眠り月

ぎくしゃく


昨夜あんなことがあって、まともに一樹と顔を合わせられる訳がない。そんなわけで俺は昼近くなっても布団にもぐったまま動かなかった。
一応和希にはふて寝する旨をメールで伝えておいたので、食事くらいはなんとかしてくれるだろう。
というか、飯も炊いてあるしカレーだって出来ているんだから勝手に食ってくれ。
心細くて、寂しくて、こんな時は決まって嫌な夢を見るからと実際には眠れもせずに、布団の中で丸まっていると、小さな音を立ててドアが開いた。
そちらを見たりはせず、じっと息を殺していると、
「…まだ起きないんですか」
と一樹の声がした。
「もうお昼ですよ」
知るもんか、と縮こまっていると、そっと背中を撫でられた。
「……せっかく一緒にいられるのに、あなたの顔が見られないのは寂しすぎます。せめて、声だけでも聞かせてもらえませんか?」
その言葉にどきりとした。
「…一樹……?」
「ああ、よかった」
ほっとした声に引かれて、布団から顔を出すと、柔らかな微笑を向けられた。
「……思い出したのか…?」
にっこりと笑う笑顔が嬉しくて、愛しくて、もうこれが夢でもいいと思いながら、反射的に抱きついて――気が付いた。
ドアの外に不機嫌な顔をした一樹が立っていることに。
それから、自分が抱きしめているのが、親父にそっくりすぎるほどそっくりな我が子であることに。
「……和希」
「どうした?」
「どうしたじゃないだろうが…! 親をからかうなと何度言ったら……」
「あー、うん、ごめんごめん」
笑いながら俺から離れた和希をよく見れば、なるほど、見間違えても仕方がない。
「なんでわざわざ一樹と同じ髪型にしたんだ…」
服も一樹のじゃねえか。
「お袋が何度も髪を切れって言うから、さっき行ってきたんだよ。そうしたら、親父が行ってるところで、なんだかちょっと若返りました? なんて言われて。面白くなったし、せっかくだから親父の服を借りてみた」
けろっとした顔で言って、
「にしても、相変わらず親父と見間違えるんだな」
「寝ぼけてる時にやるからだろ…」
「酔っぱらってる時にはしてないだろ。身の危険があるからな」
「ばか」
べしりと頭を叩いてみても、和希は反省する様子もない。
「せっかく起きたんだから、飯にしたらどうだ?」
「…食欲がない」
「お茶とお菓子でもいいって。それか、食べれそうなもの作ってやってもいい」
「……」
息子にそこまで譲歩されて、ふて寝を続けるのもばからしい。
俺は仕方なくベッドから抜け出し、リビングに連れて行かれた。
とてもじゃないが、一樹の顔をまともに見れない。
昨夜から続けざまに、醜態ばかりさらしている気がする。
恥ずかしくて申し訳なくて顔を伏せていると、
「ほら、お袋の分」
と言って和希がコーヒーを寄越した。
ほんの少しだけミルクと砂糖が入った、俺の好みのコーヒーに少し落ち着いた。
戸棚に隠しておいたクッキーを、わざわざ袋を開けて寄越すから、仕方なくもそもそ食っていると、和希がほっとしたように笑った。
「……心配かけてすまん」
小さく謝ると、和希は苦笑して、
「別に、俺が勝手にやってるだけだろ」
それでも、息子に気を遣わせる親ってのも相当に情けない気がする。
「滅多にないことだから、別にいいんじゃないか? これまでなら、俺が何かするまでもなく親父があれこれやり過ぎるくらいやっただろうし」
と言って和希がちらりと一樹を見たのは分かったが、一緒になって一樹を見る勇気はなかった。
「……お前ら、飯は……?」
「俺はさっき食ってきた。親父は?」
一樹はどこかぎこちなく、
「僕はまだ空腹じゃないので……」
「じゃあ、後でお袋と一緒に食えばいいか。カレーもまだどっさりあるしな」
この様子だと炊いておいた飯もそこそこ残っているんだろう。
カレーを混ぜてピラフもどきにでもしようか。
それとも、チーズと一緒に盛り付けて焼いて、カレードリアにでもするか。
そんなことを考えて逃避していても、視線は感じる。
なんだか分からんが、一樹が俺をじっと見ているのが分かる。
俺が何かしたってのか?
…いや、昨日のあれがあるから、何かしたといえばしたことになるんだろうが。
怖々顔を上げると、一樹は戸惑った様子を見せたものの、目をそらしはせず、
「その……気になったんですが…」
と口を開いた。
「…何がだ?」
「あなたって、僕の顔が好きだったんですか?」
予想だにしなかった質問にぎょっとしたが、もしかしてさっき俺が見間違えたりしたのが悪かったんだろうか。
俺は小さく息を吐いて、それから正直に答えた。
「…顔だって好きだが、それだけじゃないぞ。…お前の放っておけないところとか、かと思うといざって時には頼りになるところとかも、好きだ。……それと、今のお前に言っても仕方ないかもしれないが、過去形で言わないでくれ」
拗ねたようになったのが歯がゆいが、それでも言わずにおれなくてそう口にすると、一樹は気が付かなかったとばかりに、
「あ……すみません」
と謝ってくれた。
俺の方が神経質になって不安がっているのが苛立たしい。
本当なら、記憶がない状態でいきなり二十年以上の未来に放り出されたようなものである一樹の方が不安だってのは分かってるはずなのに、俺は何をやってるんだ。
「いや……俺の方こそすまん」
そんな俺たちの微妙な空気を察して、どうにかしようと思ったのか、それとも単純に面白がっているだけなのか、和希は笑って、
「お袋と親父がぎこちないとか、珍しいものを見てる気分になるな」
「…ほっとけ。流石に勝手が違うんだよ」
「いっつもいちゃついてたのにな。それとも、高校生の時にはこんなもんだったとか?」
そう言われたものの、そんな話を息子にするのもどうかと思ったが、一樹も興味を示している様子だったので、仕方なく口を開く。
「ぎこちないってのはあんまりなかったな。………あの頃は、一樹が強気でぐいぐい引っ張って行ってくれたし」
「あー…お袋って押しに弱そうだもんな」
「お前が言うな」
ぺしりともう一度額をひっ叩いたところで、一樹が口を開いた。
「強引にされて……嫌じゃなかったんですか?」
「…は?」
何を聞くんだか、と呆れたのは少しの間のことで、一樹の中身がまだ高校生に過ぎないことを思い出して笑った。
なんというか、微笑ましい。
俺に迫ってきた時にはすでにふてぶてしかったのに、それより前ならこんな調子だったのか。
俺は思わず頭を撫でてやりたい衝動にかられながら、それをぐっと堪えて、
「嫌だったら振りほどくだろ。……嬉しかったよ。お前が……いろんなものについて諦めてるみたいだったお前が、俺にだけはそうじゃなくて……」
仕方なく離れなければならないなんてことになった時に見せてくれた執着も、そうでなくてただの出張なんかで不在にする時の寂しそうな姿も、何もかも嬉しくて、愛しかった。
そうぼんやりしているところを、一樹は不思議そうに、和希はにやにやと笑いながら見ているものだから、俺は真っ赤になって、
「つか、恥ずかしいこと言わせんな! 和希はにやにやするんじゃありません!」
と怒鳴る破目になった。
「俺ちょっとパソコンいじってくるー」
という口実で和希は逃亡し、俺と一樹だけがソファに残された。
全くあいつは……とため息を吐いた時だ。
「……今、は…?」
と小さな声が聞こえた気がした。
ぱっと顔を上げても、一樹は特に表情を変えもしない。
ただぼんやりとコーヒーカップをのぞきこんでいるだけだ。
だが、さっきのは聞き間違いではないだろう。
俺はくすぐったさを感じながら、唇を笑みの形にし、
「今も、好きだぞ。前以上に頼りなくて放っておけないし。……高校生の頃のお前って、こんなだったんだな…」
あの頃とは違う目線に立ったからこそ分かる。
そして、新しく知った部分が、その未熟さも不器用さも含めて、愛しい。
けど、と俺は軽く眉を寄せ、
「…昨日みたいなのは、勘弁してくれ。正直、居た堪れなくなる」
「……っ」
それだけで真っ赤になるところは高校生なのに。
「大体、なんだったんだあれは。なんだってあんなことをしたんだ?」
「…し、知りません」
またそれか。
だが、昨日と違って一樹の顔が見えた。
どこか悔しそうで恥ずかしそうで……それから、自分でも混乱しているのが分かると、そんなに心配もしなくていいし、怒ったりする必要もないんじゃないか、なんて思えた。
そう安心したら、ぐう、と腹の虫が鳴いた。
「…ちょっと遅めの昼飯になるが、食べるか」
と声を掛け、俺はソファから立ち上がる。
返事は期待していないが、それでもと、
「カレードリアとカレーピラフならどっちがいい?」
尋ねてみれば、やっぱり、
「どちらでもいいですよ」
と返ってきたが、その後に小さく、
「…あなたの料理なら、なんでもおいしいです」
と聞こえたのは流石に……幻聴、かね?