眠り月

スマイル? 3


優しい声が頭の中で響いていた。無防備な体に触れてくる手はとても優しかった。
言動はいくらか意地悪なくせに、声や笑みは優しくて、すがりついてしまう。
呼吸困難に陥りそうなほど苦しくて、熱くて、それなのに気持ちよくて。
なんて夢を見たんだと思いながら俺は体を起こし、鈍い痛みに息を詰めた。
「う……っ、な……ぁ…?」
そんなまさか、と思うのに、よく見れば俺は素っ裸で布団の中にいた。
体のあちこちには赤い跡が残り、無理な姿勢でいたとでもいうのか、股関節も大分痛む。
そりゃ、あれだけ開脚すりゃ……と思ったところで、あれが夢ではなかったと知り、ぞっとした。
酔っていたにしても、なんつーことをやっちまったんだ俺は。
やっぱり、酒に弱いのが分かってるくせに飲み放題の店になんかほいほいついてくんじゃなかった。
二日酔いも併発しているのか、ガンガン痛む頭を抱えつつ、ベッドサイドに置いてあったグラスに手を伸ばし、ぬるい水を一息に飲み干した。
が、さて、この水は誰が置いたものだろうか。
久しぶりに動かすチャリのようにギシギシときしむ体をなんとか動かし、ベッドから足を下ろす。
そうして恐々グラスの置いてあったあたりを見ると、そこには手帳から引きちぎったような紙切れがあった。
たった一枚の薄っぺらな紙切れに乗せられる情報量などたかが知れてるが、それにしたってそれはあまりにも簡単すぎた。
携帯の電話番号とメールアドレスがあるきりで、名前すら書いていない。
しかしながら、それはあれが夢でないと示すには十分すぎる証拠だった。
頭の中が真っ白になりそうだ。
確かに、上京してきてからこっち、知り合いレベルの人間は増えてもそれ以上の親しい人間など出来ず、寂しい思いをしてはいたが、だからって自分がここまでインモラルな人間だとは思わなかった。
しかも相手は男だ。
相手が何者だったかまでは覚えていないが、出来れば同じ大学の人間でないことを切に願う。
という訳で俺は、それをなかったことにしようと決め、メモを破り捨てようとしたのだが、両手で掴んだそれを破る力が出なかった。
それを破ってはいけないと、頭の中のどこかで警鐘が鳴る。
知ったことか、と破っちまいたいのに、それが出来ない。
相手の顔も覚えてないくせに、その男を完全に忘れさせてもくれないらしい。
「…っ、くそ……」
憎たらしいと吐き捨てながら、俺は無造作にその紙切れを引き出しに突っ込み、それからはっとして時計を見た。
「げ」
まずい、遅刻する。
俺は慌ててシャワーを浴びると、服を着てすぐさま部屋を飛び出した。
朝飯を食う暇もない。
とにかく急いで、なんとか遅刻ぎりぎりで教室に滑り込むと、昨日飲みに誘ってくれた奴に、
「あれからどーなりました?」
とにやにやしながら聞かれた。
「あれから…ってなんの話だ」
「いや、あの後ですよ。スマイル持ち帰り出来ました?」
「………なんの…」
何の話だ、と言おうとした時、ふっと昨日の記憶がよみがえってきた。
俺は…そうだ、したたかに酔わされて、なんだかよく分からんままゲームだったかなんだかをやらされて、その罰ゲームとして、ファーストフードショップで「スマイルを持ち帰りで」なんてあほなことを言わされることになったんだ。
それで、実際にそれを言って……あいつが……。
『お持ち帰りしてくださるんですよね?』
ぞくりと来るような甘い響きの声がよみがえる。
顔が真っ赤になりそうになったのを振り切るように頭を振り、
「うるさい」
と唸り声を上げて会話を打ち切った。
しかしながらその日の授業は上の空で、まともでいられた気はしなかった。
それどころか、その日は一日中散々だったと言ってもいい。
何がきっかけだか自分でもよく分からないうちに、妙な断片が頭の中から転がり出てくるのだ。
『…可愛い』
『あなたが好きです』
『気持ちよくなっていいんですよ』
『…あなたの名前が知りたいな』
…名前が知りたいってのはこっちのセリフだ。
お前こそ、名前くらい書いていきやがれ。
それともあれは、俺が名前を言わないうちに眠り込んじまったことに対する意趣返しのつもりなんだろうか。
しかしあれは疲労の蓄積による不可抗力と言うものであり、そうであれば責任はむしろあいつにあるはずじゃないのか。
あいつがあれだけしつこくやらかさなければ………と考えたところで昨日の行為をより鮮明に思い出し、その場にしゃがみ込みたくなった。
公道のど真ん中でなければそのままのたうちまわっていたことだろう。
こんな日は最低限の用事だけ済ませて家に帰って寝るに限る。
そう思って、あれこれと手早く用事を済ませ、やらなくてもいいものは明日以降に先送りまでしてやったってのに、どうして俺は素直に帰らず、そりゃあ確かに歩いて15分もかからない距離にあるとはいえ、わざわざ遠回りまでして件の店にいるのだろうか。
遠回りになるから、普段は滅多に使わない店であり、昨日どんな醜態をさらしていたにしても、しばらく行かなければ忘れてもらえるだろうと思っていたにも拘らず、何で俺は…と頭を痛くしながらも、俺はため息交じりに適当なセットメニューを頼んだ。
カウンターの見える席に座って、もそもそとハンバーガーを口に運ぶ。
ファーストフード店ではありえないほどの時間をかけてゆっくり食べたにも関わらず、昨日の男の姿はないようで、耳にこびりついたあの声も聞こえなかった。
どうやら今はいなかったらしい。
そのことに安堵していいはずだってのに、残念がっている自分は見て見ぬふりをして、俺はこっそりと店を出た。
一人暮らしの粗末なわび住まいに帰り、俺は深いため息を吐いた。
いつもと変わらないはずの部屋が、なんでだか酷く空っぽに見えて余計に寂しい。
この部屋に余計な体温を持ち込んだのが悪いんだ。
くたびれ果ててベッドに倒れ込むと、朝には気づかなかった匂いが鼻孔をくすぐった。
甘い…しかし、甘ったるくはなく、かすかな匂い。
「……あいつの…?」
そう呟いただけで顔が熱くなる。
「…ったく」
どうかしてる、と呟いた俺は何かわけの分からないことでも叫びたくなるのを堪えて枕に突っ伏した。
それから数日、ばかばかしいファーストフード通いを続けた俺に、感動的でもなんでもない再会が待っていた。
その日は遅くまで講義があり、空きっ腹を抱えてその店に入り、何も考えずに適当にレジに向かったのだが、その途端、
「いらっしゃいませ」
と酷く聞き覚えのある声がした。
ぎょっとして顔を上げると、記憶にはないってのに見覚えのある笑みがあった。
「…お久しぶりですね」
周りに聞こえないような小さな声で言われ、頬が熱くなるのを感じながら、
「……お…う」
とかろうじて頷く。
「今日はこちらでお召し上がりですか? それともやっぱりお持ち帰りでしょうか」
「……お前は…」
いつ仕事が終わるんだ、なんて聞いてもどうしようもないだろうと言葉を途中で止めたってのに、こいつはお見通しらしい。
「今日はもうしばらくかかるので、よろしければこちらでお召し上がりになって、少し待っていただけますか? …おごりますから」
「おごらんでいい。……これとホットコーヒーな」
適当に注文して、俺はどうにも顔が赤いだろうと分かっていながら目の前の男をぎっと睨んで、
「ここで食うから」
と付け足す。
するとそいつは多分営業用ではない笑みを見せて、
「ありがとうございます」
と軽く頭を下げて見せた。
そのくせ、あの夜と同じ意地の悪さで、
「テイクアウトでスマイルはいかがでしょうか?」
と囁くのだから、こいつも大概ひねくれている。
「…察しろ、ばか」
そう唸ったつもりなのだが、声が甘くなっていたとしたら目の前のこいつが悪いと言わせてもらおう。
すっかり定位置となりつつある、カウンターが見える席に座って晩飯を食っていると、あいつがなかなか忙しそうに動き回っているのがよく見えた。
くるくると独楽鼠のように動き回りながら、あいつは笑みを絶やさない。
そのくせそれは、俺の記憶に焼きついちまっているものとは少し違うのだ。
どこが違うとは言い難いのだが、作りものだと分かる笑み。
俺に向ける笑みとは何かが違う。
どう違うんだろうかと思いながら見つめ続けていると、少しの間手が空いたんだろう、あいつがふっとこちらを見て、柔らかく微笑んだ。
その笑みに色々と持って行かれたような気がしたが、それが具体的に何かということは分からなかったし、ついでに言うともうとっくの昔に持ってかれてたんじゃないかと言うような気もした。
ともあれ、たっぷり1時間近くも待たされた挙句、店の外で落ち合った男は、案外若く見えた。
「…お前、もしかしてそこの大学の学生か」
「え? ええ、そうですけど……」
「まじか……!」
よりによって、と唸る俺に、そいつは困ったような嬉しそうな複雑な笑みを見せ、
「あなたもそうなんですか?」
「いや、そうじゃないんだが関係者ではあって……」
どう説明したものか、と迷ったものの、
「……細かい話は後だ」
と言って歩き出す。
急に歩き出した俺にすぐ追いついたそいつは、なんだか妙に嬉しそうな声で、
「ずっと通ってきてくださってたそうですね」
「…なんでお前が知ってる」
「同僚から聞きまして。……嬉しかったです。でも、」
と苦笑したかと思うと、
「連絡先を置いて行ったつもりだったんですけど、気づいてもらえませんでしたか?」
「気づいたのは気づいたが…」
「捨てちゃいました?」
引出しにちゃんとしまってあって、時々眺めてたなんてことは口が裂けても言えん。
俺は照れ隠しをしたいわけじゃないが、
「あんなもん、どうしろってんだよ…」
と隣でへらへら笑っている男を睨み上げたのだが、
「電話でもメールでもしてくだされば、すぐにでも駆けつけましたよ?」
「どっちにしろ恥ずかしいっつうの。どの面下げてそんなことしろってんだ」
それで思い出した。
「おい」
「はい? なんでしょうか」
「名前、いい加減教えろよ」
「…ああ、そうでしたね。……僕は、古泉一樹と申します。あなたは…?」
「俺は……」
そんな風に自己紹介をしながら、順番があべこべなんてものじゃないなと思っていると、古泉が小さく声を立てて笑うのが分かった。
「どうした?」
「いえ、順番が滅茶苦茶だと思ったんです。あなたの部屋にお邪魔して、キスをして、それ以上のこともしてから告白して、でも返事はいただけなくて、今ようやくお互いの名前を知ったわけでしょう?」
そんな返事に、奇遇だななんて言葉は返せなかった。
ただ、どうしようもなく恥ずかしくてくすぐったくて、頭が爆発しそうだ。
「どうしました? 顔が真っ赤ですよ?」
「う……うるさい! 察しろ、ばか!」
そう罵った俺に、古泉は本当に察したらしい。
無駄に整った顔には不似合いな品のない笑みを浮かべ、
「気が合いますね?」
「黙れ!」
罵られても、古泉は楽しそうに笑っている。
さりげなく肩を寄せてきたかと思うと、耳元に唇を寄せ、
「あれからずっと考えましたけど、やっぱり僕はあなたが好きですよ」
と囁きやがった。
思わず息をのんだ俺に、古泉はにこやかに、
「あなたは、どうです?」
と聞いてきやがる。
「そんなもん、こんなところでする話じゃないだろ…」
「それはつまり、いい返事をいただけるってことですよね?」
「……いいからお前は黙ってろ」
今度こそ黙った古泉だったが、その眼差しは鬱陶しいほどこちらに注がれていて、どうしようもなくくすぐったい。
それにしても、俺はまたしてもこいつを部屋に連れ帰って、何の話をするつもりなんだろうか。
あの夜のことをあまり鮮明には覚えていないという話をまずするべきだろうか。
それとも、自分の身元云々の話をすべきか?
これからどうするつもりだなんて話も必要だろうか。
間違っても、俺もお前が好きみたいだ、なんて話は一番最後にしときたいのだが、うっかり口を滑らせそうな自分が恐ろしい。
そんなことを考えながらでも、隣に誰かがいてくれる帰り道ってのは不思議と寂しくないものらしいと感じていた。
多分、現実逃避ってやつだ。
俺はそっとため息を吐いたのだが、それでも古泉が幸せそうにしていたところを見ると、どうやらそう悲壮感漂うものでもなかったようである。