眠り月

再会


一樹が検査に行っている間に、俺に出来ることと言えば病室を少し片付けるとか、部屋の空気を入れ替えるとかその程度のことしかない。それだって本当は看護師任せにしておいてもいいようなことだ。
ただ、俺が何かしていないと落ち着けなくて、かといって家に一人で帰ることも出来なくて、病室でぼんやりしていると、
「失礼します」
という声と共にドアが開いた。
顔を上げると、そこには森さんがいた。
「森さん……」
「古泉のことを聞きつけまして、ご迷惑かと思いましたが……」
「いえ、迷惑だなんてそんなことは……」
そんなやりとりもそこそこに、森さんは本題を口にした。
「…古泉の状態はどうですか?」
「……怪我とか、そういうのは全然、まるきり健康体ですよ。そりゃもう、呆れるくらい」
そう笑って見せたつもりだが、上手くいったかはよく分からなかった。
「頭の方は、相変わらずです。完全に高校生の時のあいつですよ。なんだか懐かしいような悔しいような気持ちになりますね。俺は年を取ったのに、あいつは…なんて」
冗談めかして言う俺に、森さんは困ったような微笑を見せた。
その形が、一樹のそれととてもよく似ていて、なんだか苦しい。
「あなたは…ちゃんと休んでますか?」
「あ、はい。大丈夫です。仮眠も取ってますし、食事もしてますよ。……じゃないと、あいつより俺の方が病気になりそうです」
「ええ、ちゃんとしていてください。最近こそしっかりしてきてはいましたけれど、高校生の頃の彼なんて、頼りないことこの上ないんですから、あなたがしっかりしていないと大変ですよ」
そう笑って、森さんは俺を慰めてくれる。
「古泉は、まだ検査中ですか?」
「はい、もう少ししたら戻ると思いますが…」
「そうしたら、私が一発気合を入れてあげましょう。私でなくても、他の人に会えば何か刺激になるかも知れませんし」
「そうですね。そう思って、和希にも来てくれるよう頼んであるんです。まだばたばたしてるから、遅くなるだろうとは思いますけど…」
「もう大学生でしたっけ。…早いものですね」
「…本当に」
ようやく二人で暮らせると思ったのに、なんでこうなっちまったんだろう。
そう何度となく思ったが、そんなこと、考えても仕方がない。
いっそのこと、この状況を楽しみたいと思い始めている。
一樹と過ごせなかった恋人らしい時を、今度こそ過ごせたら……なんてのは流石に楽観的すぎるだろうか。
何しろ現状としては、恋人らしく過ごすどころか、まずはあいつを惚れさせなきゃならんという無理難題が控えているのだからな。
常々、なんであいつが俺なんかを好きになったのか分からなかった俺としては、どうすりゃいいのか見当もつかん。
しかし、一樹が言っていたことによると、俺は普段の俺のままで別にかまわないそうなので、精々、俺はお前が好きなんだと言ってやれば少しは気持ちが傾いてくれるだろうか。
……分からんな。
ややあって、病室のドアがノックされ、そっとドアが開いた。
入院着姿の一樹に、
「おかえり。お疲れさん」
と声を掛けてやると、これはもう既に何度もあったことなのだが、戸惑いがちなまなざしと見覚えのある作り笑いと共に、
「…ただいま戻りました」
と返された。
やれやれ、どうにも警戒されてる気分だな。
ため息を吐きながら、俺は少し体を引き、
「これが誰か、分かるよな?」
と言って森さんの姿が一樹からよく見えるようにしてやると、一樹は目を見開き、
「…森さん……? いえ…、でも、それにしては全然変わってない…ですよね。森さんの娘さんとか…? そんなまさか」
「そのまさかがどこにかかるのか、返答次第で入院日数が伸びますよ」
冷ややかな森さんの言葉に、一樹がすくみ上る。
「…本当に森さんなんですか?」
「変わってない、というところで止めておけばよかったのに、どうしてそう余計なひと言が出るんでしょうね」
嘆かわしげに呟いて、それでも森さんは柔らかく微笑んだ。
「お久しぶりですね。あなたにとっては、そうでもないみたいですけど」
「え……ええ、僕の感覚では、先日お会いしたばかりですから……」
「私にとっては…そうですね、大体一年ぶりというところかしら。涼宮さんの力が失われてから、あまり頻繁に会う必要もなくなりましたからね」
「…やっぱり……涼宮さんの力はなくなっているんですね…」
「気づいていたでしょう?」
「ええ、薄々は。彼女の力がまるで感じられませんし、僕自身も、前とはまるで違う感覚ですから」
そう言っておいて、一樹はベッドに座り、軽くうつむいた。
「……力をなくして、記憶もなくて………僕は一体これからどうしたらいいんでしょうね」
「甘ったれるんじゃありません」
ぴしゃりと森さんが言うと、部屋の空気すら震えたように思えた。
思わず俺まで背筋を伸ばしたくらいだ。
一樹は本当に見事に姿勢を正し、まっすぐに森さんを見つめ返した。
「超能力だけがあなたの持っているものではないでしょう。記憶だって、なくしたからといって不都合があるのは事実ではありますけれど、だからといってあなたのやるべきことや居場所がなくなるわけでもありません。あなたに必要なのは、誠意をもって真面目に現状を見つめ、行動することではありませんか?」
「はい」
「記憶がなくて不自由があるなら、まずは必要な知識を得ることから始めなさい。あなたの奥さまは優しいですから、あなたを甘やかしてくれるかも知れませんが、それに甘えていてはだめだと自分でも分かるでしょう? だから、しっかりしなさい」
「はい」
反射のように頷きながら、それでも一樹はちゃんとそれを実行するのだろうと分かった。
俺が入れたお茶を三人で飲みつつ、俺は小さく呟いた。
「やっぱり、高校生の一樹となら、森さんの方が信頼されているんですね」
「私が信頼されているという訳ではありませんし、あなたが信頼されていないという訳でもありませんよ」
と森さんはさらりと答えた。
「私のことを怖がっているのと、あなたには遠慮があるというだけでしょう」
そう言われた一樹はというと、そっとため息を吐き、
「森さんの恐ろしさはよく分かってますからね」
と言っておいて、後半部分についても何かコメントしないといけないと思ったんだろうか。
困ったように俺を見て、
「……ご迷惑をおかけしてるかと思うと、申し訳なくなるんです」
と困惑しきった声で言った。
「ばか、迷惑なんかじゃないんだって言わなかったか? ……もっと甘えてもいいから、あまり無理はするなよ」
「そんな……」
「…まあ、とりあえずは、俺のことはただの同居人だとでも思ってくれたらそれでいいから」
そう言うと、一樹は困ったようにしながら、それでも小さく頷いてくれた。
先行き不安だな…。
ともあれ、ようやく我が家に帰ることになったのだが、長年暮らした我が家を見ても、一樹は首をひねるばかりだった。
「ここが俺たちの家だ。有希のために書庫がある家を、ってことでここにしたんだぞ」
と説明はしても、まさか自分たちのために寝室を防音にしたなんてことは言わないでおく。
一樹はしげしげと家を眺め、中を隅々まで見て回る。
「そこは有希の部屋。そっちは和希の部屋だな」
と教えてやり、二人ともが片付けて行った、もうほとんど物置のような部屋を見せてやる。
「和希…というのが、僕の息子…でしたよね」
「ああ」
俺とお前のな、と胸の中だけで付け加える。
一樹だって何度も聞かされたから頭では理解しているのだろう。
それを認めるのに時間がかかっても仕方のないことだ。
そう自分に言い聞かせる。
「その子は……」
「子ってほど小さくはないけどな。…あいつも一度帰って来るとさ。今日中には、って言ってたから、早けりゃそろそろ……」
なんて話してたのがよかったんだろうか。
玄関の方で音がし、ばたばたと足音が聞こえる。
そういう妙に落ち着きのないところは、父親に似たんだろうか。
「なんでそんなところにいるんだよ…」
おそらく家中走り回って、最後に自分の部屋を思い出したんだろう和希が、息を切らして駆け込んでくると、一樹が驚いたように軽く目を見開いた。
それもそうだろう。
高校生までの記憶しかない一樹なら、目の前に自分そっくりの人間が現れれば当然驚くはずだ。
和希と来たら、呆れるほどに一樹そっくりだからな。
成長スピードもよく似たらしく、高校入学までにぐいぐいと成長し、早めに伸び止まりを迎えたので、大学生だというのに高校で初めて会った頃の一樹と本当に似ている。
それこそ、並べて比較したって違いが分かるかどうかというくらいに。
違いと言えば、一樹と違って愛想のない表情くらいだろうか。
中身だけは俺そっくりだからな。
かと思うと妙なところで一樹に似ているあたり、子供と言うのは本当に面白い。
そんなことを考えてにやにやしつつ、
「一樹に家の中を見せて回ってる最中だったんだ。何か思い出すかと思ってな。…残念ながら、大して効果はないらしいが」
「つか、本当に記憶喪失なのか? 親父がまた悪趣味な思い付きで俺たちを騙してるんじゃなくって?」
「俺が泣いてもわめいてもダメだったし、森さんに一喝されても変わらなかったってことは、本当なんだろうな」
「お袋が怒鳴ってみるってのは?」
「病人相手に怒鳴れる気がしないんで却下だ」
「病人…にしちゃ、健康そのものだな。見た目は」
そう言って俺そっくりのため息を吐いた和希は、まだ目を瞬かせている一樹に近づき、
「本当に記憶がないのか?」
と往生際が悪いとも言える問いかけを口にした。
「え……ええ、全く……」
「……だろうな。俺を見ただけでそんなに驚いてんだし」
そう言って和希は、一樹よりもずっと乱雑にしてある髪を、軽くかき上げた。
……そういう仕草が妙に様になるのは、顔のせいだろうか。
「和希、お前まだ髪を切ってなかったのか?」
「切る暇がないんだ」
「嘘つけ」
そう笑いながら、俺はようやく落ち着いてきたらしい一樹に、
「見て分かっただろうが、これがうちの息子だ。お前そっくりだろ。残念ながら中身は俺そのままみたいなもんだがな」
「はぁ…」
気のない返事をよこした一樹に、俺と和希はそろってため息を吐く。
「お袋、どうやらこの程度の刺激じゃ記憶を取り戻すには至らないらしいな」
「だからって何か無茶をしようとするなよ?」
「お袋だって、早く元の親父に戻ってほしいんじゃないのか?」
「……どうだろうな」
確かに元の一樹を取り戻したいという気持ちはある。
俺だけしか覚えていないというのは悔しいし悲しい。
だが、今の一樹だって一樹には変わりないとも思う。
ちょっとした表情やぎこちない言葉に、懐かしさすら覚える。
だから、ある意味ではどちらでもいいのかも知れない。
「……まあ、この親父のことだからな。どうあっても、お袋に惚れるのは確定じゃないのか?」
呆れた様子で和希が呟いた言葉が、その通りならいいと思えた。