理ね。もともと土地の守りが強いのに加えて、あたしがきっちり結界を張ってやったから。ここを焼き払おうとするなら、それこそ、伝説の火鱗のワーム、フレイモルドでも連れてこなきゃ」
自信満々で言い放たれて、逆に疑問が湧き上がる。
「それだけ自信があるのにどうして用心棒が必要だなんて考えたんです?」
「言ったでしょ? 男手が欲しい時もあるのよ。それに、もしもってことがあるかも知れないじゃない。そのための保険よ」
それより、と彼女は苦笑して、
「キョンは変わった珠魅ね。珠魅なのにマナについてまるで知らないみたいだし、感覚もまるきり人間と同じだわ。まだ若い珠魅なの?」
「ええ…まだ生まれて二十年も経っていませんから」
と僕は核心をぼかして言う。
彼が元は人間であり、彼の胸に輝く核こそ涙石だなんてことを説明したら、彼女だって目の色を変えるかもしれないと思ったからだ。
「ふうん…それじゃ仕方ないのかも知れないわね。ちなみに古泉くんはいくつなの?」
「忘れました。珠魅にとって年齢はあまり意味がないものですから」
「でしょうね」
そう笑っておいて、彼女は僕の胸元を指さし、
「ここにいる間は核を服から出しておいていいわよ。仕舞ってると窮屈でしょ?」
「…ありがとうございます」
せっかくの厚意だから、というよりも、仕舞ったままにしておいて、強引に引っ張り出されるよりもおとなしく従った方がいいだろうという判断のもと、僕は鎧の下のシャツを緩め、マントも外す。
家の中でも外と変わらない濃密なマナが染み入るような気がした。