眠り月
雨の午後
「どこかに出かけましょうか」
「……海岸とか?」
「海岸…なんてどうして出てくるんです?」
「涼しそうでいいだろう?」
「うーん…どうでしょうね……」
「…眠い」
「いや、寝るのはさすがにもったいないと……」
「と…? と………とんでもないことは言い出すなよ、真昼間から」
「ラフな格好で寝転がっているあなたを見ているとどうにも……」
「……もういい」
そう言って彼は体を起こし、めくれあがっていたトレーナーをきちんと腰のあたりまで下ろした。
「つか、なんでお前は微妙に不穏な方向に持ってくんだ」
「だって、あなたがかわいらしいからいけないんですよ」
「しりとりはもういいって言っただろ」
むっと眉を寄せてそういった彼は、大きく伸びをして窓の外を見た。
「まだ降ってやがるな」
「そうですね…」
彼は視線を窓から正面に戻したものの、何を見ているという様子もなく、ぽつりと呟いた。
「……退屈だ」
それはそうかも知れないけれど、
「僕としてはこのままでも悪くはないんですけどね」
「お前はそうかもな」
「おや、あなたは違うんですか?」
「お前と二人きりで部屋の中に閉じこもってるなんて、嫌な予感しかしないだろ。悪寒と言ってもいい」
「酷いですね」
僕は小さく声を立てて笑い、そっと彼の髪を撫でた。
出かける予定がふいになったからとパジャマを着替えてもいない彼は寝癖もそのまま放ってある。
無防備にはねた髪さえ可愛くて、つい頬が緩んだ。
その跳ね上がったいたずらっ子のような髪をちょっと撫でつけて、僕は囁くように、
「誘ってるんですか?」
と冗談半分で呟いてみた。
残り半分は本気というよりも淡い期待に過ぎない。
彼がそんな冗談に簡単に乗ってくれないことくらい、僕もよく分かっている。
案の定彼はますます眉間のしわを深くして、
「暇つぶしにプロレスの真似事でもするか? 俺が悪役をやってやるから、お前はどんな反則や凶器攻撃にも耐えろよ」
「それは流石に勘弁してください」
笑いながら身を引くと、彼はどこか満足そうに笑ってくれた。
「ああ、それにしても暇だ。退屈だ」
と彼は繰り返す。
そうしておいて僕の方を見ると、
「本当に、お前は退屈じゃないのか?」
「退屈だなんて思いませんよ。確かにテレビはみたいものなどまるでないですし、ゲームの類もやりつくしてしまいました。けれど、あなたといられるのに、これ以上望む必要なんてありませんよ」
「……臭いセリフだ」
そう言ったきり、しばらく彼は唇を固く引き結んでしまった。
でも僕は、そんな不機嫌そうに見える彼の顔を見ているだけでさえ、どうしようもなく嬉しくて幸せで、これ以上のことなんて望むべくもないと思ってしまうのだ。
望んではいけない、とまでは言わない。
ただ、その必要がないだけで。
「もし、」
と彼は不意に口を開いた。
その目は天井を見上げていて、僕への問いかけとはすぐには思えないほど小さな声だった。
「…俺がなんでもいいからお前の言うことを聞いてやる、って言ったらどうする?」
「なんでも……ですか?」
「ああ、なんでもだ。もしもの話だからな。それが犯罪であっても許してやるさ」
なるほど、雨に閉じ込められた部屋の中で、暇つぶしのための空想遊びをしようということらしい。
「そうですね……」
と僕は腕を組んで少し考え込んだ。
でも、思い浮かぶことなんてひとつきりしかない。
僕は恐る恐る、
「……絶対に怒らないって、約束してくれますか?」
と前置きのように口にした。
彼は不審そうな顔をして、
「俺が怒りそうなことなのか?」
「ええ、多分、話を最後まで聞けなくなるほど怒ると思うんです。でも、そこで怒らずに、我慢して最後まで聞いていただけるなら、正直にお答えしますよ」
「……………分かった」
唸るように彼は言い、それを聞いて安心した僕はそろりと話し始めた。
「なんでもいいから僕の言うことを聞いてくださるというのなら、どうか、この先ずっと、僕と一緒にいてくださいませんか」
そう告げると、彼は一瞬唖然としたようだった。
呆れたような顔で僕を見つめ、それから、怒りに眉を寄せた。
ああ、やっぱり怒ってしまった。
でも、彼は約束をちゃんと守ってくれる人だから、苦虫を口いっぱいに頬張ったような顔をしながらも、先を促すように黙っている。
僕は苦い笑いを浮かべつつ、続きを話すために口を開いた。
「もちろん、あなたがそのつもりでいてくださっているということは、よく分かってます。そうでないのに、あらゆるリスクを顧みず、僕とお付き合いをしてくださるはずなどありませんからね。ましてや、あなたから僕に思いを告げてくださったのですから、それまでにどんなにか悩んだかということは、少なからず察せられます。ですから、今更こんなことを願うのは馬鹿げているし、あなたを怒らせるだけだということも分かっているんです。でも、」
といよいよ僕はどうしようもなく顔が緩み、だらしのないにやけ面になるのを感じながら、しかしそれをどうすることも出来ず、ただ話し続けた。
「それこそが、僕の唯一の望みなんです。とても贅沢でわがままで自己中心的なものだと、自分でも思います。けれど……あなたなら許してくれますよね?」
「………ばかだな」
というのが彼のコメントだった。
「なんでそこまで分かってて、そんなこと言うんだ。それならまだ、今のままで十分だとかなんとか言うか、いっそのことネタに走るつもりで、コスプレがしたいとか露出プレイがしたいとか言った方がマシだろ」
「あなたに余計な嘘はつけませんから」
「んなもん、方便の範囲内だろ」
「……怒りました?」
「怒ってねえよ。……そういう約束だろ」
そう言って彼は僕に背を向け、そのまま、その背を僕に預けた。
「あ……」
「……ほんとに今更だ。お前は、俺がどれだけ悩んだか少なからず察せられるなんて偉そうに言ったけどな、俺がどんなに悩んだかなんて、他の誰にも分からんのだ。……お前にも、だ」
「……」
彼はそっと手を伸ばし、顔をそむけたまま手探りで僕の手を見つけると、軽く握り込んだ。
「お前のことを好きになっちまって、それを黙っていることも出来ないくらいになって、それでも耐えた俺の苦しさだって、お前には分からん。否定材料ばかり集めて、そうでないものからは目をそむけて、いけないことなんだからと抑え込もうとした俺がどんなに気分が悪くなったかなんてことも、分からないだろ」
彼は僕の手を更に強く握りしめ、ほとんど泣き出しそうな声で言った。
「そんな俺が、お前を放せると思うか…」
「思いませんし、放してほしいなんて夢にも思いません」
はっきりと告げて、彼の手をきつく握る。
「…僕こそ、決してあなたから離れませんから」
「……約束だからな」
そう言って彼は手をほどき、代わりに小指同士をそっと絡めた。
「約束します」
「………ん」
やっと振り向いてくれた彼は、泣いてはいなかった。
不機嫌な顔もしていない。
でも、なんだか寂しそうで、片思いをしていた頃にはもっと辛かったんだろうと、僕にもかすかに分かった気がした。
彼の言うとおり、本当にそれがどのくらいのものであったのかは、彼にしか分からない。
きっと、僕が理解したものからするとはるかに大きなものだったのだろう。
彼は僕に向き直り、そうして少しのためらいの後、僕の腕の中に潜り込むようにして抱きついてきた。
「……俺も…悪かったな」
「何がです?」
「…お前と一緒にいるのに、退屈だとかなんとか文句ばかり言って悪かったって言ってんだろ」
拗ねたように謝るなんて子供っぽいけれど、そんな風に照れ隠しをして見せる彼も可愛く思った。
「では、お互いに至らないところがあったということで、仲直りをしましょうか」
「ん」
頷いた彼に顔を近づける。
予告をするように、ぎりぎりのところで動きを止めると、彼はそっと目を閉じてくれた。
「ごめんなさい。…大好きです」
そう言って、触れるだけのキスをする。
彼は薄く目を開けて、
「俺こそ、――ごめん。……好き、だ」
と言ってキスをしてくれた。
そうして仲直りをして、つまりはちゃんと謝ったけれど、でもやっぱり思うのだ。
「僕はあなたといられるだけで、どうしようもなく幸せです」
「……俺はお前よりよっぽど欲深いからな」
偽悪的に呟いて、彼は僕の首に腕を絡める。
「お前といるだけじゃなくて、お前と何かしたいとか、お前のためになにかしたいとか、つまりはもっと欲しくなるんだよ。だから、」
と言って僕の耳に唇を寄せ、
「雨でも楽しめるところに出かけるか、それとも家の中で出来る一番楽しいことをするか、お前が選べ」
と今度こそ明確な誘い文句を口にしてくれた。
僕がそのどちらを選んだかは、言うまでもない。
僕はおそらく、彼が浮かべているそれよりもよっぽど悪そうな笑みを返し、
「そんなの、決まってますよ」
と言って、彼をカーペットの上に押し倒したのだった。