眠り月

温もり


風邪は、ほとんど弱気になっていたのが原因だったのかもしれない。家に帰ったらそれだけでよくなった気がして、俺は古泉が反対するのも構わず、キッチンに立った。
一週間と少し留守にしただけだってのに、そうするのがなんだかとても久しぶりのように思えた。
それだけに、浮き立つような気恥ずかしいような、何より懐かしいような気持ちで、俺はミルクをミルクパンに入れ、そっとかきまぜながら温める。
ぬるくないように、熱くなり過ぎないように、細心の注意を払って。
甘いミルクの香りが家中に広がる頃には、待ちきれない娘たちが俺の両脇から服を引っ張っていた。
「こら、離れてないと危ないぞ」
と言っても離れない。
いつになく聞き分けが悪いのは、それだけ寂しかったってことかね。
それで、一番寂しがっていたはずのやつがどうしているかと言えば、俺の背中にべったりと張り付いたままでいた。
だから、娘たちは俺の両脇にいるしかないという訳だ。
「古泉、お前もだぞ」
「僕は火傷してもいいです。ですから、かけるなら僕にしておいてください。あなたやこの子たちには絶対にかけないでくださいね」
「そんな器用なマネが出来るか」
そう笑って俺は、可能な限り首を後ろに回して、一番聞き分けのない奴の鼻先に唇を触れさせてやる。
「…もう、いきなり飛び出したりしねえから」
「……絶対ですよ?」
と子供のように聞き返すので、
「おう、次にやる時は前もって予告してから家出してやるよ」
「ええっ? 次の予定があるんですか!?」
と慌てる古泉の頭をぐしゃりと撫でて、
「お前がどうしようもなきゃな。…されたくないなら、しっかりしろよ?」
「はい…」
しゅんとしていると捨てられそうな子犬みたいでおかしい。
「離れてソファで待ってろ。…出来るな?」
「…はい」
名残惜しいのは分かるが、去り際に腰を撫でていくな。
本当に反省してるのか?
全く…とため息を吐いても、口元が緩んでいては説得力もあったもんじゃない。
せめて、とそれを苦笑に変えつつ、ミルクをそっとカップに注ぐ。
以前、家族が三人だった頃に揃えたティーカップは、九曜の分も加えて四つになっている。
その四つ共にミルクを注いで、慎重にトレイに載せてテーブルまで運んだ。
ソファで待ちわびていた古泉の隣に腰を下ろすと、有希が俺の隣に、九曜が古泉の隣に座る。
二人が相談したのか、それとも自然に、久しぶりに会った方と隣合うことを選んだのかはよく分からんが。
それぞれのカップをテーブルに並べる。
高価なカップを割らないように慎重に。
それから、有希と九曜がきちんと両手を合わせたので、俺と古泉もきちんと手を合わせ、
「いただきます」
と声をそろえた。
少し吹き冷ましてミルクを口に運べば、甘くて濃厚な味が広がる。
香りも優しくて、落ち着く。
ほっとしながらカップをテーブルにおろし、カップでよく暖まった手を古泉の手の甲に重ねる。
「なんつうか……改めて、ただいま、だな」
「…お帰りなさい。……あなたが帰って来てくれて、本当に嬉しいです」
そうかすかに声を震わせるから、
「泣くなよ?」
と言ってやったのだが、
「無理です」
と即答された。
「は?」
「嬉しくて……それから、やっと、安心したらもう……」
そう言って古泉はカップをいささか乱暴にテーブルに戻し、俺を抱きしめた。
いや、俺に抱きついてきたと言うべきだろう。
すがりつき、更には顔を俺の肩に押し付けてくる。
「…有希よりも九曜よりも、お前が一番手がかかるな」
そう悪態を吐きながらも、決して嫌ではないので、古泉の背中を可能な限り優しく撫でおろす。
「好きです。…あなたが、好きです。あなたを信じたい。ずっと、何があっても。でも……僕はそれが苦手なんです。どうしても、疑ってしまう。だから………ずっと、側にいてください」
「困った奴だな」
束縛と言うにはあまりにも心もとなく、不安げなそれに俺はもう笑うしかない。
「…お前こそ、突然俺の目の前からいなくなったりするなよ?」
「はい」
はっきりと約束してくれたならきっと大丈夫だろう。
ぽんぽんと背中を撫でながら、
「今度、ハルヒに会いに行ってみるか?」
と聞いてみた。
「え?」
驚いて上げた顔の中で、目の周りがほんのり赤い。
だが、それは見ないふりをしてやって、話を続ける。
「多分、あいつがここまで余計なことをしたのには、俺が先にお前を紹介しなかったってのが気に食わないなんて理由もあるんだろうからな。それなら、直接会って文句を言うとかした方がいいだろ」
「………そうですね」
妙な間があったのは一体なんだ。
「…お前、またおかしな考え方してるんじゃないか?」
「えっ……」
「たとえば…………」
そうだな。
「俺を巡ってあいつと直接対決になるんじゃないかとか」
それだけで、古泉がぎくりとしたのが分かった。
「……あほか」
ぐりりと強めに頭を撫でて、
「前にも言ったと思うが、あいつは俺に恋愛感情なんてないし、俺だってない。あいつがあんなことをした理由はそういうことじゃないってことも言っただろ?」
「し…しかし……」
「あいつはそこいらの一般常識じゃはかれないようなとんでもない奴なんだ。いっそ普通の想像はしない方がいい。突拍子もないことが起きると覚悟しといたら間違いない」
「ええ……?」
そんな人間が古泉の周辺にいないから分からないんだろうか、と以前の俺なら思っただろう。
が、今ならこう言える。
「あの会長よりも妙なことをしでかすし、もっと意図がないって言ったら分からんか?」
にやりと笑った俺に、古泉はそのきれいな顔をぴしりと強張らせ、
「それは……………恐ろしいですね…」
とぞっとした様子で呟いた。
……こいつは一体どういう目に遭わされているんだろうか。
「まあ、とにかくそういうタイプだから、変な心配するな」
「……分かりました。では、今度の休みに……うまく予定が合うようでしたら…」
「ああ、ハルヒにも連絡しとく」
「はい、お願いします。それから………あの…これを……」
名残惜しそうに体を離した古泉が、脱いでもいなかった上着のポケットから取り出したのは、俺が飛び出したあの時、叩きつけて行った諸々の物だった。
カードに鍵、身分証、端末、財布。
「…もう一度、受け取ってもらえます……よ…ね……?」
不安げに語尾を揺らす古泉に、それはもう腹を抱えたくなるほど笑った。
「そ、そんなに笑わなくったっていいじゃありませんか」
と言った古泉が涙目に見えたくらいだ。
「だ、って、くくっ…なあ?」
笑うしかないだろ。
「くれないと困るだろ。つか、それは俺のなんだから、さっさと返せ」
叩き返しておいて虫のいい話だとは思うが、それが事実でなくては困るのだから仕方ない。
「あ、はい」
おずおずと差し出されたものをポケットに突っ込むと、妙に落ち着いた。
改めて、ちゃんとここで暮らしていいんだと思えたのかもしれん。
「……じゃあ、」
と古泉は俺の肩に手を置いて、
「この話はこれくらいにしておきませんか?」
「ん?」
「もっと別のことをして過ごしたいです…。……また明日からは仕事で忙しいんですし……」
「……そういや、お前、なんでこんなにのんびりしていられるんだ?」
出張から帰ってきたからと言って二日も休めるとは思えない。
一日休んだなら、今日はもう仕事のはずだろう。
「病欠、ということにしてもらったんです」
ずる休みがばれた子供の顔で、古泉はそう答えた。
「実際、病気みたいなものでしたよ。あなたのことが心配で、でも、どうしたらいいのか分からなくて。本当に……頭がおかしくなるかと思ったくらいです」
「…そうか」
「……あなたが帰ってきてくれて、よかった」
そう言って、古泉は俺を抱き寄せる。
ほとんどその膝に載せられるような格好になりながらも、俺は抵抗する気にならなかった。
「……俺も、帰ってこれてよかった」
一度だけ、唇を少し触れさせるだけのキスを、自分からした。
だが、
「今日はこれくらいにしとけ」
「どうしてですか」
って、おい、情けない声を出すな。
「だって、本当に久しぶりじゃないですか。一週間留守にして、あなたと喧嘩なんてしてしまって、更に二日も会えなくて………」
「あのな、」
お前はすっかり忘れているようだが、
「これでも俺は風邪ひきの病人だぞ?」
「…あ………」
「結構楽になってはいるけどな。ここで油断したら、また悪化するかもしれんし、何より、お前にうつしたらまずいだろ。…俺が戻ったのに、二日も続けて病欠なんてことになったら申し訳ない」
「……僕にうつしてあなたの風邪が治るなら、少しくらいいいんですけど」
「あほか。それで、せっかくの休みを寝て過ごすなんてばかばかしいだろ。……だから、」
と俺は古泉の頭を撫で、
「今は大人しくしておいて、早く治すから、そうしたら…………な?」
「はい」
さっきの情けなさを忘れたように、古泉は喜色満面としか言えない笑みを見せ、俺をもう一度だけきつく抱きしめた。
頼れるのかと思ったらそうでもなくて、こうして情けなかったり可愛かったりする古泉が、俺は愛しくて堪らない。
余計なお世話を焼いてくれた礼に、今度ハルヒに会う時には、そんな風に思い切りのろけてやろうと思った。