眠り月

早く大人に


これはもう、どんなに時代が変わっても、そういうシステムがある限り変わらないことだろうと思うのだが、夏休みを目前に控えた終業式の日ってものが楽しみでない子供ってのはそういないだろう。同時に、その日が少しばかり憂鬱な奴も決して少なくはないと思うのだが、俺はというと、もう夏休みが楽しみで堪らなかった。
成績も、そう悪くはないと思う。
というか、少ないとはいえ自分が十代半ばまで生きてきた記憶があって、今更小学校の勉強で苦労するってのも問題だろう。
というわけで至って気楽に終業式の日を迎えた俺は、やることを終えるとすぐさま教室を飛び出した。
いつもどちらかというとやる気がないとみられるほど怠惰な態度の俺がそんな風に飛び出していくから、いったい何事かと見てくる奴らもいたくらいだったのだが、わざわざ説明してやるような義理もなければ時間もない。
俺がそれだけ必死になって向かうと言えばどこに行くかは決まっている。
もちろん、古泉のところだ。
あれこれ乗り継いでようやく古泉の家にたどり着いた時にはもうへとへとになっていたのだが、それでも久しぶりに古泉と会えると思うと嬉しくて堪らない。
俺は背伸びしてインターフォンのボタンを押し、嬉々として応答を待ったのだが、返事がない。
……おかしい。
もうこっちに帰ってきてるはずなんだが……というか、俺が来ると分かってて休みを取ってくれてるはずだってのに、なんで不在なんだ。
何か大事でもあっただろうか、と端末を引っ張り出し、ニュースを調べようとしたところで、母親からの音声通話が入った。
『こらキョン! なんであんたはそうやって勝手にふらふらと司令のところに行っちゃうの! せめて一度家に帰ってからにしなさいって言ったでしょう!?』
いきなり大声で怒鳴られたが、そんなものは予想済みだ。
端末を目いっぱい遠ざけて耐えた俺は、
「古泉は?」
と返事もせずに聞き返す。
『司令からも連絡が入ってるんじゃないの? 殿下に頼まれてもう少しあちらにとどまるそうだから、あんたもうちに帰りなさい!』
「んな…」
ハルヒのやつ、と口にはとても出せないが心の中では思うさま罵る。
あいつ、俺が古泉と会うのをどれだけ楽しみにしてるかくらいわかってるくせに。
意図的な嫌がらせか?
「……ちょっと司令に連絡してみる」
『いいから帰ってき…』
強引に通話を終了させ、お袋がかけなおしてくる前に古泉にかける。
しかしそれはあっさりと留守電に切り替わっちまった。
チッと舌打ちした俺は、今度は別の番号にかけた。
出来ればかけたくないのだが、仕方ない。
そして、その相手は待ち構えていたような速さで出やがった。
『キョン、元気にしてる?』
ご機嫌な声を出したのはもちろんハルヒだ。
俺は思い切り眉間にしわが寄るのを感じながら、
「ああ、すこぶる元気だ。古泉は?」
『古泉くんならうちにいるわよ』
「知ってるから、古泉を出せって言ってんだろうが。というか、また何を企んでるんだ?」
『別に企んでなんかないわよ。ただちょっと用事を頼みたかっただけで』
「早く古泉にかわれ」
返事はなかったが、保留音もないまま放置されることしばし。
ようやく待ち望んだ声が聞こえた。
『もしもし…キョンくんですか?』
「俺以外の誰がわざわざ皇女殿下のホットラインにかけてお前を呼び出したりするんだ」
『それもそうでしたね』
と笑う声がするだけでも嬉しい。
「で、俺との約束をすっぽかすほど大事な用事とやらはなんなんだ?」
低く問いただしたところで、今の俺の声じゃ高くてどすもなにもきいていないだろうに、古泉はびくりと飛び上がったような声をかすかに立て、
『それは……その………』
「ああ、とっさに言い訳にも困るほど簡単かつハルヒのわがままな理由なんだな。分かった。言い訳は後で聞く。だからとっとと帰ってこい。俺はお前の家の前で座り込みをしてやる」
『座り込みなんてしないでください。今、開けますから……』
そう言って古泉が何かしら操作をする音がしたと思ったら、俺の背後でドアのロックが解除される音がした。
「…中で待ってろってか?」
『はい。…夜までには帰りますから、お昼は先に食べててくださいね?』
「……ハンストして待っててやるから早く帰れ、ばかっ」
そう言うだけ言って、俺は通話を終了させ、ついでに端末の電源も落とす。
そうしてずかずかと古泉の家に乗り込んだ。
相変わらず趣味のいい一人住まい用の家は、あいつの独身主義を主そのものよりも雄弁に主張しているように見えて興味深い。
そこに上がり込ませる女などいないと見ればすぐに分かるほど、変化もない。
俺は、間違いなく俺のためだけにセッティングされている客間に荷物を放り出すと、リビングに戻り、座り心地がいいどころか寝心地までいいソファに寝転がった。
一人きりだとこの家は本当に静かで、耳を澄ましても聞こえてくる音はまるでない。
長期間留守にしたまま帰ってきてないせいで、冷蔵庫すら止めてあるのだから、音がしなくて当然だ。
けれどこの静けさが、俺はそう嫌いでもないのだ。
全き静寂なんざ、今時そうありはしないし、何よりこれだけ静かだと他のことは忘れて、ひたすら古泉のことだけを考えていられる。
生まれてほんの六年ほどにしかならない俺にとって、古泉というのは特別な、あまりにも特別な存在だ。
俺という存在がこの世界に出現する前の記憶に、古泉はとても強烈に刻まれている。
かっこよくて、そのくせ少し頼りなくて、ヘタレかと思ったら意地悪で、悪戯なところもあった。
俺は……生まれる前の「俺」は、そんな古泉のことを可愛いと思ったんだ。
それは多分、「俺」が「俺の古泉」を好きでいたからこそのものだったのかも知れないが、そう思った時、「俺」は古泉を好きになったんだ。
でも、「俺」が「俺の古泉」のところに戻る時、その気持ちは置いていかなければならない。
置いて行ったものが、俺になったんじゃないかと思う。
だから俺は古泉のことが好きで、だが、それだけが理由でなく古泉が好きなんだと思う。
俺にとって、この今の俺にとって、古泉は、とても優しくて、俺のことを大切に愛してくれる存在だ。
俺のことをあったかく抱きしめてくれるその気持ちが暖かい。
俺との年の差はあいつにとって、障害になりもすればならないところもあるようで、年が離れていても俺を愛してくれて、でも、俺がこんなに幼いからと自分を抑えてくれる。
それが嬉しくて、少し、もどかしい。
俺がもっと大きければいい。
あの「俺」くらいとまでは言わない。
でも、もう少し大きければいい。
早く大きくなれるならいい。
……そんな風に思うところが、まだまだ子供ということなんだろうか。
「……早く大人に…なりたいな………」
そう呟きながら目を閉じた。
「大人になったらどうしたい?」
そう聞いてきたのは父親だっただろうか。
まさか、古泉の嫁になりたいなんてことは言えないので、
「まだ分からない」
と答えた。
「……けど………軍人になりたい、ような気もする」
そう呟くように答えると、父親は嬉しそうに笑った。
多分、自分と同じ道を選ぶことが単純に嬉しかったのだろう。
しかし母親は少し渋い顔をして、
「危ないのに」
と言う。
自分だって軍属のくせに、いや、だからこそだろうか。
危ないことはよく分かってる、とは子供のセリフじゃないから言えたものではなかったが、それでもなりたいと思う。
そうして、古泉の側にいたい。
「……あなたは、大人になったらどうなるんでしょうね」
そう古泉の呟く声がして、俺はそっと目を開けた。
俺の寝転がったソファの側に膝をつき、優しく俺の前髪を撫でる古泉の目はとても優しい。
「………大人になった俺がどんなかくらい、知ってるくせに」
「あなたも『彼』と同じになるとは限りませんよ。…むしろ、違う人間になるのではないかと思います」
「…それは………困るな」
そんなことにはなりたくないと思うのに、古泉は不思議そうに、
「どうしてです?」
「……だって……お前が好きになったのは………」
「僕が好きなのはあなたですよ」
あいつだろ、とさえ言わせず、古泉は俺の頬を撫でる。
「あなたです」
そう繰り返してくれる。
「……古泉…」
「……あなただって、そうでしょう?」
微笑した古泉の笑みは優しいのに、なんだか泣きそうにも見えて、胸が苦しくなる。
「……ん…俺が好きなのは……あの『古泉』じゃない。…お前だ」
手を伸ばして古泉に触れるとやっぱり暖かい。
その手にすがるようにして体を起こし、きつく抱きしめた。
「古泉……」
「…はい」
「………なんで、俺が来るって言ったのに、家にいないんだ」
そう言って頬を抓ると、
「いたた…」
と声を上げながらも古泉は笑う。
「…すみません」
「いいか、俺は子供なんだ。さらおうと思うようなバカはいないだろうが、いたら簡単にさらわれるくらいには子供なんだぞ。そんなのを玄関先で待たせるなんて危なっかしいと思わんか?」
「ええ、さらわれても仕方ないくらいには可愛らしいですしね…」
という戯言は聞き流す。
「なのに、どうして家で待ってないんだ。この……ばかっ!」
ぽかりと叩いても古泉はびくともしない。
それなのに俺の手は痛い。
この体格差が悔しくて悲しくて切ない。
「……っ……なんで、俺はこんな子供なんだろ…」
「キョンくん……」
俺を呼んでくれる古泉の声は優しい。
背中を撫でてくれる手も。
それなのに、俺は苦しくて、涙が出てきて止まらない。
泣きやむことが難しいほど、俺は子供だ。
それが余計に悲しい。
泣きじゃくる俺を抱きしめ、古泉はとても優しい声で囁いた。
「それはきっと、僕のためですよ」
「……は…?」
驚いて顔を上げた俺に、古泉は柔らかく微笑んでくれる。
「僕に、あなたの成長を見守らせてくれるためなんだと思うんです」
「…なんだよそれ……」
「だって、」
と古泉は幸せに蕩けきったような声で言う。
「向こうの世界の『僕』だって、『あなた』の小さな頃の姿なんて知らないと思いませんか?」
「……それは…多分、そう…だろうな」
「でしょう?」
そう言って古泉は俺の頭を撫で、
「あなたの成長を見つめていられて嬉しいです。……向こうの『僕』も知らないあなたを…」
なんだかんだ言って、
「お前もあいつに対抗意識があるんじゃないか」
思わず噴き出した俺に、古泉は苦笑して、
「それはまあ…ありますよ……。全く気にしないなんてことは出来ません。どうしたって、僕と向こうの『僕』は違う人間ですし、そうであれば、あなたにいつか愛想を尽かされる可能性も否定しきれませんから」
「……ばか」
俺は古泉の頬に触れるだけのキスをして、
「…たとえ向こうのお前と同じでも、その可能性は同じだろ。愛想を尽かされたくないなら、大事にしやがれ」
「仰る通りです」
そう笑った古泉に、俺はそっと確認する。
「……もう、ハルヒから呼び出されたりしないんだろ?」
「…ええ、そのはずです」
「なら、ゆっくり過ごすぞ。…せっかく、久しぶりに一緒にいられるんだから」
と言って俺はもう一度キスをした。
今度は、古泉の唇に。