眠り月

煌 第一話


その人を愛した時、世界は始まった。


森の中を一目散に駆ける。
荷物なんてほとんどないから、重い鎧を着た連中よりはずっと速く走れる。
それでも気がかりなのは、繋いだ手を離してしまわないかどうかということだった。
手に力を込めると、
「ばか、無駄な心配してないでとっとと走れ!」
と怒鳴られ、逆に手を引っ張られた。
速く、速く。
とにかくこの追っ手を振り切らなくてはどうにもならない。
僕らは目の前の森が一体どのようなものかも知らずに飛び込み、そして、少しして追っ手の姿がなくなったのを訝る余裕もなかった。
「振り切れたか?」
「おそらく…」
「……はー…」
ようやく足を止めた彼は、そのまま草の上に座り込んでしまった。
「流石に疲れましたね…」
「ああ…」
額の汗をぬぐう仕草をしておいて、彼はちょっと笑った。
「そうか、汗なんかもうかかないんだったよな」
彼にしてみれば何気ない、更に言うなら自然な感想なのだけれど、それが胸に痛い。
「………すみません」
小さく謝った僕に、彼は少し眉を寄せながらも笑って、
「謝るなって。別にお前のせいって訳じゃないだろ。それに、お前が責任を感じてくれてんのは、俺もよく分かってる。じゃなきゃ、わざわざ男の俺の『騎士』なんて務めてくれんだろ?」
わざわざじゃなく、望んでそうしたのだと言いたい。
そうしたいから、あなたの側にいたいから、と答えたい。
でも僕はそれを飲み込んで、
「『騎士』と『姫』というものに性別は関係ありませんよ」
とだけ言った。
邪な自分を、こんなにも優しくてきれいな彼に知られたくなくて。
「それでもだ。……ありがとな。俺一人じゃ多分、あっという間に帝国なりどこかの魔導士なりに捕まって、実験台にされるか核を抜き取られるかしてるだろうから、お前には本当に感謝してる」
そう言ってくれるのは嬉しいのに、僕は胸の中につかえる何かを感じずにはいられない。
「……ところで古泉」
「はい、なんでしょうか」
彼に呼ばれて、慌てて意識を内側から外へと戻すと、彼は困った顔をして僕を見上げていた。
「ここ、どこだ?」
「…さあ、どこでしょうね」
「…分からずに走ってたのかよ」
あれだけまっすぐに走るから何か心当たりでもあるのかと思ったら、と呆れる彼に僕は苦笑を返し、
「すみません。とにかく逃げるのに必死でしたから……」
「それで迷子になってたら元も子もないだろ」
「…そうですか?」
戸惑いながら問い返した僕に、彼は驚いた様子で目を見開いた後、小さく声を立てて笑った。
「そっか、別に迷ってもいいんだな。どこか行く場所があるって訳でもないんだから」
忘れてた、と笑う彼に、でも僕はもう一度、
「…すみません」
と謝らずにはいられなかった。
「だから、お前のせいじゃないだろ」
苦笑しながら彼は僕の手を取り、ぐいと引っ張った。
「ほら、お前もちょっと座れ。疲れただろ」
「大したことはありませんよ」
「そうか? …ああ、それとも俺が疲れたって感じるのも、汗をかいた気がするのと同じで、ただの錯覚なのかね。どうもまだ、この新しい体に慣れん」
そんなことを独り言のように呟き、彼はごろりと横になった。
ついでとばかりに胸元を肌蹴ると、虹色に輝く彼の核があらわになった。
「危ないですよ」
「ここにいるのは俺とお前くらいだろ。…核を仕舞ったままにしとくと、息苦しい気がしてくるんだ。ちょっとの間くらい風に当たらせてくれ」
「…全く……」
確かにそういう感じはある。
だから、というのではないけれど、僕もシャツのボタンを外し、透明感のある緑色をした核を木漏れ日に当てることにした。
寝ころんだ彼の隣で、脚を投げ出して座り、風と光と森に満ちるマナを感じる。
こんな穏やかな気持ちになったのはいつ以来だろう。
「久しぶりだな。こんなにゆっくり出来るのも」
「そうですね」
彼が僕と同じように感じていることを嬉しく思いながら、でも僕は現実に立ち戻らなくてはならない。
「しかし、どうして追っ手を振り切れたのでしょうか。この森に何かあるかのように、姿が見えなくなったと思いませんか?」
「そうだな。…だが、ここはそんな危険な場所とは思えない。むしろ、今時珍しいくらい清浄な場所じゃないか?」
「ええ。……あるいは、だからこそ帝国の追っ手を振り切れたのかも知れません。――不死皇帝が死んだ兵を甦らせ、自らの手足として使っている、という噂はあなたもご存じでしょう?」
「……それが本当だとしたら、この森にいる間は安心出来るな」
「森ごと焼き払われる、なんてことがなければ、ですけどね」
「ぞっとしないな」
ため息交じりに呟いた彼は、静かに目を閉じた。
「悪い、少し寝させてくれ。寝なくても大丈夫だとは分かってるんだが、どうにも……」
「ええ、ゆっくり休んでください。休息は我々の体であっても必要ですから」
「ん……」
もう半分以上夢見心地のような声で彼が答え、すぐに小さな寝息が聞こえ始めた。
本当に疲れていたんだろう。
僕はもう、追われることにも逃げることにも慣れ過ぎて、疲れるなんて感覚も忘れてしまったけれど、こうしてじっとして、彼の傍らにいるとほっとするということは、僕もやっぱり疲れているんだろうか。
そんなことを思いながら、僕は彼の眠る姿を見つめていた。

珠魅、という種族について、多くの人間が知っていることはどんなことだろう。
僕らが人間とは違うということはよく分かっているだろう。
見た目は確かに人とよく似ている。
でも僕らの本質は石だ。
胸に輝く大きな宝石――核こそが僕らであり、僕らの命そのものだ。
核を奪われれば肉体は消滅する。
核を傷つけられれば、肉体もうまく動かせなくなり、その傷が自然に癒えることもない。
石につけた傷が治らないのと同じように。
僕らの傷を癒し、失った肉体を取り戻せるのはただひとつ、「涙石」と呼ばれるものだけだ。
他の珠魅が、傷を負い、肉体を失った同胞のために流した涙が結晶化したそれだけが、傷を癒す。
涙を流せる珠魅は「姫」と呼ばれ、その姫には一人のパートナーがつくのが慣例となっている。
それが「騎士」であり、騎士は姫を守るためにある。
たとえ自身がぼろぼろになっても、姫の涙があれば傷はすぐ癒える。
逆に姫が少しでも傷を負えば、癒すためには他の姫を探さなくてはならない。
美しく生まれ、不老であり、核が砕けさえしなければ死ぬこともないというと、いいこと尽くめのように聞こえるかも知れないが、実際には不自由なことばかりだ。
おまけに、この核が大きな魔力を持っていると言われ、魔導士や不死皇帝などと言った恐るべき野心家に狙われるのだから堪ったものじゃない。
第一、僕らの核が特別な力を持っている訳じゃないのだ。
言ってみれば僕らは、本質が石であるからこそ、世界に満ちるマナを人間よりもうまく扱えるというだけであり、核が特別なものを持っているというのではない。
核を奪われるなんてことになったなら、僕らは少しでも力を与えないため、マナの波動を下げ、その力を弱めるだろう。
残った石は、ただの宝石でしかない。
それだって、価値はあるかもしれないけれど、魔導士や不死皇帝の求める価値とは違うはずだ。
それでも、そんなことを説いたところで全くの無駄にしかならないだろう。
今の僕らに出来ることは、なんとかこの時代を耐え、生き抜くことだ。
なんとしてでも彼を……僕の姫を守りぬかなくてはならない。
そのための安全な場所が欲しかった。
せめて彼だけでも安んじていられるような場所が。
この森がそうであれば助かるのだけれど………そううまく行くものだろうか。
期待はしない。
するだけ無駄だからだ。
僕はただ、いつだって警戒をして、覚悟をする。
彼を守る。
ただそれだけのために。

辺りが薄闇に包まれる頃になって彼が目を覚ましたけれど、まだどこかぼんやりしていて、
「ん……あー…もうこんな時間か…」
なんて言っている声もどこかぼんやりしているし、目もとろんとしている。
「よく眠れたようですね」
「そうだな…。野宿も嫌いじゃないし……」
「このままここで夜を明かしても構いませんよ」
「……そう…だな」
と彼は呟いたのだけれど、じっと僕を見て、なぜだかため息を吐いた。
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもない」
そう言って彼は立ち上がり、
「本当にここが安全なのか分からんなら、よく分からんままじっとしてるのも危ないだろ。他所に行こうぜ」
と言って服を整え始めた。
彼の美しい核が服の中に仕舞われるのを見届けて、僕も核を仕舞う。
かすかな息苦しさはそのまま、今の時代における僕たちの生きづらさに似ているように思えたけれど、感傷に浸っている余裕すらない。
僕は自分の剣が腰にあるのを確かめ、
「…行きましょうか」
と声を掛ける。
彼は小さく頷いて、分厚いマントを被りなおす。
「とりあえず、来たのとは反対方向に向かいましょう」
そう決めて歩き始めた瞬間だった。
足元の地面がいきなりなくなったかと思うと、いきなり中空に放り出される。
「うわっ!?」
彼の声が聞こえる。
彼を守らなければ。
そう手を伸ばし、なんとか彼の体を抱きしめた時には、僕らは大きな網の中に捕らわれていた。
「かかったわね!」
なんとも上機嫌な女性の声が聞こえた。
そうして薄闇の中から現れたのは黒いマント、尖った黒い帽子、そしてたくさんの笑うカボチャを従えた魔法使いらしい女性だった。
彼女は高笑いを響かせながら、僕らに近づき、しげしげと僕らを見た。
「なんのつもりです」
僕が唸るように問えば、彼女はにんまりと笑い、
「あんたたちがおとなしくするなら、後で説明してあげるわ」
まずは、と彼女は僕たちをじっと見つめ、僕が必死に庇っている彼のことも観察する。
彼はと言うと噛みつきそうな目で彼女を睨み返していた。
あまり挑発しないでもらいたいのだけれど…。
「……うん、なかなかいい面構えじゃない」
ああほら、なんだかよく分からないけれど気に入られてしまった。
どうしたものか、と思っていると、
「心配しなくても、危害を加えるつもりはないわ。あたしは珠魅の核に興味はないし、核を取り上げたらむしろまずいから」
と言われ、ぎょっとした。
核を見られたはずはないのに、珠魅だとばれたんだろうか。
それとも、僕たちが気づかなかっただけで、どこかから僕らの様子を見ていたというのか?
「…お前はなんなんだ」
彼が低く唸るように問いかけると、彼女は楽しそうに笑って、
「あたしはハルヒ。アーティファクト使いよ」
と言ったけれど、アーティファクト使いとはなんだろう。
アーティファクト、という言葉だけならばどこかで聞いたことがあるような気もしたけれど、余りにもおぼろげで役に立たない。
「アーティファクト……?」
と彼も首を傾げている。
「とにかく、非力なあたしたちとしては男手が欲しかったわけよ。そこにあんたたちがのこのこやってきたから、手っ取り早く捕まえさせてもらったわけ」
堂々と非人道的なことを言ってのけた彼女は、
「有希!」
と誰かの名前を呼んだ。
呼ばれたのは、ハルヒと名乗った少女と同じような、黒いマントに黒い帽子姿の少女だった。
彼女がかすかに頷いたかと思うと、ただそっと目を閉じた以外、なんのアクションもなく、「何か」をした。
そうなのだと思う。
その途端僕らの体がふわりと中空に浮かび、ゆっくりと地面に下ろされたから。
更に、僕らが絡まっていた網も取り外されたけれど、僕らの体はうまく動かない。
「何を…」
「暴れられたら困るからちょっとね」
と答えたハルヒなる女性は、
「あんたたち、帝国に追われてあたしの森に逃げ込んで来たのよね?」
「…あなたの森……なんですか」
「ってことは、他に行き場もないんじゃないの?」
「……」
だめだ、この人はどうやら人の話を聞いてくれないタイプの人らしい。
「だったら、あたしのところで働きなさい。衣食住の保証はしてあげるわ。それからついでに命もね!」
「順番がおかしいだろ!」
と思わず彼が叫んだけれど、やっぱり聞いてはくれないらしい。
「それとも、森から放り出されて帝国に捕まりたい? そうしたら、あんたたちなんてあっという間に実験台送りよね? それよりはあたしのところにいた方がいいんじゃないの?」
そう意地の悪い調子で言った彼女は、更に高らかに言い放った。
「さっさと選びなさい! 実験台か用心棒かの二択なんだから、どちらを選ぶかは決まってるわよね?」