眠り月

還りつく



確かに、何かが変わったような気はした。
だがそれは、自分でも漠然としか感じられず、つまりは表に出るようなものでもないと思っていたのだが、どうやらそうではなかったらしい。
朝になり、なんでもないような顔をして飯を食っていたら、和希がじーっとこちらを見つめてくるので嫌な予感がした。
「……和希、どうした?」
眉を寄せながら問えば、和希は、
「…いや……」
とかなんとか言葉を濁らせ、しばらく黙り込んでいたものの、やがて、
「…………ヤッたな」
と呟きやがったので、俺と一樹はそろって飯を噴き出した。
「きたなっ!」
などと文句を言うのも飛び退くのも勝手だが、誰のせいだと思ってるんだ!
げほげほとむせながらも抗議すると、和希はケロッとした顔で、
「んなもん、気にするなよ。大体、親父とお袋が何してんのかなんて、昔から知ってたし」
「む、昔って……」
一体いつからだ、と青ざめる俺に、和希は悪戯っぽく笑って、
「…小学生くらい?」
「っ!?」
それこそ口から心臓が飛び出るかと思うくらい驚いた俺に、和希はにやにやしながら、
「一応、親父には注意したこともあるんだけどな」
「……!」
思わず一樹を睨んだが、一樹は慌てて頭を振った。
ぶんぶんと大きな動作が子供っぽくて可愛い、じゃなくてな。
「記憶がないんだし、そもそも、もうとっくに時効だろ」
と和希が言うのは勝手だが、俺のこの怒りはどこにぶつければいいんだ。
ぎりぎりと奥歯を噛みしめていると、横から一樹が、申し訳なさそうな顔をして、
「その…………あの…、すみませんでした」
と謝ってきたが、
「覚えてないんだから、謝らなくていい」
思い出したらとっちめてやる、と唸る俺に、一樹は柔らかく笑って、
「では、思い出さない方が身のためでしょうか」
などと言いやがる。
「ばか」
そんなこと、冗談でも言うな。
そんな俺たちのやりとりを見ていた和希はしみじみと茶を飲み、
「鬱陶しいが、これでこそ我が家の光景だなー……」
と呟いていた。
悟ってるなお前……。
「そりゃもう……我慢出来ない親父と、そんな親父にべた惚れのお袋がいりゃあ……」
……すまん。
「いいっての」
そう言って、和希は薄く笑い、
「俺も、わざわざ骨を折った甲斐があったってもんだな」
「……は?」
なんだそりゃ、と首を傾げる俺の隣で、一樹が苦笑するのを感じた。
「一樹?」
お前は何か知っているのか、と問いただすより早く、和希が父親そっくりのにやけた面で、
「やっぱり気づいてなかったのか」
と面白がっているとしか思えない声で言う。
「気づいてなかった…って……何にだ」
「散々親父を挑発してやったのに」
「はぁ!?」
挑発だと!?
「そんなことしてたのか!?」
「されましたね」
と一樹は苦い笑みを見せた。
「何を……」
「本当に分かってないんですか?」
「分からん」
「ほら、僕の制服を着てあなたの寝込みを襲ったり……」
「……あれ、挑発だったのか」
「……あなたのそういう鈍さも素敵ですよ」
それ、どう聞いても皮肉だろ。
和希は相変わらずにやにやしながら、
「ま、そういうことだから、実際にはお袋をどうこうしようとは思ってねえよ」
というか、
「お前にはとっくに決まった相手がいるだろ」
「あ、あいつには内緒にしといてくれよ。下手に知られたらめんどくさい」
「だったら、最初からやるなよ……」
「俺なりにお袋を心配してたんだって」
半分以上面白がっていたんだろうによく言うぜ。
「ま、心配なくなったから、そろそろ俺は向こうに戻る。邪魔者がいなくなったら、遠慮なく夫婦仲良くしてくれ」
そう言って和希は箸を置き、悠々と部屋を出て行った。
食器片付けてけ。

しかしながら、一樹との妙な感じがなくなったのはよかった。
少しばかりの前進だな。
あらためて、一樹の勤め先の方にも連絡を入れておこうと電話をしたら、少しばかり落ち着いてきたという俺にえらく喜んでもらえてほっとした。
それから、社外に持ち出していい情報やパソコンに入っているデータに触らせてみるのはどうかという提案をしたら受けてもらえたので、そうすることに決める。
電話を切った俺は、一樹がどこに行ったのかと探し始めた。
リビングにはいない。
外に出て行った様子もない。
となると、自室か?
ちなみに我が家に書斎なんてしゃれたものはない。
俺にせよ一樹にせよ仕事をするのはリビングと決まっていたし、そんなスペースは子供が二人もいれば当然のように埋まった。
強いて言うなら、有希の部屋と書庫が書斎のようなものではあるが、そこにはいないだろう。
かといって昼間から寝室にいるだろうかと思いつつ、寝室をのぞいてみると、一樹がベッドに座ってぼんやりしていた。
「……何やってんだ?」
「あ……いえ、電話を掛ける時、側にいたらお邪魔かと思いまして」
「んなわけないだろ。大体、あれはお前の上司に掛けたんだぞ」
「え?」
「言っておくが、機関がどうっていうんじゃないからな。お前のまっとうな勤め先だ」
「そうなんですか…。ちなみに、僕は一体どんな仕事をしてたんです?」
「次世代半導体がどうのこうの言ってたか? ケイ素を用いてシナプスがどうの…ってSFまがいのことを言ってたが、俺の頭じゃ右から左に素通りだ」
「はあ…」
「で、上司の許可が出たから、お前のパソコンで仕事の情報に触れてみたらどうだ? いい刺激になるかも知れんぞ」
「……そうですね。することもありませんし」
「よし」
一樹のパソコンは主より先に帰って来て、リビングに置いたままになっている。
テーブルを片付けてノートパソコンを開くと、いきなりパスワードを要求された。
「やっぱり、一応設定してあったか」
「…とりあえず、僕が使っていたのを試してみますね。こういうものであれば、回数の制限もないでしょうし」
「だな」
全く、生体認証にしておけばいいのに、妙なところでアナクロ趣味を発揮しやがって。
一樹が何度か試したが、パスワードが違うとばかり言われてしまう。
「思いつくものはほかにないんですが……」
と困り果てている一樹に、ふと思いついたことがあった。
「一樹、俺の名前を入れてみろ。古泉からフルネームで」
「え? …分かりました」
首を傾げながら、一樹がそれを打ち込むと、見慣れた画面がようやく表示された。
一樹は驚いた顔で俺を見つめ、
「知ってたんですか?」
「いや。ただ、お前のことだから、そういうべたなことだろうなと思ってな」
「はぁ……」
呆れているのか感心しているのか分からない声を漏らした一樹が、ワードやなんかを開き、最近表示したファイルを片っ端から見始めると、俺には全くついて行けない内容になる。
一樹も首を傾げているようだ。
「分からんか?」
「ええ、そうですね……少々、専門的過ぎて……」
「あいつの使ってた資料なんかも、有希の書庫にあるはずだから、今度有希に頼んで出してもらうか」
「……有希さんに、ですか」
「資料も含めて、うちの本の管理はあの子任せだからな」
嫁に行ってからも頻繁に顔を出してくれるし。
……最近見ないのは、一樹がこんな状態だから、気を遣ってくれてるんだろうな。
一樹が何とも言えない表情で黙り込み、理解できなかったというファイルを閉じていく。
そうしておいて、ふと何かに目を止めた。
「どうした?」
と尋ねながらディスプレイを覗き込むと、デスクトップの隅っこに、「kyon」と書かれたフォルダがあるのが分かった。
「……なんだこれ」
「開けてみましょうか」
いや待て、何か嫌な予感がする。
止めようとした時には、遅かった。
表示されたフォルダにはご丁寧にサムネイルが表示される設定がしてあったらしく、そこには薄暗い画像があった。
その薄暗さだけでも怪しい。
いやむしろ、それで理解した。
「よく見えませんね…」
と言っている一樹の高校生らしい純粋さが胸に痛いほどに。
「表示させるな!」
思わず怒鳴ったが、びくっとした一樹が思い切りクリックしちまった。
そうして、大写しになったのは、なんとも言いたくない画像だった。
つまり、その、あれだ。
主として夜中の寝室で行われるある種の格闘技の模様を写した写真である。
これ以上詳細な説明は無理だ。
俺が憤死する。
「け、消せ馬鹿!」
「だめですか?」
と言っている声が笑ってやがる。
くそ、性格悪いぞお前。
「だめだから、消せ」
しかし一樹は消そうとはせず、次々画像を表示させていく。
つか、いつの間にハメ撮りなんかしやがったんだ…!
全く気付かなかったなんて、不覚にもほどがある。
「け、さ、せろっ!」
マウスを奪い取ろうとする俺の手を器用にかわしながら、にやりと笑って見せた一樹は、
「見たら何か思い出すかも知れませんよ?」
という言葉で俺の動きを封じた。
「き、きたねぇぞ…!」
「きれいですよ」
涼しい顔でそう言って、一樹は画面いっぱいに映し出したそれを見た。
「そっちじゃない……いや、そっちもきれいじゃないだろ!」
「きれいです」
断言するから恐る恐る画面を見たが、そこに映されているのはどう見たってきれいなんかじゃない、三十男が体を大きく二つに折られて見っとも無い醜態をさらしている画像だ。
きれいなはずがない。
真昼間から何見てんだ、と思うと居たたまれなくなった。
「俺、やることあるから……」
そろそろと腰を浮かせた俺に、一樹は意地悪く、
「恥ずかしくて見ていられませんか?」
「当たり前だろ。こんなもん…」
「こんなにきれいなのに」
「だからそれはもういいって……。そんなもん、グロ画像、よくてもただのエロ画像だろ」
恥ずかしくて死ぬ、と言いながら立ち去ろうとした俺に、一樹はぼそりと呟いた。
「愛し合ってるって分かりますよ」
したり顔でそう言われ、俺は今度こそ耐えられなくなって逃げ出したのだった。