眠り月

地固まる?


俺の夕食として会長が温かな雑炊をまた用意してくれたまではいいのだが、今度は前と少し様子が違った。熱々の器をベッドサイドに置き、食べやすい量を慎重にレンゲですくった会長は、それをそっと吹き冷まし、
「ん、口を開けろ」
と俺に向かって突き出した。
「……どういうつもりですか」
「いや、これから駆けつけてくるだろう大馬鹿野郎に少しくらい俺とお前の仲を見せ付けてやらなきゃならんだろ?」
「必要ありません、というか、仲もへったくれもないだろ!」
「あん? 冷たい奴だな。ベッドを貸してやったし、飯も食わせてやったし、これだけくっちゃらべったんだ、それなりの仲ではあるだろ」
という言葉を好意的に解釈すれば、俺を友人と思ってるなんて恥かしい台詞に翻訳出来るだろうか。
だが、そんな風に素直な人間ではないように思えた。
「面白がってるだけだろあんた…」
「まあな」
悪びれもせずに笑って、なおもレンゲを突きつけてくる。
どうやら、本気でこのまま食わせるつもりらしい。
こんな恥かしいこと、古泉とだってしたような覚えはないんだが。
仕方ない、とため息を吐いて薄く口を開けると、ぐいと捻じ込まれた。
「っ、あ、ほか!」
むせながらも抗議の声を上げた俺に、会長は首を捻る。
「ん?」
「強引に突っ込むな、苦しいだろうが!」
「お前がちゃんと口を開けないのが悪いんだろうが。こぼすな」
そう言いながら、会長はまたレンゲに雑炊をすくい取っている。
俺はため息を吐き、今度は大げさに口を開いた。
警戒している俺に、少しは気が咎めでもしたのか、会長は今度はそっとレンゲを口に寄せてくれた。
それを軽く吸うようにして口に入れ、落ち着いて咀嚼する。
前より味が分かる、ということは少しは回復してきているということでいいんだろうか。
「だからって調子に乗るんじゃねえぞ」
「ああ」
それこそ子供の時ですら経験したことがなかったような高熱を出して寝込んだ身としては大人しくしているしかない。
そうしてなんとか雑炊を半分ほど腹に納めたところで、俺はもう一度ベッドに横たわった。
天井を見上げて、
「…古泉……来ないな」
と呟いたのは自分ではとても小さくてかすかな声のつもりだったのだが、静かな部屋の中には十分な大きさで響いた。
会長はふっと皮肉っぽく笑い、
「不安そうだな」
「……悪いか」
「いや、これじゃあいつが惚気まくっても仕方がないと思っただけだ」
「は?」
「可愛い」
にやにやと意地悪く笑いながら会長は俺の上に体を屈めてくる。
「ちょっ…な、なんのつもりだ…!?」
「分かるんじゃねえか?」
そう言っただけで吐息が顔にかかるほど近い。
「や、やめろって!」
本気で抵抗しようとした瞬間だった。
木を思い切り打ち付けるどころか叩き割るような轟音と共に寝室の扉が開き、髪を振り乱した古泉が飛び込んできた…らしい。
らしい、というのは俺にはそれが見えなかったから、後の状況でそうと推測するしかなかったのだ。
「何をしてるんですか」
聞いたことがないほど低い唸りに、びくりとしたのは俺だった。
会長は悠々と、
「何をしてたように見える?」
とさもキスをしたなどという事実でもあるかのように言い返し、古泉の怒りを煽る。
そして、古泉はまんまと乗せられた。
あっという間に間合いを詰めたかと思うと、思い切り会長を蹴り飛ばし、俺の上から落としたのだ。
そうしてようやく見えた古泉の顔は本気で怒っていて、ぞっとするような寒気すら感じた。
ケンカをした時、俺に対して怒っていたと思ったのは俺の思い違いであり、実は怒ってなどいなかったんじゃないかと思えるほど、表情がまるで違った。
「たとえこの人が望んだにしても、」
と古泉は会長をきつく睨みつけ、
「あんたには絶対渡さない!」
そう、怒鳴ったんだと思うのだが、俺にはどうしてだか、それは子供が泣き喚くみたいに聞こえた。
やっぱりこいつは大人のように見えて、中身は子供なんだろう。
俺は嬉しいんだか笑いたいんだか分からないような気持ちになりながら、それでも古泉を軽く睨んだのは、ちょっとした意地悪だ。
「そう言うくせに、なかなか俺を迎えに来なかったな」
苦笑しながら言ってやれば、古泉は慌てふためいて、
「そ、それは……」
「言い訳があるなら、後でじっくり聞いてやる」
俺はまだ少しふらつく体で布団から抜け出し、古泉の手を借りてベッドから立ち上がる。
「言い訳、してくれるんだろ?」
小さく笑うと、古泉は幸せそうに笑ってくれた。
「全く……」
呆れきった声を出したのはもちろん、会長だった。
古泉に蹴飛ばされ、床に転がされたことなんて大したダメージにもなってないというような調子で悠然と立ち上がったかと思うと、
「たかだか痴話ゲンカで他人に迷惑をふりまくほど大事な嫁さんなら、もっとしっかり捕まえとけ」
と古泉をせせら笑うように言う。
どうやら会長に対しては随分と沸点が低くなるらしい古泉がカチンと来たような様子で何か言おうとしたのを制し、
「会長には世話になったんだ。…一応礼くらい言わせてくれ」
「世話にって……」
何を想像したか知らんが、妙な顔をするな。
「…お前のところから飛び出して、雨でぬれたせいで風邪を引いちまってるんだよ。で、ずっと会長に世話になってたんだ」
「……それでですか」
と言った古泉の声は安堵には程遠く、むしろ冷たい。
「古泉?」
「あなたの足取りがまるで掴めないと思ったら……」
と呟いた古泉に睨まれた会長はにやにやと愉快そうに唇を歪めている。
「お前が本気を出して探そうとすれば探せる程度にはヒントを残しておいてやったつもりだったんだが?」
「どこがですか…!」
と低く唸る古泉に、会長は喉を鳴らして笑ったようだった。
「で、お前はどのくらい本気で探したんだ?」
「どのくらいって…」
「ああ、それとも、いつから、と聞くべきか?」
意地悪く言った会長に、古泉は口をつぐむ。
ということは、俺が出て行ってすぐ探したというわけではないということなんだろう。
「気にするな」
と俺は軽く古泉の背を撫でてやる。
「怒ったり、混乱したりしてりゃ、すぐに探す気になんかならんだろ」
「いえ、その……」
古泉は歯切れ悪く目をさまよわせたが、後で話すことにしたんだろう。
「とにかく、帰りましょう。ここにいても不愉快になるだけです」
「そこまで言うか」
非難めかしく呟きながらも、会長はやはり楽しそうだ。
この人なりに古泉を気に入ってるんだろうな。
そして、会長なりの愛情表現の一種なんだろう。
嫌がらせを楽しむような調子で、
「キョン、」
と俺を呼び、
「また何かあったら逃げ込んで来いよ。お前ならいつでも歓迎してやる」
皮肉なんてものじゃないなと思いながら、
「そんなことはもうないと思いますよ」
と返して古泉の腕を取った。
寝室を出ると九曜が待っていて、俺と古泉を見ると少しばかり嬉しそうにしたように見えた。
古泉に軽く抱きつき、それからそうっと俺の手を握る。
「…帰りましょうか」
柔らかな声で古泉が言い、俺は当然頷き返した。

家に帰った俺を、有希は本当にほっとした様子で迎えてくれた。
九曜を家族に迎えて以来、お姉さんらしくなっていたのも忘れたように俺に飛びつき、きつく抱きしめてくる。
「心配掛けてごめんな」
そう謝ると、有希はそっと頭を振った。
そのくせぎゅうぎゅうと抱き締められて、痛いくらいだ。
俺は出来る限り優しく有希の背中を撫で、有希が落ち着くのを待った。
数日留守にしただけだってのに、家の中はえらく荒れていた。
古泉はろくに片付けもしなかったらしい。
そのくせ台所があまり汚れてないのは、ろくに食べてもなかったってことだろうか。
全く、
「お前は本当に目を放せんな…」
「……だったら、放さずそばにいてください」
泣き言を言って、古泉は俺を背後から抱き締めた。
そんな風にされると、根が単純にできている俺はついほだされて、許してやっちまいそうになるが、
「…俺はまだ、お前の言い訳を聞かせてもらってないぞ」
小さく不満を忍ばせて呟けば、古泉は困ったような顔をしながら、俺をリビングにあるふかふかのソファに誘導した。
九曜は有希と久々の再会を喜んでいるのか、それとも離れていた間のことについてお互いに話しているのかよく分からないが、お腹が空いているだろうに構わずさっさと自室に入っちまった。
おかげで話しやすくはあるんだが、もしこれが、二人に気を遣わせたということなら申し訳ないし不甲斐無い。
「言い訳の前に、謝らせてください。……あなたを疑ってしまって、すみませんでした」
意外なことに、そう言って古泉は深々と頭を下げた。
てっきりそんなことも忘れ、謝らないまま誤魔化すことになるかと思っていた俺は本当に驚いた。
それと共に、古泉が成長したのかと思うと嬉しくもなる。
俺は小さく笑って、
「俺の方こそ、一方的に怒鳴り散らしたりして悪かったな。…ちゃんと説明したら、お前だって分かってくれただろうに……」
「いえ、あなたがあれだけ言って、ああいう行動に出てくれたからこそ、僕もあの後で冷静になれたんです。だから、あなたは悪くありません」
「…ばか、ケンカをしたらお互いに謝るもんなんだよ」
そう笑いを含んだ声で言って、こつんと軽く古泉の頭を小突いてやると、古泉はくすぐったそうに笑った。
「それで…言い訳は?」
もう一度促してやると、古泉は顔を引き締めた。
…もしかするとそれは意図的にしたわけじゃなく、勝手にそうなったということなのかも知れないと思うくらい深刻な声で、
「…あなたがいなくなって、すぐに探さなかったわけじゃないんです。ある程度、探してはいました。でも、見つけたところで真っ先に迎えに行くということは出来ないと思うと、あまり人を使うのもはばかられて……つい…遅くなりました…」
「迎えにいけないってのはどういう意味だ?」
軽く睨み据えた俺に、古泉は降参とでも言うように手を挙げた。
「あなたを怒らせてしまったという気まずさも理由のひとつではありますが、それ以上の理由があるんです」
「なんだよ?」
「…あなたに怒られて、冷静になって考えたんです。あなたがあんなことをするはずがない。では、誰が一体何のために、あんな写真を送りつけてきたのか、と。それが分からなければ、あなたを連れ戻すことは更なる危険を招くかもしれないと思ったんです。……杞憂でしたけどね」
と古泉が苦笑した、ということは、
「もう誰がやったのかは分かってるってことか?」
「ええ」
「誰だ? ……って、俺が知ってる人間のわけがないか」
「いえ、あなたこそよくご存知の方ですよ」
「……は?」
驚く俺に、古泉は申し訳なさそうに小さく、
「…あなたのご友人の、涼宮さんですよ。犯人は」
「……はぁ!?」
本気で素っ頓狂な声を上げるほど驚いたものの、一瞬の驚きが冷めれば逆に納得した。
「…そうか、あいつか……」
ため息のように呟けば、
「なかなか正義感に富んだ方のようですね」
と笑われた。
「正義感って言うのか? …変な風に仲間意識が強いだけだろ」
思えば、こういうことも初めてじゃなかったな。
俺にカノジョが出来そうだとかそういう話になると、どこかからしゃしゃり出てきて、それを邪魔するような真似をするのだ、あいつは。
あいつに言わせると、「恋ってのは障害があった方が燃えるもんでしょ? そこで燃え上がらずに消えちゃう程度なら、我がSOS団の団員はあげられないわね!」とかいうわけの分からん話になるのだが。
「愛されてますね」
と呟いた古泉の声には少しばかりやっかんでいるような色がにじんでいた。
俺は目を細めて古泉の頬に手をやり、
「…お前のがよっぽど愛してくれてるんじゃないのか?」
と言ってやれば、古泉は嬉しそうに笑った。
「ええ、勿論です」
そう告げた唇が近づいて来るのを、そっと指先で押さえて止めると、
「…会長のところにいるって電話があったのに、なかなか来なかったことに関する言い訳はないのか?」
「……これは本当に言い訳にしか聞こえませんよ?」
拗ねたように古泉が言い、それで構わんと言うと、それこそ本当に子供みたいな顔で不貞腐れ、
「…あの人が妨害してくれたんですよ」
うんざりしたとばかりに呟いた。
「……あの人って言うと…会長か」
「ええ。……大体、あの人の居場所を把握するのも大変なんですよ。自宅と称してる部屋だけでも、両手の指で足りないくらいあるんですから」
「そうなのか?」
「そうなんです。おまけに、公式で動いてるなら問い合わせたりすることも出来ますけど、プライベートとなるとどこにいてもどこにいなくてもおかしくない人ですからね。秘書の方も恐ろしく口が固いし……。……あれでも必死で探して、駆けつけたんですからね」
「……ん、ありがとな…」
古泉の子供っぽい仕草が可愛くて、愛しくて、それからやっぱりこいつは子供なんだから、俺が大人になってやらなきゃ、なんて思えた俺は、礼を言うついでに古泉の頬に唇を触れさせた。
古泉はくすぐったそうに笑った癖して、
「……それだけですか?」
なんて文句をつける。
「…お前の好きにしたらいいだろ」
と笑った俺を、古泉は幸せそうに抱き締めた。