眠り月

スマイル? 1


少し前まで、「スマイル 0円」なんて文字がメニューに表示されてたファーストフードショップが、僕のアルバイト先だ。
今でこそメニュー表からは消えているけれど、今でもやっぱりスマイルは0円であり、常に浮かべている。
もちろん、「スマイルください」と言われたならとびきりの笑顔を向けることもある。
バイトが出来るようになった高校1年の頃から今までずっと続けているおかげで、僕は妙に愛想笑いがうまくなったと思う。
愛想笑いに見えない、とは他の店員や、よくスマイルを注文するお客さんから頂戴した褒め言葉だけれど、そうまで言われてしまうとかえって心配になるのは、愛想笑いが普通の笑いと同化してしまったということではないかと思えるからだ。
ともあれ、ホストでもないのに笑顔を振りまきつつ、今日もせっせと仕事をし、もう少しで上がれるからと退勤前のちょっとした片付けをしていると、少しばかり騒がしい連中がやってきた。
おそらく酔っぱらっているんだろう。
必要以上に声が大きく、足元までふらついている。
大学生くらいのようだけれど、同じ大学だったら嫌だな、と思うほど迷惑だ。
男女入り乱れて十人弱の集団は、その中から一人の青年をはじき出すように前に出させた。
彼は集団の中でも酔っぱらっているようで、真っ赤な顔をし、ふらふらと危うげに歩いている。
吐かれでもしたら片付けが大変だなと思っていると、彼はカウンターまでやってきて、少しばかり笑顔を強張らせながら待機していた女性店員に、
「すみません…」
と声をかけた。
その声は意外と落ち着いていて、酔っぱらって見えるのは見た目だけなのかもしれないと思った。
その彼の顔が更に赤みを増したかと思うと、恥ずかしそうに思い切りうつむいて、
「っ、す、スマイルひとつ、持ち帰りでください…」
と辺りにもはっきりと聞こえるような声で言った。
これで応対したのが僕やもっと客あしらいに慣れた人だったなら、うまいこと言って帰らせたのだろうけれど、彼女はあいにく、この春からバイトを始めたばかりで、こういう客には慣れていなかったらしい。
「えっと…しょ、少々お待ちください」
と言うと、困り果てた顔で僕の方に走ってきた。
「こ、古泉さん…」
「聞こえてましたよ。…僕がなんとかしましょう」
僕はため息を吐いて掃除道具を置き、手をきれいに洗浄してから、まだおろおろしている彼女の隣を抜けて、レジに立った。
待たされている間に一緒に来た連中どころかたまたま居合わせたお客、他の店員の注目にさらされていたからだろう。
彼はひどく恥ずかしそうにうつむいていた。
暴れたり騒いだりしないだけいい、と僕は嫌味に見えないように気を付けて営業スマイルを作り、
「大変お待たせいたしました。ご注文はスマイルをひとつ、以上でよろしいでしょうか」
「は…い……」
かすれた声で彼が言う。
もしかしたら喉でも乾いているのかもしれない、と思いつつ、あえて飲み物をすすめたりはしないで、僕は笑顔のまま、
「それでは、こちらの番号札をお持ちになって、もう少々お待ちくださいませ」
と彼に番号札を持たせ、座席の方を示した。
「え…?」
なんだかまだよく分かっていないというような彼をしている彼に、
「お席までご案内しましょうか」
と言うと、彼は慌てた様子で、
「い、いや、いい…です」
と逃げるようにカウンターを離れた。
隅の方の席に座って、疲れたようにテーブルに突っ伏した彼に、とりあえずこれで大丈夫だろうと息を吐いたところで、
「古泉さん、ありがとうございました…!」
と言われたけれど、僕は苦笑するしかない。
「たまにこういうこともありますから、うまくあしらえるようになってくださいね」
やんわりとそう言って、中断していた作業を再開した。
ちらりと様子をうかがうと、彼はテーブルに伏せたままのようで、彼の連れもいつのまにかいなくなっていた。
酔っ払いに理性を求めるだけ無駄なのかも知れないけれど、薄情なものだ。
しかし、彼が帰らないとなると、どうしたものかな。
まさかいつまでもあそこで眠らせておくわけにもいかないし、かといって警察を呼んでお引き取り願うというのもかわいそうだ。
……仕方ない。
僕は仕事を終え、私服に着替えてから一度外に出て、表から店に入りなおした。
そうして、まだテーブルに伏せている彼に声を掛けようとして、横を向いて寝ていた彼の寝顔に目を奪われた。
地味な顔立ちだと思ったのだけれど、閉じていると案外まつ毛が長いのが分かる。
薄く開いた唇が、そこから小さく漏れる寝息が、なんだか妙に胸を騒がせるもののように思えた。
この感覚をどう言えばいいだろうか。
好意というにはどこか歪んだ気持ちだ。
いじめてみたい、からかってみたい、悪戯してみたい、なんて、小学生みたいだ。
自分で自分を笑いながら、僕はうずく悪戯心のままに、彼の肩にそっと手を置き、軽く揺すってみた。
「お客様」
「ん……う………」
眠そうに目をきつく閉じなおす彼に苦笑し、
「お待たせいたしました」
ともう一度言うと、彼はそろりと目を開いた。
半ば閉じられた目は、無防備なのにどこか惹かれる。
「……あ…?」
状況が分かっているのかどうか、と怪しみながら、僕は意地の悪い笑みと共に、
「お持ち帰りしてくださるんですよね?」
と言ってみた。
「え……あ…」
目を白黒させながらも彼は起き上がり、まじまじと僕を見つめている。
僕は彼の手から番号札を受け取り、先にそれをカウンターへと持っていく。
心配そうに様子をうかがっていた職場の仲間には薄い笑みと共に、
「少しばかり懲らしめてきますね」
なんて言うと、真に受けられたみたいだけれど、まあ構わない。
僕はふらつきながらも立ち上がった彼の側に戻ると、
「気を付けてください」
と声を掛けながら、彼の手を取った。
「う……すまん………」
「いえいえ」
愛想笑いを振りまいて、僕は彼の体を支え、ゆっくりと店を出た。
初夏だというのにもう真夏のように蒸し暑い風が吹いていて、
「……暑い…な…」
と名前も知らない彼も呟く。
「暑いのでしたら、離れましょうか?」
そうしろと言われても、これだけふらふらしている彼を離すなんて危なっかしい真似は出来ないのだけれど、軽口を叩くように言ってみると、意外にも彼は首を横に振った。
「いい…。このまま…で……」
更にはその熱っぽい体を摺り寄せてくる。
僕は少し首を傾げて、それから思ったままを口にしてみた。
「……スキンシップはお好きですか」
「…つか……人恋しい…」
秋でも冬でもないのにそんなことを言った彼は、僕に家の方向を教えて歩き始めると、聞いてもないのに身の上話めいたものを始めた。
「この春、上京してきたばかりでな…。親しいやつってのも、そんな、いないんだ」
「おや、一緒に飲むような人はいるのでは?」
「誘われたから素直についてったら……しこたま、飲まされて……うっ……」
「ああ、大丈夫ですか?」
足を止め、軽く背中をさする。
吐くだろうか、と心配したものの、彼はなんとかそれを飲み込み、青い顔のまましばらくじっとしていただけだった。
「…うう……」
「どこかで休みますか?」
「休めるような場所…ないだろ……。家…近いから……」
「……では、辛くなったら止まって休みましょう。無理はしないで、すぐに言ってくださいね」
「おう…」
それでも、その後は足を止めるようなことはなく、ゆっくり歩き続けた。
二十分ほどかかっただろうか。
いくつか学生向けのマンションやアパートの建っているあたりに入ったと思うと、彼がひとつのアパートを指さし、
「そこの……一階の奥…」
「はい、かしこまりました」
ドアまで連れて行くと、彼はちゃんと自分のポケットから鍵を引っ張り出し、多少まごつきながらもドアを開けてくれたのだけれど、部屋に入るなりずるずるとへたり込んでしまった。
「ちょ…っ、だ、大丈夫ですか?」
慌てる僕に、彼は返事もろくによこさない。
目を閉じて、そのままだと玄関先で眠ってしまいそうなほどだ。
仕方ない、と僕は部屋に入ると、ドアを閉め、眠りこみそうな彼を半ば引きずるようにしながら抱き上げる。
「う…」
無理をしたからか、顔をしかめ、唸る彼に、
「すみません、少し我慢してください」
と声を掛け、奥へと連れて行く。
幸い、部屋数が多いという訳でもない一般的なアパートであり、すぐにベッドが見つかった。
シングルサイズのベッドに彼をなんとかつれていくと、彼はごろりと横になった。
カーテンを開けたままの部屋の中はそれなりに薄暗いものの、外からの光が差し込んでいて、物の形どころか色まで見える程度には明るい。
彼の顔色がそう悪くもないことを確かめ、とりあえず安堵した。
「…やれやれ」
思ったよりも大仕事になってしまったとため息を吐きつつ、離れようとしたところで、妙なことになった。
彼が僕をきつく抱きしめて離さないのだ。
「…あの……もう離してくださっていいんですよ…?」
「……まだ…」
「………はい?」
「…まだ……もらって、ないだろ…。せっかく、持ち帰りって、苦労して言ったのに……」
じわじわと顔を赤くしながらそんなことを言った彼は、なんだかとても可愛く思えた。
「…スマイルなら、十分振りまいたと思うんですけどね?」
そう意地の悪いことを言うと、彼はむっと眉を寄せたくせに、
「まだ足りない…」
と呟くように言う。
「寂しいから離れたくないんだと、正直におっしゃってはいかがです?」
悪辣な笑みを浮かべて言うと、彼は更に顔を赤くして、
「う、るさい…っ」
「ふふ……でも、実際そうなんじゃありませんか?」
「……」
返事はない。
ただ、僕の背中に回された腕に、また少し力が加えられる。
「初対面の誰だか分からない人間を部屋に上げたばかりか、こんなことまでして……何かあったらどうするんです?」
「…は……? 何か…って……?」
分かってない様子の彼に、僕は薄く微笑して見せる。
「たとえば、そうですね。何か盗まれるとか、あるいはこのまま襲われてしまうとか」
「…盗んで金になるようなものはないぞ。それに……俺を襲ったって、しょうがないだろ」
「…じゃあ、あなたは僕に襲われてもいい、と?」
「そうは言ってないだろ…」
そんな話をしながらも、彼は離してくれない。
そればかりか甘えるように頭をすり寄せてくる。
可愛い、なんて思ってしまったのはまずくない。
まずいのは、そう思った自分に気づいてしまったことだ。
「……ええと…ですね……襲われたくないのでしたら、離した方がいいですよ…」
引きつった笑みを見せながらも、もう一度体を離そうとしたのに、
「……行くな…」
としがみつかれた。
「あの……本当に…」
まずいんだけどな、と苦笑いしても彼には見えていないらしい。
子供のようにしがみついてくる相手、それも同性に対してこんな気持ちになる自分の方がおかしいのは分かっているつもりだけれど、それにしたって残酷だ。
無防備に抱きしめられて、可愛らしくすがられて、僕はどうにかなりそうなのに。
「……抵抗、してくださいね」
そう告げて、僕は彼の体に自分の高ぶりを押し当てた。
ゆるく勃ち上がっただけのものでも、十分その存在と意味は通じるだろうと。
彼はびくりと体を竦ませ、
「あ……」
と短い声を上げた。
その顔に赤みが増す。
「……な………、それ…まさか………」
「まさか、ですけど、本当です。別に何かポケットに入れたままだとかそういう訳じゃありませんよ」
彼の赤い頬に唇を寄せ、そのまま耳元まで舌先でなぞると、彼の体が小さく震えた。
「ふ、あ……っ…!」
「……可愛いですね」
「な、に、言って……!」
「ほら、抵抗しなくていいんですか?」
あえて意地悪に言うと、彼は泣きそうな顔をするのに、僕を離そうとしない。
「………寂しい、よりは、いい…っ……」
それは酔っていたからこそ出た言葉なんだろう。
そうでなければ、自分の貞操――と言っても間違いではないと思う――よりもそれを優先させるような言葉は出ないものだと思う。
もし、そんなことが簡単に出来る人ならば、こんなことにはならないだろうとも。
「……付け入りますよ」
「す、きに、すりゃ、いいだろ…」
恥ずかしそうにそう言った彼を抱きしめ返す。
安堵したように彼の手が緩むのも可愛いと思った。