眠り月

挑発


寝室の大きなベッドを見た一樹が、少しばかり顔を引きつらせたのは当然だとは思うが、「…記憶にないのは分かってるが、ダブルベッドなんて選んだのはお前だからな」
という言い訳くらいはさせてもらいたい。
俺だって確かに止めなかったし、ついでに言うなら、
「シングルベッドじゃ狭かったからな」
なんて余計なことを言って賛成した覚えもあるんだが、それは黙っておいた。
「そうなんですか?」
そう驚いておいて、一樹はしげしげとベッドを眺めている。
その顔がかすかに赤いのは………あー……あれか。
高校一年生と言えば一応まだ思春期半ばだからか。
たとえるなら、中学生にして妹が出来るような複雑な心境にも似たものがあるんだろうかね。
いっそ、少し席を外してやるべきだろうか。
夕食の支度……つか、買い出しもあるし。
こっそりと部屋を出ようとしたところで、
「あの、」
と呼び止められた。
「どうかしたか?」
振り向くと、さっきよりもう少し赤い顔で、
「他に寝る場所はないんでしょうか」
と言い出した。
予想の範囲内ではあるが、そんなこと、俺が許すか。
「有希の布団くらいなら残ってるが、流石にそれはお前も恥ずかしいだろ。それに、出来るだけ、記憶を失う前と同じ環境にした方がいいって医者も言ってたんだから、諦めろ」
「…そうですか……」
「とりあえず、これで家の中は全部案内したから、後は自由に見て回っていいぞ。俺はちょっと、夕食の買い出しに行ってくるから」
この数日、ほとんど家にいなかったから、冷蔵庫がほとんど空っぽの状態なんだ。
腐らせないように処理するって目的でしか食ってなかった気がする。
だが今日は、一樹が退院したことだし、和希もいてくれるんだから、思い切ってごちそうを作ったっていいだろう。
「何か食べたいものはあるか?」
どうせハンバーグだとかオムライスだとかお子様の好きなものを言うんだろうなと考えながらそう尋ねると、
「なんでもかまいませんよ」
と返されて驚いた。
が、まあ、そうだよな。
この一樹は同じ一樹だとはいえ、まだ高校生の一樹なんだ。
初々しい、というよりもむしろよそよそしくて、そんな要求なんてしないだろう。
それに、あの頃のこいつなら、食事に関して何かしらの興味があったとも思えない。
俺はため息を吐かないように気を付けながら、
「じゃあ、嫌いなものが出ても文句言わずに完食しろよ?」
と言って寝室を出た。
それから、自分の部屋でごぞごぞ何かやらかしているらしい和希にも一声かける。
「今日の晩飯はお子様ランチメニューになる予定だが異論はあるか?」
と言ったらそれだけでメニューは理解したらしい。
「ハンバーグならせめておろしポン酢がいい」
「…自分でダイコンおろせよ」
「はいよ」
「じゃあ、買い物行ってくるから」
「ん、いってらっしゃい」
それだけのやりとりで通じるってのは気楽なのに、つい、今の一樹と比べちまって寂しくなった。
一樹と軽妙な会話なり遠慮のないやりとりなりが楽しめるようになるにはどれくらいかかるんだろうな。
スーパーにむけて車を走らせながら、遠慮なくため息を吐いた。
長年の習慣のおかげで事故ったりもせずスーパーに着き、特に考えるまでもなく安売り商品の確保と今夜の夕食に必要な諸々を買うことが出来た。
買い忘れもない。
我ながら主夫の鑑だな、うん。
……などと逃避したところでどうにもならん。
いやむしろ、逃避するなら料理をしながら逃避しろ。
「ただいま」
と玄関で声だけかけて、まっすぐ台所に入る。
それからはもう、他のことなど忘れて料理をした。
サラダにオムライス、それからハンバーグ。
カレーも作っておいたがこれは明日の分だな。
家中にいい匂いがしてきたからか、呼ばれもしないのに和希がやってきた。
…と思ったら一樹も一緒だ。
「何か話してたのか?」
俺が聞くと、和希は何でもない様子で、
「ちょっとだけどな」
としか言わず、一樹は黙ったままでいる。
「なんだか知らんが……まあ、座ったらどうだ? もうすぐ出来るから」
「そうする。…お袋の料理も久しぶりだな」
「久しぶりってお前……うちを出てから一か月くらいしか経ってないだろうが」
「毎日食べてたんだから、それからすりゃ、一か月ぶりでも十分久しぶりだろ?」
そう言って和希はいそいそと椅子に座り、俺は突っ立っている一樹に、
「お前の席はそっち」
と指さしてやった。
「あ……はい」
また何か不安にでもなっているのか、少しばかり暗いトーンで返事をした一樹が、それでも大人しく座ったのを確認しつつ、俺は大根とおろし金を和希に渡してやった。
「おろしポン酢がいいんだろ?」
「そうそう、俺は親父みたいな子供味覚とは違うから」
「皮肉るんじゃない」
「はいはい」
反省してない調子で言いつつ、大人しく大根をおろし始める和希を、一樹はぼんやりと見ている。
「お前も何かしたかったか?」
「え?」
違うらしい。
なんだかよく分からんが、
「ぼんやりしてるなら、コーヒーでも入れてくれるか?」
そこにコーヒーメーカーがあるから、と指さすと、一樹はその通りにしてくれる。
だが、まだぼんやりして見える。
和希が何か余計なことでも言ったのかね?
首を傾げつつも出来上がったものを大雑把に盛り付けてテーブルに並べてやると、和希は苦笑して、
「作り過ぎじゃないか」
と言うが、
「ハンバーグは余ったら明日も食えばいいだろ。カレーの用意もしてあるから、明日はカレーハンバーグも出来るぞ」
「ああはいはい…」
と小さくため息を吐いた和希は、にやりと唇を歪めて、
「にしても、見事に親父の好物ばっかりだな」
「サラダは違うだろ」
「ドレッシングが親父の好きなやつだ」
「…目ざといな」
その通りだが、別にいいだろ。
「退院祝いなんだし」
「…そうじゃなくてもこうなったんじゃねえの? つか、退院祝いでこれなら、親父に記憶が戻ったらどうなるんだよ…」
「その時はパーティーでもなんでも開いてやるよ。ああ、ハルヒや朝比奈さんを招待してもいいな」
俺がその名前を出したからか、一樹がぎょっとした顔をした。
一応説明したと思うんだが、
「ハルヒは今海外でばりばりやってる。朝比奈さんは、たまにこちらに来てくれるんだ。だから、会うのも不可能じゃない」
「あ…そう……でしたね。…なんだか不思議な気がしますけど」
「だろうな」
と笑いながら、俺はいつものように一樹の隣に座った。
揃って手を合わせて、食べ始めると楽しいと思ったのだが、一樹とうまく会話が続けられん。
というか、あいつがどことなく、心ここにあらずみたいな状態なのがよろしくないんだと思う。
和希なんかは率先して話をしてくれるのがありがたいのだが、話題の選び方が微妙によろしくない。
「いつも親父が忙しかったりしたから、三人そろっての飯ってのも珍しいよな」
「そうだな」
と俺は同意できるが、一樹には同意できないんだからな。
かといって、何を言えばいいのか困り、あまり会話も弾まないまま、どこか息苦しい食事が終わった。
明日の食事の下ごしらえが終わっていてよかったかも知れん。
なんかもう、片づけをする気力もない。
一樹に風呂を勧めておいて、自分はリビングのソファでぐったりしていると、心配した和希が寄ってきて、
「本当に、あんな状態の親父と二人で暮らしてけるのか?」
と聞いてきた。
「いっそ距離を取った方がお袋も楽なんじゃないか?」
「心配してくれるのはありがたいし、そう思わなくもないけどな」
苦笑しながら俺は手を伸ばし、隣に座った和希の頭を撫でる。
「それでも俺は、一樹と離れていられる気がしないんだ」
情けない母さんでごめんな、と言うと、和希は少し膨れたような顔をしながら、
「別に……謝るようなことじゃないだろ。お袋が平気なら、俺が余計なこと言うまでもないだろうし……」
「うん…ありがとな」
なでなでと頭を繰り返し撫でる。
一樹とよく似た柔らかく細い髪。
頭の形まで、一樹そっくりだ。
「…ほんと、父さんに似てるよなぁ……」
思わず呟くと、和希は嫌そうな顔で、
「…物欲しそうな目で見るのは勘弁してくれ」
「してねえよ」
びしっと脳天にチョップを叩きこんでやる。
「違ったのか?」
にやにやして言うな。
というか、親をからかうんじゃない。
くそ、恥ずかしい。
「お袋が隙だらけなんだろ」
「隙だらけってお前な……」
「いいぞ、親父の代わりにしてくれても。ただ、やってもハグくらいまでだけどな」
「ばぁか。お前で一樹の代わりになるか」
そう言いながら、和希をぎゅっと抱きしめてやった時だった。
「……何をしてるんですか」
という一樹の声が聞こえてぎょっとした。
ぞっとするほど冷たい声。
一体何を怒ってるんだと戸惑ったのは一瞬で、なるほど、今のこの体勢がまずかったらしいが、はて、俺のことをなんとも思っていないはずの一樹がなんで怒ったりするんだろうなと首を傾げた。
それでも一応返事をするなら、
「親子のコミュニケーションってところだ」
としか答えようがないのだが、一樹の機嫌は直らない。
心なしか不機嫌な顔のままだ。
訳が分からんと首を傾げつつも、俺は和希を解放し、
「それじゃあ、俺も風呂に入って来るから。あ、一樹、ちゃんと髪を乾かせよ」
指摘するだけ指摘して、今日に限ってはタオルで頭を拭いてやるようなこともせず、そそくさと風呂に向かった。
だからといってゆっくりすることも出来ず、大急ぎでやることを済ませて風呂から上がったのは、一樹が逃げ出したらなんてことを考えちまったからかも知れなかった。
あるいは単純に、一樹から目を離すのが不安だったのかも知れない。
また何かあったらと思うと、震え出しそうに心細かった。
いつもなら、心細くなったら一樹がそばにいて、なんとかしてくれたのに、今はその一樹が不安の種だなんて、笑えもしなかった。