眠り月
優しい人に出会えた幸福
「あたし、あの子が欲しいわ!」 きらきらした目で、その女の子は僕を指差した。とても綺麗な服。とても綺麗な長い髪。僕を指差すその手だって、とても白くて綺麗で。
そんなものを見るのも初めてだった僕には、その女の子が生きた人間だなんてとても思えやしなかった。
だって、生きた人間はもっと汚い。僕みたいに汚れてて、とても醜くて、他のどんな獣よりも酷い。
だから僕には、その女の子が天使のように思えたのだ。
その女の子の名前を、涼宮 ハルヒと言う。――我等が帝国の皇女殿下である。
体を鍛えるのは、守りたい人の体を守るため。勉強をするのは、守りたい人の誇りを守るため。
死ぬ気になってやればなんだって出来るというのは真理であるらしく、覆しようもないようなスタートダッシュの遅れにも関わらず、気がつけば僕は随分と高い地位に上っていた。
それでも、
「皇女殿下に取り入って」
「澄ました顔をしてるが何をやって出世したか知れたもんじゃない」
などと耳を汚す言葉は入ってくる。
でも僕は気にしない。僕のやわな精神を本当に傷つけるのは、殿下を嘲笑い、貶めるような言葉だ。
最近ではあまり聞かれなくなったけれど、かつては何度も囁かれた。
「あんな素性の分からないものを気に入るなど、皇族に相応しいことではない」
「皇女殿下も身の回りを飾り立てるには見目麗しい方がよろしいのだろう。奇矯なふるまいをなされるよりはずっといい」
そんな言葉は今も僕の胸に残り、じくじくと古傷のように痛む。
何者にも、あの人を傷つけさせたくない。ただそれだけで僕はなんでも出来る。あの人のためならなんだってする。
僕がそう誓っていると、当の皇女殿下は分かっておられるのかどうか。一軍を預かった今も、その下で働く僕に対して、他の士官とは比べ物にならないほど気安く接してくださる。…おそらく、分かっておられての行動なのだろうけれど。
――それにしても、困るんです。
僕はずきずきと痛む頭を押さえながら、皇女様の長い髪が湯に漂う様を見つめた。他に目を向けてよさそうな場所がなかったのだ。
「もう、呼んだんだから早く来なさいよ」
と文句を言いながらも、皇女様はとても上機嫌だ。今日、偶然遭遇した異世界人(推定)の話がよっぽど面白かったのだろうか。こんなに機嫌がいいのは久しぶりだ。
それにしても、
「お言葉ですが殿下、妙齢の女性が使用中のバスルームに男を呼びつけるのはいかがかと」
「だって、古泉くんなら平気じゃない」
けろっとした顔で言う彼女は、本気で僕を男と思っていないらしい。
幼い頃から兄弟同然に育っているし、そもそも彼女は使用人にかしずかれるのが当然であり、つまりは使用人を同じ人間だとも思わないような生活をしている人だ。
だから僕を男として意識しなくても仕方ないのかもしれないし、僕だって女性として彼女を意識するようなことはないけれど、それにしたってこれはない。
「せめて、タオルを巻くとかしてくださいませんか」
「そんな邪魔なもの要らないわよ。それよりほら、肩揉んでよ」
「…仰せのままに」
僕がバスルームの縁に膝を付き、彼女の目に眩しいほど真っ白い肩に手を乗せようとしたところで、その手を掴まれた。
「手袋くらい外しなさいよ」
言いながら、きめ細かい泡に覆われた手で僕の手袋を取り上げてしまうと、彼女は楽しそうな顔で僕を仰ぎ見て、
「古泉くんも一緒に入る?」
「冗談でもやめてくださいませんか、殿下」
「そういう生意気言ってると、こうよ!」
にやっと笑った彼女が僕の手を強引に引っ張り、そのまま僕は浴槽の中に投げ込まれる。
「うわ…っ!?」
浴槽の中、というか、厳密には更にキワドイ場所である。ちょっと身動ぎすれば、彼女に触れられるほど近い場所。
「――ッ、殿下!」
「頭も体も硬いお偉方みたいに怒んないでよ。あたしと古泉くんの仲でしょ?」
「殿下、殿下がそれでは示しがつきません」
「大丈夫よ。あたしが何をやらかしたって、この艦の外には漏れないわ。何があっても、ね」
そうどこか自虐的に笑って、彼女は僕の顔を両手で挟み込んだ。
「それより、古泉くんもゆっくりしていきなさい。疲れた顔してるわよ?」
「……申し訳ありません」
「くつろぐのはあたしが出てからでいいから、ね?」
僕を心配してくれているのは分かるし、こうでもされなければ頷けないのが僕だというのを理解してくれているのも彼女くらいのものだろう。
だから僕はそっとため息を吐いて、
「……僕はそんなに酷い顔をしてましたか?」
と余人には見せられないような情けない顔で呟く。
「少しよ、少し。今日は珍しいこともあったし、しょうがないわ」
そう言いながらも彼女はご機嫌だ。
「そんなにお気に召しましたか、彼が」
彼、というのは今日偶然に救難信号を拾い、我々が救助した、とある青年のことである。年は僕らと同じくらいで、見たことも聞いたこともない国の作戦参謀として艦を預かっているということだった。
彼によると、彼は僕たちによく似た同姓同名の人物を知っているということであり、彼の言う状況を論理的に説明付けるには、世界が改変されたか並行世界があるかという、フィクションめいた展開が考えられるという、彼女にとっては非常に面白い状況なのだ。
無論、彼が狂人であるという可能性もないわけではないけれど、それにしてはあの少しばかり変わった艦の存在もあるし、その乗員も口を揃えて同様の証言をするから、おそらく彼は真実を語っているのだろう。
「そうね。面白いわ。荒唐無稽な夢物語みたいな話だったけど、ある程度筋は通ってたし、実際あの艦にはあたしたちにはない技術が使われてたりするんでしょ?」
「そのようですね」
「だったら、本当だと思う方がいいんじゃない? 少なくともあたしなら、あんな馬鹿げた作り話で潜入させるようなことはしないもの」
「あなたのその性格を調べていたとしたら、どうです?」
「それでも、あの艦の技術なんかは説明がつかないでしょ。大体ね、古泉くん、」
と彼女は呆れたように笑って、僕の鼻先に相変わらず白魚のような美しい指をつきつけた。
「思ってもないようなことを口にしたって、損するだけよ。司令として、仕事中にそうするのならともかく、今あたしが話してるのは、古泉司令じゃなくて古泉くんよ?」
「……分かりますか」
僕は苦笑して、彼女を見つめ返した。
「結構気に入ってるんでしょ? あいつのこと」
こういうことに関しては、彼女に隠し事なんて出来やしない。僕は苦笑を浮かべたまま、
「そうですね。なかなか面白い人物かと。若くして作戦参謀などという役職につくだけのことはあると思いますよ」
「古泉くんにしては珍しく素直に褒めたわね」
「事実ですから」
僕が言うと、彼女は軽やかな笑い声を立てて、
「それでも珍しいわ。…いつもなら、もっと敵愾心を持つじゃない」
と悪戯っぽく笑う。
それは事実だけれど、そう指摘されて面白いはずもなく、僕は思わず眉を寄せながら、
「…彼はあくまでもどこかからの客人ですからね。僕の立場が脅かされるようなこともないでしょう」
「そんなに執着しなくてもいいのに」
そう言って彼女は優しく僕の髪を撫でてくれた。幼い頃から変わらない仕草で。
「大丈夫よ。あたしは一度拾ったものをみすみす人にくれてやったりなんてしないんだからね」
その明るい笑みに、僕がどれほど救われているか、分かっているんだろうか。
「…あなたに拾われた僕は本当に果報者ですね」
そう笑うと、彼女も嬉しそうに笑ってくれる。それが僕にとっての幸せなのだ。
少しして風呂から上がった彼女に言われるまま、僕はびしょ濡れになった服を脱ぎ、それを彼女に渡す。
「ちゃんと洗って乾燥させておくから、安心しなさい」
と言ってくれるのはいいけれど、
「世話係の者はどうなってるんです?」
「世話係なんて言わないでよ。あたしが珍獣みたいじゃない」
「そう呼び始めたのはあなたでしょう?」
「そうだけど」
面白そうに笑って、彼女は立ち上がる。
「鬱陶しいから、さっさと下がらせることにしてるの。大丈夫よ、乾燥機くらい自分で扱えるわ」
「お気をつけて。極稀に、ですが、乾燥機で事故を起こすこともあるそうですから」
「心配性なんだから。…いいから、古泉くんはくつろいでなさい。どうせいつもシャワーをざっと浴びるだけなんでしょ?」
「本来はそういうものなんですよ。宇宙空間において、水は本当に貴重なんですから」
「お得意の特別待遇ってやつね。あたしは別に、一ヶ月や二ヶ月や半年、お風呂に入れなくったっていいのに」
「士気に関わります」
とあえて冷たい声音で言うと、彼女はむしろ楽しげに言った。
「それくらいの方が丁度いいわ。ふてぶてしくて、可愛げがないのが逆に可愛くて。その調子で、せっかくのお風呂を楽しんでいきなさいよ」
言われた通り、僕は体の力を抜き、筋肉を弛緩させる。
仮にも軍艦の中だというのに特別にしつらえられたバスルームは広く、浴槽もかなり大きい。贅沢だ、と眉をひそめたい気持ちと、これくらいでこそ皇女殿下に相応しいという思いとが同じくらいの強さで湧き上がる。
強張った肩を回しながらふと、あの風変わりな客人ならここにどんな感想を抱くだろうかなどと思ったが、すぐに疑問は消えて行く。
間違いなく、顔をしかめるだろう。そればかりか、殿下に食って掛かるくらいのことはするかもしれない。
今日初めて出会った相手のはずなのに、どうしてか、そんなことを思った。
久々にたっぷりの湯を使い、指示された通りに全身をぴかぴかに磨き上げたところで、僕は皇女様のバスローブを借りてバスルームから出た。
淡いピンク色で、しかも少なからず丈の足りないそれを身につけても羞恥を覚えないのは、慣れているせいだ。
と言っても、僕が好きでそういう服装を普段からしているわけではない。彼女が、こんな風に趣味の悪い格好をさせるのが好きなだけだ。
「ああ、上がったのね」
熱心に何かを読んでいたらしい彼女は端末から顔を上げ、さっと僕に近づくと、ふんふんと鼻を鳴らしながら僕の身なりを確かめる。
「うん、ちゃんとぴかぴかにしたみたいね」
満足気に言った彼女に、
「せっかくですからね」
と返す。
そんな口の聞き方をするのはたるんでると、自分でも思うけれど、これくらいの距離感が僕たちには当たり前なのだ。
「せっかくだし、今日は一緒に寝る?」
「それは流石に遠慮しますよ」
同じシャンプーの匂いをさせてるだけでも邪推する人間は邪推するのに、何を言い出すやら。
「知ってる人間はちゃんと知ってるわよ。あたしと古泉くんが一緒に育ったってことくらい」
「それはそうでしょうけどね、それは悪い噂を消す要因にはなりませんよ。一緒に育ったからといって、本当に兄弟らしくなることなんて、実際どれほどあるか分かりませんしね」
僕は乾燥機の中から勝手に自分の服を引っ張り出しながらそう言った。
「じゃあ、古泉くんはあたしをどう思ってるの?」
「好きですよ。わざわざ言うまでもないことを聞かないでください」
「そうだったわね」
と彼女は魅力的に微笑む。
臣下として敬愛し、兄弟として愛し、友人として大切に思っている。僕の、何よりも大切な人。彼女にはいつも笑っていて欲しい。穢れないでいて欲しい。
それだけが、僕の願いなのだ。
「お前は、ハルヒ…皇女殿下のことが、本当に大事なんだな」
そう呟いたのは他でもない、いまだ明確な原因は不明のままではあるものの、元の世界の同僚からの連絡があったことで、異世界人であることが確定した彼である。
退屈しのぎにとチェスに誘った僕の自室で、投了後の雑談の中でそう呟いたのだ。
僕が皇女殿下に対して、他とは比較にならないほどの思いを寄せているということは周知の事実であり、今更そんなことを言われることもなかったので、その言葉はとても新鮮に響いた。
僕は小さく微笑んで、
「そうですね。あの方は、他の何者にもかえられませんから」
「それは忠誠心ってやつか?」
「無論、それもあります。でも僕はそれ以上に、あの人個人を敬愛し、思慕しているんです」
「さっきも言ってたな。好きなんだって」
どこか面白くなさそうに呟いた彼にも、僕は笑顔を崩さずに頷く。
「ええ、好きですよ」
「…なんでだ?」
心底不思議そうに言うので、僕はつい、いくらか素で笑ってしまいそうになりながら、
「ああ見えて、とても優しい方なんです。頭もよく、必要であれば努力を惜しまないばかりか、カリスマ性も十分にお持ちですし、人をひきつける要素には事欠かないと思いますよ」
「優しい? あいつが? ……あ、いや、こっちの皇女様がどうかは知らんぞ。ただ、俺の知るハルヒは優しいなんてもんじゃないからな」
「別に気にしませんから、あなたもお気になさらず」
と返しておいて、僕は苦笑する。
「優しい方ですよ。…あの方がいなければ、僕はここにいませんからね」
「…なんだって?」
訝る彼に僕は笑みを作る。
「せっかくだから、お話しましょうか。この艦の者なら、いえ、我が軍の者なら大抵は知ってる話です」
訝しげな顔をする彼にも構わず、僕は口を開く。
「……僕はね、皇女殿下に拾われた身なんです。それ以前の記憶はあまりありませんが、おそらくスラム辺りで生まれたのではないかと。拾われた時にはかなり汚れていたそうですから」
「な……」
驚きに満ちた目を向ける彼に、あえて微笑みかけると、彼はほっとしたように肩を落とし、
「なんだ、冗談か…」
「本当ですよ」
「……」
しばらくの間、まるで睨み合いのように見つめあった。彼は僕の言葉の真偽を問おうとし、僕はそんな彼の反応を見極めようとする。
ややあって、彼はかすかに眉を寄せ、
「…本当の話なのか」
とまだ納得し難いかのように呟いた。
「ええ。皇女殿下の行幸の際、たまたま僕がその前に転げ出て、危うくそのまま処分されるところを、皇女殿下が助けてくださったのです」
「……それでお前は殿下に心酔してる、と」
「そうですね」
頷きながら、本当は少し違うのかもしれないと思った。
助けられたからというだけでなく、彼女が本当に僕を、汚れた僕を、実の弟のように扱ってくれるから、僕の家族になってくれたから、こんなにも大切に思えるのかもしれない。
「僕は、どこまででも殿下に付き従います。たとえそれが、どのような結果を招くとしても」
「……立派なもんだな。軍人としては」
そう呟くくせして、彼の声はどこか皮肉っぽく響いた。
「…何か?」
「いや、それが本当にいいことなのかは俺には分からんと思ってな。……分かってんだろ」
そう僕を見る目は、何もかも見透かすような色をしていて、少しばかりぞっとした。人のよさそうな顔とはどこか違う。軍人らしいその色にぞっとしながら、でも、どうしてだろうか。やっとそれを見られたとも感じた。
盲目的に従うだけが忠誠であるなどと了見の狭いことは僕も言わない。ただ、僕は本当に彼女を信じているのだ。彼女が道を過つことはないと。もしあったとしても、何かしら働きかければ彼女は僕の意見も聞いてくれるだろうと。
しかし、わざわざ馬鹿丁寧にそんなことを言う必要はないだろう。だから、
「さて、意味を理解しかねますね」
僕はそう呟いて、答えにかえる。この人なら分かるだろう。僕が本当はどう考えているのかなんてことくらいは。
不思議とそんなことを思ったのは、彼の方が僕のことを分かっているような顔をしているからだろうか。
「並行世界ってもんが他にもあると仮定しての話だが、」
と彼はつまらなさそうに呟く。
「どこのお前もそうなのかね」
「そう、とはどのようなことについてでしょうか?」
「…そうやって、笑顔を無駄に振りまいて、あれこれ隠しまくるってことだ」
途端に、彼はまるで僕のことを心配するような顔をした。さっきまで不機嫌な顔をしていたくせに。
「……お前には、ちゃんといるか? 本当にお前のことを心配して、気遣ってくれて、…お前も、自分を出せる相手が」
僕はどう答えたものかと少しばかり悩んだ。正直に答えるのは簡単だけれど、そうしていいものか分からなくて。
でも、僕は小さく笑う。作り笑いでなく、ちゃんと僕として。
「いますよ」
「……なら、よかった」
よかったと言うくせに、
「なんだかご不満そうに見えますね」
「は?」
「僕にそんな人がいてはおかしいですか?」
「おかしい…と、言うか……あー…」
言葉を詰まらせ、視線をさ迷わせる彼は、なんだかからかいたくなるような顔だ。
僕はつい、くすりと意地の悪い笑みを漏らして、
「もしかして、それがご自分でないのが面白くない、なんて思ってます?」
と軽口を叩いてみたのだけれど、その瞬間、彼が真っ赤になったので驚かされた。
なんですか、その反応。まさか、
「…図星ですか」
「っ、黙秘権を行使させてもらう!」
真っ赤になったままそんなことを言って黙り込む彼に、笑いが止まらなくなる。
「それじゃ、答えてるも同然ですよ」
「うるさい…っ」
「はは、なるほど、そうでしたか」
したり顔で頷いて、
「そちらの僕が大変お世話になっているようですね?」
とダメ押しすると、彼は耳まで赤くなった。もはや何か反論する気力もないらしい。
笑いながら彼を見ていると、不意に部屋のドアが開いた。そんな風に入ってくる人は一人しかいない。……皇女殿下だ。
「古泉くん! キョンもここね? ……って、あら、珍しいじゃない、そんな楽しそうに笑ったりして」
「で、殿下っ!」
僕は慌てて表情を取繕い、赤くなったままの彼を背後に隠すようにして立ち上がる。
「いきなり入って来られては困りますと何度も申し上げてるではありませんか」
「別にいいでしょ。古泉くんだって入ってくるじゃない」
けろっとした顔でそう言って、皇女殿下は僕をまじまじと見つめると、にんまりと笑った。
「楽しそうで何よりだわ」
「これは、その…」
うろたえる僕の頭を、彼女は優しく撫でた。一応部外者であるはずの彼が見てるのに、だ。
横目でちらりと伺っただけでも、彼が驚きに目を見開いているのが分かる。そんな反応がやけに恥かしい。
「そ、それより殿下、何か御用がおありだったのでは…」
「ちょっと古泉くんとキョンの顔が見たくなっただけよ。何してるのかと思っただけ」
そう笑って、
「あと、古泉くん、あたしはこれからみくるちゃんとお風呂に入るから、昨日みたいに入ってきたらみくるちゃんが泣くわよ?」
「誤解を招くような言い方をしないでください! それじゃ完全に僕が変質者じゃないですか!」
ちなみに、みくるちゃん、というのは彼の話に出てきた朝比奈 みくる兵站参謀と同姓同名の人物であり、おそらくは異世界同位体と目される人物である。
今日見つけ出したその人物を、殿下はいたくお気に召したらしい。見つけ出して以来ずっと、彼女を着せ替え人形にして遊んだりしていたのだけれど、バスルームに連れ込むほどとは。……あまり無体なことをしないといいけど。
と言うか、
「それだけのためにわざわざいらしたんですか……」
ぐったりしそうになりながら言った僕にも、彼女はご機嫌で、
「顔を見に来たんだって言ったでしょ? でもそうね、邪魔しちゃったみたいだから、古泉くんがそうしたかったら、あたしたちが出た後に、キョンと一緒に入ってもいいわよ」
「遠慮します」
「もう、遠慮なんてしなくていいのに」
からからと笑いながら彼女は部屋を出て行った。本当にそのためだけに来たらしい。自艦の中とはいえ、皇女殿下がひとりで出歩くなんて。
これまではちゃんと我慢してくださっていたのに、急にこうなったのはやはり彼がきっかけなのだろうか。
ため息を吐いてはみたものの、本当に自分が嘆いているのかはよく分からなかった。何故なら、僕の望みは彼女が幸せに、楽しく暮らしてくれることなのだから。
今はそれが叶っていると言ってもいいような状況である。文句なんて、出そうと思っても出て来ないに違いない。
それでも、まあ、これを口うるさい連中に知られ、僕が監督不行き届きなんて言いがかりをつけられて、彼女の側から引き離されても困るので、程々に工作はさせてもらおう。
そう考えながら僕は席に戻り、ぽかんとしている彼を見つめ返す。
「…何か仰りたければどうぞ」
少しばかり拗ねた口調になってしまったけれど、仕方ない。「殿下」でない「彼女」を前にすると僕はどうしても、彼女の「弟」になってしまうのだし、あれを見られてしまった以上、今更取繕ったって無駄だろうと開き直る僕に、彼はまだ驚いた顔のままで、
「……ハルヒと、どういう関係なんだ?」
「恋人にでも見えましたか? それだけは絶対に違うと全力で否定させていただきますよ。彼女に申し訳ないですから」
「いや、だが、」
まだ疑問を口にしようとする彼に、僕は畳み掛けるように、
「事実です。彼女は僕を異性として意識していませんし、僕もまた同じです。……あなた、妹さんがいらっしゃるという話でしたよね?」
「あ? …ああ、そうだが……」
「では、その妹さんを異性として意識したりします?」
「するわけないだろう!」
そう勢いよく否定した彼に、
「それと同じですよ」
と僕は小さく息を吐く。
こう言って説明したからといって、理解してもらえるかどうかは分からないけれど、妙な誤解をされても困る。いや、どうせ彼が帰ってしまうというのなら、誤解されたって構わないのかもしれないけれど、彼の世界における「僕」にとっての大切な人が彼ならば、変にしこりを残してぎくしゃくしては可哀相だと思う程度には、僕もまた、彼女のことを大切に思っているのだ。
だから、僕はあえてはっきりと答えた。
「非常に畏れ多いことですし、余人に聞かれでもしたらそれこそ不敬罪に問われても当然のことですけれど、僕にとってあの方は大切な姉のような存在なんです。ですから、かえって異性としては意識してないんですよ。お互いに」
「……いい年して、一緒に風呂に入ったりするのも平気なくらいに、か?」
怪訝な顔をする彼に、この問いにばかりは僕も少しばかり顔を赤らめて、
「それは流石にしてません。見たところでどうってことないですけど、見られるのは恥かしいですから。…昨日も、…浴槽に引きずり込まれてしまいましたけど、服は着てましたし」
「なんだそりゃ」
呆れた顔をする彼に、
「…殿下は優しい方なんですよ」
ため息混じりに口にする台詞じゃないなと思いながらも、僕はそう答えた。
「強引にしないと、僕が固辞して逃げると分かっているから、そういうことをしてくれるんです」
「…まあ、お前が言うならそうなんだろうな」
と笑った彼の顔がどこか柔らかかった。
「…ねえ、いっそのこと教えてくださいませんか?」
「は…?」
「あなたと、あなたの知る『僕』のことを」
ただの友人なんてものではないんでしょう? と問えば、彼は恥かしそうな顔をしたけれど、僕がこれだけ明かしたからだろう。そっと口を開いた。
「…あいつは、幕僚総長は、仕事上は勿論、俺の上官ではあるんだが、プライベートでは……その、……こういうことを言うと軽蔑されそうだし、気味悪がられるんだろうが、別の世界の話だから、自分には関係のない他人の話だとでも思ってもらえたらいいんだが、」
「恋人なんですよね」
「…っ、あ、あっさり言うなよ!」
と文句を言う彼の顔は先ほどに負けないくらい赤い。
僕はくすくすと笑って、
「すみません、じれったくて、つい」
「…だが、まあ、そういうことだ」
どこか拗ねたように言った彼に、
「それで納得が行きましたよ。あなたさっき、殿下がいらして僕の頭を撫でたりしていたら、凄い顔になってましたから」
「う…、すまん……つい…な」
と彼は申し訳なさそうに言ったけど、
「いえ、構いませんよ。理解出来ますから」
そう笑いながらも、彼を見ているとなんだかいじめたくなってしまっていけない。
「違いでもしたら失礼ですが、もしかして、この世界でも僕を支えるのは自分の役割だと……この世界の『自分』の役割だと、思っておられました?」
「……かも、な」
恥ずかしそうにしながらも彼はそう認めた。
「なんていうか、こんな事態になるまで、並行世界なんてものを信じてはなかったし、小説なんかの、作り事の中だけの話だろうと思ってたから、本気でそう考えてたわけじゃないとは思うんだが、……あいつの側には自分がいるものだとばかり、思ってたんだろう、な…」
話しながらどんどん赤くなる彼に、僕は失礼にならない程度に小さな忍び笑いを漏らして、
「あなたの『古泉 一樹』は幸せ者ですね」
と言った。
「は? なんでそうなるんだ?」
驚く彼に、僕は笑みを浮かべたまま、
「それほどまでに思ってくれる人に出会えて、幸せだと思いますよ。僕には理解者であり、姉である人はいても、恋人はいませんから」
「……そうかい。じゃあ、」
彼は何か仕返しをしたいとでも思ったのだろうか。最前まで恥かしがっていたのも忘れたように悪戯な笑みを浮かべたかと思うと、
「俺の、この顔をよく覚えておけよ。こっちでも出会えたらまず間違いなく、お前の世話を焼きたがってうるさいだろうからな。鬱陶しいことになる前に逃げるかどうかしちまえ」
なんてことを言うので、僕は今度こそ声を立てて笑った。
「そこは素直に、出会ったら恋に落ちると保証してくださったらいいのではありませんか?」
「んなもん、保証出来んだろ。お前にはもう理解者がいて、今更俺なんかに出会ったって、どうってことにもならんかも知れんし、普通に、何の気兼ねもいらん、友人関係で満足するかも知れん」
「では、ひとつだけ試してみましょうか」
「試す? 何…」
何を、と彼が問うより早く、僕は椅子から身を乗り出し、彼の唇に自分のそれを重ねてみた。喋っている途中だったせいで薄く開かれたままのそれに、勿体無いけれど、触れるだけで我慢する。
…そう、我慢だ。それくらい、彼の唇の感触は気持ちよくて、
「…なんだか、甘酸っぱい気持ちになりますね」
と笑ったら、彼は顔を真っ赤にして、
「お前…っ、何しやがる!」
と殴りかかってくるので、僕はそれを軽く受け止めて、
「すみません、つい。でも、同じ『古泉 一樹』ですから、浮気にはならないでしょう?」
「そういう問題じゃない!」
そう怒る彼はどこか可愛らしくて、
「決めました」
と宣言する。
「唐突に言うな。一体何を決めたんだ」
つうか離せ、ともがく彼を僕は笑って解放しながら、
「あなたを探します」
「……は?」
「こちらの……いえ、」
にや、と僕は滅多に人前ではしない、悪辣な笑い方をする。
「僕の『あなた』を見つけ出して見せますよ」
「な…っ…!」
顔を赤くしたのは怒りのせいではないだろう。
「楽しみですね。一体どこにいらっしゃるのでしょうか。民間人であれば引き抜くのも楽なので嬉しいですけど、そこまで高望みはしません。ただ、あまり厄介なところでないといいのですが…。もしまかり間違って、あまり友好的でない国に所属されていたら、困ったことになりそうですし。国内で探すとしたら、やはり戸籍をあたってみるのが早いですかね。顔写真などのデータで手配する方法もありますが、それではまるで犯罪者のようで悪いですし……」
割と本気で検討し始めた僕に彼は目を見開いて、
「お、まえ、正気か…!?」
「ええ、勿論。僕はいつだって、程々に正気のつもりですよ」
「だが、お前にはハルヒがいるんじゃないのか? もう既に、守りたいとかそういうことを思う相手が……」
「既に守りたい人がいたら、それ以上は守れませんか? でも僕は、既に多くの人の命を預かる職につき、更に多くの人の命を守るべき立場にいます。それがもう一人増えたくらいでは、どうってこともありませんよ」
軽口を叩くように言ったけれど、彼は僕を咎めなかった。むしろ小さく微笑んで、
「そうか」
と頷いてくれた。そのことに、なんとなく引っかかるものを感じる。
「……もしかして、あなたの知る『僕』も、そんなことを言いました?」
「…少しばかり、言い回しは違うがな」
そう笑った顔が寂しそうに見えた。
「…早く帰れたらいいですね」
引き止めたい気持ちがない訳ではない。それくらい、彼の与えてくれた影響は大きかった。けれど、分かってしまうのだ。彼を思う、彼の「僕」が、彼を失ってどんなに嘆くのかということが。
僕がもし、皇女殿下を、……いえ、涼宮さんを取り上げられ、失ったら、どうなるかなんて、想像するのも恐ろしく思うように。あるいは更に強く、彼を失うことを恐れる「僕」がいるのだろう。
本当に僕は、軍人なんてものには向いてない。甘いったらない。
向いてないのにこんなところにいるのは、時には自分さえ押し殺してここにいるのは、彼女を守るため、彼女の側にいるためだ。
だから、こういう時くらい、甘いことを考えてもいいでしょう?
「あなたが帰ってしまわれるなら、やはり僕は、僕の『あなた』を探さなくてはなりませんね」
「だからその所有格はやめろ」
と言いながらも彼は笑っている。
「どこにいても、必ず見つけ出します。それからのことは、それから考えたので十分でしょう?」
「…お前にしちゃ、思い切りがいいな」
「ええ、少しばかり吹っ切れました。…あなたのおかげですよ。ありがとうございます」
「俺は別に何かしたってつもりもないんだがな」
「あなたはその不作為が魅力なんでしょうね」
「魅力とか言うな」
照れ臭そうに笑うその人に僕は笑みを返す。
「ひとつ、餞別代りにヒントでもくれませんか?」
「……は?」
「あなたって、どうされると弱いんです? 情に訴える方がいいですか? それとも、強引にされる方がよかったりします?」
「んなっ!?」
驚き、それから羞恥に顔を赤らめた彼に、僕はにやにやと意地の悪い笑みを向けて、
「参考までに教えてくださいよ。それによって作戦を決めますから」
「…っ、知るか! というか、知ってても答えられるかそんなもん!」
「それは残念です」
そう笑って、僕はそれ以上彼をいじめるのは止めにした。癖になっても困る。
「…早く帰れるように、僕も祈ってますよ」
「……ありがとな。俺も、祈っといてやるよ。お前が早く……こっちの『俺』を見つけられるように」
そう微笑んだ彼の顔が、これまでで見たどれよりも綺麗なそれに思えた。
彼の艦が見えなくなる。どの計器でも捉えられなくなる。そうなっても僕たちは、彼の消えた方向を見つめていた。
ワープ航法の実験中の事故でこちらの世界に来てしまった彼は、元の世界の仲間の助力の下、もう一度それを行うことで帰ることになったのだ。
それが本当に成功するか分からなかったが、こうして我々には理解出来ないような消え方をしたなら、少なくともこの世界からの脱出には成功したのだろう。無事の帰還を果たせるように祈るしか、僕たちに出来ることはなかった。
真っ暗な宇宙空間は、一度飲み込んだものを吐き出してはくれないだろう。きっともう二度と、こんな奇跡染みた現象は起こらない。
僕は沈黙に耐えかねたように呟いた。本当はもう少し余韻に浸っていたかったような気もするけれど、いつまでもこうしている訳にはいかないのだから仕方がない。
「…行ってしまいましたね」
「……そうね。でも、惜しんだってしょうがないわ。だってあれは、あたしたちの『キョン』じゃないんだもの」
そう笑った彼女は、これまで見たどんな姿の彼女よりも輝いて見えた。僕を救ってくれたあの時よりも、もっと。
「これから忙しくなるわよ。どんな手段だって使ってやろうじゃないの。そのために、あいつから顔写真なんかのデータをもぎ取ったんだから。……古泉くん!」
「はい、殿下」
応えながら、自分の顔が緩むのを感じる。
「大至急…そうね、全国民の戸籍を調べてでも、手配写真を回したんでも、なんでもいいわ。合法非合法も問わないであげる。なんとしてでも、あたしたちのあいつを探し出すわよ!」
「畏まりました」
そう頷いた僕の目はきっと、共犯者めいた光を宿していることだろう。そこに、僕より更にキラキラした目をした彼女の姿を映しながら、僕は彼の姿を思い描く。
決して忘れないように、この目に焼き付けたその姿を。