眠り月

悲喜劇


和希がこの春から大学生になり、俺の手から離れて遠くの大学に通うことになった。大学生ともなれば一人暮らしをしても当たり前だとは思うのだが、それでもやっぱり心配で堪らないのは、俺が「女親」だからだろうか。
一樹はむしろ家を出ることには賛成しており、それどころかそれをこっちが引くくらいの勢いと熱心さで勧めたくらいだった。
というか、本当にこいつは和希を家から追い出したかったんだろう。
「…この薄情者」
不貞腐れて腕を抓った俺に、一樹は悪びれもせず、
「あなたこそ、薄情ですよ」
と笑う。
「何がだ」
「自立したがってる息子を快く送り出すことこそ、親のあるべき姿では? それに、これでやっと僕と二人暮らしが出来るんですよ?」
「後者がメインだろ。やっぱりお前は薄情だ」
そう罵りながらも、俺だって確かに、一樹と二人きりでの生活というのに憧れる気持ちがないわけでもない。
何しろ、一緒に暮らすようになってからは有希が一緒、有希が嫁いでも和希がいたから、二人暮らしということはしたことがないのだ。
今更と思わなくもないのだが、やはり同居家族に遠慮しなくていいというのは魅力的だ。
「和希には悪いですけど、僕はあなたと二人で暮らしたいと思いますよ。気兼ねなくあなたといちゃつきたいです」
甘ったれたわがままを聞いても、俺は拒絶しようとも思えない。
「…お前の自由にさせたら、どんな目に遭わされるか、考えるだけでも恐ろしいな」
と呟きながら、俺はそっと一樹の胸に頭を寄せる。
「二人ってことになると、洗濯物が減ったりするって利点もあるが、ちまちまと食事を作らなきゃならなくなったり、人手が減ったのに掃除して管理しなきゃならん部分は増えるなんてデメリットもあるんだ。分かってるんだろうな?」
「ええ、分かってますよ。…ちゃんと家の掃除もしますし、まめな買い物に付き合いもします。料理も頑張りますから。……いいでしょう?」
「……いいもなにも、」
と俺はため息を吐いた。
「もう寮に入ることも決まっちまったんだ。俺が反対したって無駄だろ」
「それでも、あなたが本当に嫌がるなら、あの子はどんないい大学でも蹴って、地元に進学しますよ。……あの子、あなたのことが大好きですから」
その言葉に拗ねたような響きを感じとり、俺はつい笑っちまった。
「お前、まだ息子に妬くんだな」
その悪癖も、最近はおとなしくなってたのに。
「仕方ないじゃないですか。……あの子と来たら、見た目だけは本当に僕にそっくりに育ってしまったんですから」
「お前ほど愛想がよくはないがな」
くすくすと笑う俺に、一樹は面白くなさそうな声で、
「あなただって、僕の顔が好きなら、あの子の顔だって好きなんでしょう?」
「まあ、それはそうだが、だからってお前と同じ顔してたらなんでもいいなんてことはないんだし、馬鹿げたことを言ってないで堂々としてろ。……他の誰も、俺を掻っ攫って行ったりはしねえよ」
そう言って柔らかな栗色の髪をなでると、古泉は嬉しそうに目を細める。
「…愛してます」
と囁いた。
「ん……、俺もだから……和希がいなくなってまで、俺を寂しがらせたりするなよ?」
と甘えた言葉を返せるくらいには長いこと夫婦としてやってきた。
これからもずっとそうだと思ってきた。
なのにどうして、こんなことになっちまったんだろう。

それは本当に、純粋な事故だった。
階段を降りようとした矢先、不意に呼び止められた一樹は当然のように振り返ろうとし、その場でバランスを崩したのだ。
そしてそのまま階段を転がり落ちた。
俺はその場に居合わせなかったが、おそらくはかつて一樹が聞いたというぞっとするような音と同じ音がしたのだろう。
死にそうな思いで病院に駆け付けた俺を待っていたのは一樹の穏やかな寝顔で、頭を打っているものの大した怪我ではないという説明を受けると、気が抜けてへたり込んだくらいだった。
「人騒がせにもほどがあるんだよ、ばか…」
罵りながら軽く頬を抓っても、一樹は目を覚まさない。
それでも、死ななかっただけよかったし、やっぱりこいつは約束を守ってくれるんだと思うと嬉しかった。
「早く起きてくれ…」
そう声を掛け、俺はベッドの側に置かれたソファに腰を下ろす。
簡易ベッドを兼ねたそれは決して心地がいいとは言いかねるものの、仮眠するには十分な柔らかさで俺の体を受け止めてくれる。
事故の知らせを聞いてからずっと緊張しっぱなしだった俺は、あっという間にそこに寝転がり、眠り込んでいた。
看護士が様子を見に来た時に俺は目を覚ましたが、一樹はまだ眠るつもりらしい。
「…疲れてたってのもあるのかね」
春に和希が東へと旅立ってから、二人暮らしだと浮かれていたくせに、暑くなってきてからはプロジェクトがどうのと言って帰ってこない日が出てきた。
それだけ優秀ってことなんだろうが、それでも少しばかり寂しさを覚えていた俺としては、この機会にゆっくりと自宅で過ごす時間をもらいたいなんて甘えたことを思いながら、そっと一樹の髪を撫でた。
その時だ。
「ん………」
と小さく鼻にかかった声が聞こえ、一樹が薄く目を開いたのは。
俺は心の底から安堵して、
「よかった…。目が覚めたんだな」
と呟いたのだが、一樹の様子がどこかおかしい。
難しく眉を寄せ、俺の顔をじっと見ている。
「一樹? どうしたんだ? 頭が痛むのか?」
戸惑いながらそう声を掛けると、一樹は柔らかく苦笑した。
酷く見覚えのある、作り笑いだった。
「申し訳ありませんが、どちら様でしょうか?」
ぞっとした。
寒気なんてもんじゃない、吐き気だ。
「…冗談だろ……?」
震える声で呟いても、一樹は困り果てた顔で俺を見つめるばかりだ。
「冗談ではないのですが……。………ここは…病院…ですか?」
白と淡い緑の壁を見回して、一樹はそう判断する。
そういうことは出来るのに、俺のことは忘れたってのか?
「忘れた……?」
「そうだ…。……俺のことが、思い出せないんだろ…?」
こんなことあってほしくないと呪うような気持ちで呟くと、一樹は首を傾げ、
「しかし、僕は自分がどこの誰であるのか分かっていますよ?」
「それじゃあ、俺のことだけ忘れたってのか?」
「どうでしょう。…あなたのお名前は?」
「……っ…古泉、だ」
「……は?」
泣きたくなってきた。
本当にこいつは俺のことをきれいさっぱり忘れちまったらしい。
唇をきつくかみしめ、だが、それでもちゃんと言わなければならないと、俺は自分の名前を口にした。
おまけのように、
「お前の妻だよ…! もう二十年近くも連れ添ってきた…っ……」
と吐き出せば、一樹は大きく目を見開いた。
「なんですって…?」
「く…っそ、ばか野郎…! なんで、…んで、忘れたり………」
ぼろっと涙がこぼれ落ちる。
止められない。
どうしようもない。
苦しくて、悔しくて、悲しくて、俺の頭の中までおかしくなりそうだ。
「ちょ、ちょっと待ってください。落ち着いて話を聞かせてください。…あなたが…………そんな……」
「なんだよ…」
ずび、と汚く鼻を鳴らして睨み付けると、一樹は今度こそ深刻な様子で俺を見つめ返し、
「…僕は今、何歳なんでしょうか」
「……んなもん、和希が19になったんだから、お前だって今年で38だろ………」
俺がそう言うと、一樹は小さく息を飲んだ。
なんだっていうんだ。
「……僕が…38歳……ですか」
「それのどこがおかしい? 俺と同じだろうが。それとも、今更年を誤魔化してたとでもいうつもりか?」
「では……あなたは本当に彼なんですね…」
は?
今度は俺が戸惑う番だった。
一樹は自嘲するような笑みを浮かべて、
「僕はどうやら、高校一年の冬にまで、記憶が巻き戻されてしまったようですよ」
と言いやがった。
「はぁ…!?」
驚きに目を見開く俺に、一樹はくすくすと声を立てて笑う。
「どうしてでしょうね。この頃に戻りたいとでも考えていたんでしょうか。それにしても、二十年も経つと、随分と世界は変容するもののようです」
「何がそんなにおかしい」
「笑うしかありませんよ」
そう言って一樹は俺を見つめ、
「一体どうしたら、あなたと結婚するなんてことになる…いえ、なったんでしょうね」
と呟いた。
その言葉は、俺を崖下に突き落とすような衝撃を与えた。
冷たい言葉。
それ以上に心がどうしようもなく離れているのが嫌でも分かった。
俺はぐいと袖で涙をぬぐうと、
「…医者呼んでくる」
と言い残すと、そのまま病室を出た。
それから色々と検査がされたが、一樹の自己分析の通り、高校一年の冬以降の記憶はきれいさっぱり失われているということと、原因はおそらく転落事故の衝撃によるものということが分かっただけで、治療のめどなどはまるで立たない。
「奥さんもつらいでしょうが、気をしっかり持ってください。記憶喪失というものは、案外簡単に治ることも多いものなんです。普段通りの生活をしていればいずれは元通りになりますよ」
と医者は言ってくれたが、それが慰めになったとは少しも思えなかった。
ただ、そんな話をする頃には俺もいくらか落ち着いてはいて、
「…命が助かっただけ、ずっといいです。だから……なんとか頑張っていきますよ」
と返せた。
うまく笑えたとは思えなかったが。
駆けつけてきてくれた有希は、心配そうに一樹を見つめていた。
「…長門さん……ですか?」
「……今はもう苗字が変わっているけれど、あなたの認識は正しい」
そう返す声も寂しそうだ。
「有希……」
俺が声を掛けると、その目にはうっすらと涙がにじんだ。
「大丈夫だ」
自分にも言い聞かせるつもりでそう口にする。
「ちゃんと記憶は戻るさ。だから、心配せずにお前は自分の家族の面倒を見てろ。こいつの面倒くらい、俺一人で見れるから」
「でも…お母さん……」
「心配してくれるのはありがたいが、本当に大丈夫だから」
な、と言い聞かせると、有希はそっと頷いた。
そうして一樹の手を握ると、
「お父さん…ごめんなさい……。私にまだそれだけの力があったら、記憶を取り戻すくらい簡単に出来たのに………」
有希に「お父さん」と呼ばれて戸惑う一樹にではなく、有希に俺は言葉を掛ける。
「いいって。そんなもん、出来たって俺が止めたさ。……お前はもう、普通の女の子…いや、女性なんだから」
「………」
こくんと頷き、有希は俺の手を握り締める。
「いつでも手助けするから……遠慮なく呼んで……」
「ああ、その時は頼む」
そう言って頭を撫で、これ以上こんな様子の一樹を見ているのがつらそうだったので、早々に病室から送り出した。
そうして俺と二人きりになると、一樹はなんとも珍妙な顔で俺を見つめ、
「一体何がどうなっているんです?」
「……全部説明してやるが、二十年分だ。順を追って話させろ」
と俺は一樹の横たわるベッドに座り、その手に触れた。
「高校一年の冬っつっても長いのに、なんでわざわざ俺がお前を気にし始める直前にまで戻っちまったんだろうな」
独り言のように呟き、そっと握りしめる。
「………せめて、その冬が終わった頃なら、もっと違っただろうに」
「…と……言いますと…?」
「……その頃…、お前と付き合うようになったからな」
そんな風にして、俺は思い出話を始めた。
話してみると、二十年ってのは本当に長いもので、いくらでも話すことは溢れてくる。
忘れてしまってもいいような細かいことまで俺は覚えているのに、一樹はそれを全部忘れてしまったのだと思うとやはり悔しいし悲しい。
きつく一樹の手を握り締めて、泣きそうになるのを堪えながら、精々四年分ほどを話しただけでも、随分と時間が過ぎていた。
「…なんとも不思議な気持ちですね」
休憩がてら、俺がお茶を入れていると、一樹はそう笑いを含んだ声で呟いた。
「あなたにとっては、そして僕にとっても本当は、今聞いた話は全て過去のことに過ぎないのに、今の僕にはまるきり未来の話か夢物語を聞かされるような感覚でしかないんです。あなたが僕を好きになって、僕からあなたに告白して、あなたと僕が付き合って、長門さんに懐かれ、涼宮さんにも認められ、そればかりか子供まで授かるなんて。……今の話こそ、夢のようです」
夢のよう、と言う声に、甘さはない。
その夢は一樹にとって悪夢でしかないのだろうか。
「だが、現実にそうなったんだ」
「事実は小説より奇なりとはよく言ったものですね」
「……お前は………」
俺は声が震えるのを感じながら、それでも問わずにいられなかった。
「…俺のことが、嫌いか……?」
「…………嫌いでは、ありませんよ」
それなら、その長すぎる間はなんなんだと問うことは出来なかった。
問うのが怖かった。
「でも……好きかと言われるとそれもまた答えづらいところです。何しろ僕は、あなたをそういう対象として考えたことがなかったものですから」
仕方がないと思っても、ずきりと胸が痛む。
俺は震える手で熱い湯呑を持つと、ぐっとそれを飲み干した。
舌を焼くほど熱いのに、冷えた体が温まるような気はしなかった。
「それでも、」
俺は一樹を睨むように見つめて、八つ当たりでもするように告げた。
「お前は俺の夫だし、お前は俺に約束したんだ。絶対に俺より先に死なないって。…俺の……側に、いる、って……。俺は……もう…お前なしじゃいられないから………記憶がなくったって、俺の…側から、いなく、なるな……!」
一樹は困ったように唇を歪めて、
「どうやら、他に帰るべき場所もないようですから、よろしくおねがいしますね」
と言った。

そうして、俺たちのおかしな生活が始まった。