眠り月
ケダモノになりたい
まずいかも知れない、と思ったのは、自分の目が何とはなしに彼の仕草を追っていることに気付いた時。もうだめだと思ったのは、彼の笑顔をいやに眩しく感じた時。
絶望的過ぎてむしろ笑いたくなったのは、彼と彼女が仲良く談笑している時、間に割って入ることはおろか、会話に耳を傾けることさえ苦しくなった時だった。
別に疎外されたわけじゃない。
僕が興味を示せば、彼も彼女も明るい笑みとともに、会話へ加えてくれるんだろうとは思うけれど、そうしたくないと思ってしまった。
二人が親密であるということも、他人が少し混ざりづらいような雰囲気になれるということも認めたくないと思えた。
僕にとって本来それが望ましい状況であるはずなのに、だ。
どうしようもなく湧き上がる嫉妬心を抑え込むためには、耳をふさぐのが一番容易かった。
そうして頭の中に転がっている物事に意識を向ければ、彼のことばかりが見つかってしまう。
僕は自分が彼を好きであるということを認めざるを得なかった。
けれど、認めたからといって何が出来るだろう。
彼は彼女の傍らにあるべき人であり、僕なんかが横からかっさらっていっていいような人ではない。
それに僕は、彼の近くにいられなくなるくらいなら、どんなに苦しくてもこの想いを秘めたままでいる方がいいと思う。
それくらい、好きだ。
彼の側にいたいと思う。
触れられなくてもいい。
見ていられるだけでも十分だ。
この想いは成就させてはいけないんだと自分に言い聞かせると少しだけ楽になるような気がして、そのくせ胸の奥はずくずくと痛み続ける。
割り切ってしまえばいいのに、と思うようにならない心という厄介なものを持て余しつつ、そっとため息を吐いた。
「どうした?」
問いかけられて、反射的に笑みを返す。
「なんでもありません」
「…なんでもないにしちゃ、悩ましいため息だったな」
「そんなことはないでしょう」
苦笑する僕に、彼もかすかな苦笑を浮かべて、
「まあ、言いたくないなら構わんが…俺に言ってなんとかなることなら、遠慮なく言えよ。黙っていきなり何かやられる方がよっぽど心臓に悪いからな」
と言ってくれる。
その優しさに、僕がどんなに動揺しているのか、この人はきっと知らない。
知らないままでいい。
でももし、とありえないことを考える。
悩ましいため息だったなと言われて、
「ええ…少しばかり悩んでまして」
と返せていたらどうなっただろう。
彼のことだ。
「ほう」
と軽く身を乗り出して興味を示しながらも、彼らしい良識で、あまり踏み込もうとはしないでいてくれるだろう。
「それが恋の悩みなんだとしたら……どうします? 聞いてくれますか?」
悪戯の相談でもするように問いかけられたらいい。
そうすれば彼だって、冗談だと思ってくれるだろう。
にやりと笑って、
「拝聴しようじゃないか」
くらいの大仰な言い方くらいはしそうだ。
「実はですね、」
「うん」
身を乗り出して顔を近づけて、彼の顔を間近で見つめて、心臓を余計にびくつかせながら、なんでもない顔が出来るだろうか。
「って、こら、近すぎるぞ」
とたしなめられるのも、結構好きなんだけれど、彼の意外と長いまつ毛を見つめたり、いつもどこか眠そうな瞳に好奇心を光らせているのを見るのも好きだ。
「好きな人がいまして」
と明かしたら彼はどんな顔をするだろうか。
面白がるのかそれとも呆れるのか。
あるいは、心配してくれるだろうか。
そんなことをしている余裕があるのかと。
……いや、それはないだろう。
彼のことだから多分、
「ほう、そりゃいいな」
と言ってくれる気がする。
僕がそんなことを考えられるだけの余裕があるということを喜んでくれそうなところが彼にはある。
お兄さん気質によるものなんだろうけれど、それがくすぐったくて嬉しいくせに、少しばかり物足りなくも思う僕は本当にどうしようもない。
「で、相手はどんな子だ?」
そう水を向けられたら、僕はどう答えられるだろう。
あなたです、なんてことは冗談としてでも言えない。
だから僕ははぐらかすように、
「とても優しい人ですよ。それに頼もしくて、しっかり者で、でも少しばかり自分を過小評価してしまう人なので、心配にもなりますね。悪い男に騙されそうで」
「ああ、いるよなそういうタイプ」
自分がそうだとは思いもしないで、そんなことを言うのだろう。
「いっそのこと、他の誰かよりも早く自分が騙してしまおうかと思うくらいですよ」
冗談めかしてそう言えたら、彼はどう答えるだろう?
騙すなんてのはよろしくないとたしなめてくれるだろうか。
それとも面白がって焚き付けるだろうか。
「やっちまえ」
と笑う彼を騙しにかかったら、どんな顔をするんだろう。
それとも、今やってます、とでも言ったら?
想像を巡らせるのは楽しいけれど虚しい。
僕が頭の中でどう考えたって、彼のことだ。
どうせ僕の想像の斜め上をいってくれるに違いない。
そんな風にあれこれ考えて、想像をめぐらすことは出来るのに、僕は自分の指先ひとつとして、自分の思うままに動かすことすら出来ないのが、余計に虚しくさせてくれる。
いっそのこと余計なことを考えないような、
「…ケダモノになりたい……」
とぽつりと思わず呟いた僕を、彼がぎょっとしながら、そのくせ真っ赤な顔で見たのは、一体どういうことなんだろう?
「どうかしましたか?」
そう尋ねてみると、彼はまだ赤い顔をしたまま、
「どうもなにも…お前こそどうしたんだ、いきなり訳が分からん……」
「……なんでもありませんよ」
殊更に作り笑いを浮かべれば、彼は面白くなさそうな顔をしながらも引き下がってくれる………はずだった。
けれど、今日の彼はどうもいつもと少し違ったらしい。
もしかすると、涼宮さんたちが先ほど出て行ってしまったことも関係しているのだろうか。
ずいっと身を乗り出して、
「ケダモノになりたいってのは、あれか、人間を辞めたくなるくらい疲れてるってことなのか、それとも、いわゆる慣用表現的な意味でのケダモノのような男になっちまいたいってことなのか?」
と問いただしてくる。
僕は少しばかり怯みながらも、彼の問いかけから逃れようとは考えられず、
「ええと……どうでしょう、その中間というところかも知れません」
「中間?」
「…余計なことを考え過ぎてしまうので」
と苦笑すれば、なんとなくは理解してくれたらしい。
「……確かにお前は考え過ぎだな」
どこかむすっとした顔でそう呟いておいて、
「で、その考え過ぎるのをやめて、ケダモノよろしく本能のままに動いてみるってのはやれそうなのか?」
「やれそうなら、こんなに悩まないでしょうねえ」
苦笑した僕に、彼は軽く眉を寄せて、
「やれないと思うのか?」
「人間が理性を捨てて本能の赴くままに動いて、うまくいくとは思えませんね。そんなことをしてうまくいくほど、野生が残っているとは思えません」
「…なるほど、そうらしいな」
どういうわけか彼はそう呟いた。
それを訝しく思った僕が、
「はい?」
と問うように首を傾げると、彼は面白くなさそうな顔をして、
「動いちまえよ」
いつにない強さでそう言い切った。
「え?」
「好きにやっちまえ。ぐだぐだ悩んでたって現状が変わるか。むしろ悪化するだけだろ」
「……ええとなんだかどこかの急進派のご意見のようですね?」
冗談めかして言っても、彼は話題を変えてくれるどころかむしろ険しい顔を深めて、
「そうだな、忌々しいがこの件に関してはあいつの意見に同意してやってもいい」
とまで言った。
驚きに目を見開いた僕をじっと見つめ返して、
「このままだとじり貧になるってことは分かってる。だが、下手に動けばさらに悪化するかもしれないということも考えられる。それで臆病になる気持ちもわからないでもない。けどな、そんな後ろ向きのままで何か変わるか? 進むか?」
どこかいらだたしげに呟いておいて、僕からそれを指摘される前にそれに気が付いたような様子で、言葉の槍を収めた。
「……すまん、言い過ぎたな」
「いえ、その通りだと思います」
そう返しながらも、僕は不思議でならない。
「けれど、」
と浮かぶままに問いかけを口にする。
「あなたは一体何に対して、そんなことを思っているんです?」
すると彼は一瞬目を見開き、それからもう一度顔を赤くして、
「こんっの、鈍感! 呆け!」
と彼らしくもなく僕を罵り、やりかけのチェスも自分の荷物も放り出して飛び出して行ってしまった。
僕は残されたものを目の前に、途方に暮れる。
片づけをしない訳にもいかないし、荷物を届けない訳にもいかないのだけれど、それにしたって彼のあの捨て台詞をどう解釈したものか。
自分の都合よく解釈しようとしたり、それを打ち消したりと頭の中はフル回転で忙しく、メモリ不足にでもなりそうだ。
いっそのこと、考えることなんてやめてしまおうか。
彼に言われた通り、余計なことなんて考えずに、したいことをしてしまおうか。
「……よし」
小さく気合を入れて、僕は急いでチェスを片付ける。
そうして自分の荷物と彼の荷物を掴んで、部室から駆け出した。