眠り月

この作品はチャットで書いたものであり、作品としては本編以前の物です。
本編の生まれるきっかけとなった作品であるため、いろいろと違っています。
それでも読んでみたいという方だけどうぞ











































のんびりいこうよ


「あなたに恋してしまいました」杯に酒を注ぎながら、少しだけ顔を近づけてそっと囁くと、その人はいつも不機嫌に歪めた眉を更に寄せ、きつく皺を刻んだ。
「お前な、その面でそんなことを囁けばどんな奴も夢中になるとか思ってんのか?」
「思ってませんよ、そんなこと」
そもそも、他の誰にもそんなこと言ったことなんて一度もありませんし、と僕が言っても、眉間の皺を消してはくれない。
それどころか、
「嘘吐け」
と吐き捨てて、
「大体、お前みたいに通う店をころころ変える奴がんなこと言って信じられると思うのか?」
「店を変えるのは、そうしないと相方を変えられないからです。相方を変えるのは、どの方も僕を夢中にさせては下さらなかったからです。……あなたが、初めてなんです」
僕はいたって真剣にそう言ったのだが、その人は嫌そうに顔をしかめると、
「寝言は寝て言え」
と唸るように言った。
「それは遠回しなお誘いですか?」
「んなわけあるか。…っていうか、お前、分かってんのか?」
「何をです?」
「お前が相方になった女に大してあまりにもつれなくする。女房にしてくれって心中立てまでした女をあっさり振る。女が本気になったと見て取った途端、ぱったり店に通わなくなる。――なんて悪行三昧好き勝手にやらかしたせいで、俺がお前の相手する破目になってんだろうが」
「悪行三昧だなんて、酷いですね」
僕としては当然のことなのに。
「何が当然だ」
「だって、当然ですよ」
相方になった人に対してつれなくしたのは、その人のことを好きになれなかったから。
相手は遊女なんだから別に好きにならなくてもいいんだろうけれど、好きでもない人を抱きたいとは思わないから、抱かなかった。
ただそれだけのことなのに、つれなくされたと言って泣かれ、騒がれ、店に通い辛くなったから店を変えた。
また別の時には、ちょっといいなと思ったので抱くところまで行ったものの、こちらが好きと確信する前に心中立てなんてことをされて一気に冷めた。
小指を切って渡されても、困る。
困ると言うか、正直恐ろしい。
そう、恐ろしいとしか言いようがなかった。
女性とはそこまでするものなのか、と驚き、果たして自分がそこまでされるような人間だろうかと懊悩する暇さえなかった。
それくらい、怖かった。
同時に、その押し付けがましい愛が鬱陶しく感じられ、僕は次の瞬間部屋を飛び出し、店から遁走したのだった。
それから、数度そんなことを経験した僕は、相手が本気になったと見て取るや店を変えるという程度には学習したのだが、どうしてそれを彼に咎められねばならないのだろう。
それだからこそ、彼に出会えたと言うのに。
彼は、男衆だ。
男衆である以上、本来ならばこんなところには出てこない。
男衆とは、女手ばかりの店の中、力仕事を受け持つためにいる存在。
その多くは遊女の産んだ男子だと聞いたことがある。
店に出せない分、裏方で働けということなのだろう。
だから本来表にも出てこない彼が座敷にいて、僕の向かいに座っているのは、全ての――それこそ店中ではなくこの花街中の――遊女が、僕の相手をすることを拒み、彼女らに睨まれた幇間たちも座敷に来ることを拒んだためだ。
困り果てた店の主が、たまたま手の空いていた彼を寄越したのは、そうすれば僕が怒って帰るとでも思ったからだろう。
ところが僕は、彼がいたく気に入ってしまった。
こんな場所で生まれ育ったと言うのに穢れを知らず、また妙に見識も広く、態度も闊達で心地好い彼は、僕の目に酷く魅力的に映ったのだ。
それこそ、眩しくさえ見える。
僕が店を転々としてきた理由を聞いた彼は、顔を不機嫌に歪めきった。
それこそ、手を叩きたくなるほど見事に。
それでも僕の思いはなくならない。
ただ愛しさだけが込み上げる。
だから僕は、
「あなたのことが好きですよ」
ともう一度口にした。
彼は呆れきったため息を吐くと、
「お前もう飲みすぎたんだろ。さっさと寝ろ」
「あなたが添い寝してくださるんでしたらいいですよ?」
「やなこった」
「いいじゃありませんか。戻って、自分の薄い布団で寝るより、ここの柔らかな布団で寝た方がいいと思いません?」
「そうは言うがな、古泉、」
と彼は立ち上がり、次の間へと続くふすまを開け放った。
そこにはきっちりと布団が敷かれている。
「お前、本気で何考えてんだ? 相方の遊女もいねえのに、布団までちゃんと用意させやがって…」
「だって、当然でしょう? 店に通うなら、布団や何かを用意するのは基本じゃありませんか」
「だから、相方になる遊女もいないのに…」
「あなたがいるでしょう?」
今度こそ彼はぽかんとした顔で僕を見つめた。
「……お前、本気で言ってんのか?」
「そう聞こえませんでしたか?」
「冗談だろ……」
「本気ですよ。……本気で、あなたのことが好きです」
僕が改めてそう告げると、彼は怒りにかその頬をかっと紅潮させた挙句、
「男が買いたいなら芳町にでも行きやがれ! 俺は陰間じゃねえ!」
と怒鳴った。
「分かってます。ですから、あなたを無理矢理抱こうなんて不埒なことは考えてませんよ。布団も、あなたがひとりで使いたいのでしたら、どうぞ。僕は壁にもたれてでも寝れますから」
「……お前、何考えてんだ?」
ほとほと呆れた様子で彼は呟いた。
「全然、分からん。俺のことを好きとか言う時点で既に分からんが、そのくせ抱く気はないのも分からん」
「別に、抱く気がないとまでは言ってませんよ」
苦笑混じりに僕が言うと、彼はぎょっとした様子で僕を見た。
「今強引にする気はないってだけです。だって、勿体無いでしょう? せっかく誰かを好きになれたのに、急ぎ足でことを進めるなんて。ゆっくりでいいんです。のんびりいきましょう。ね?」
「…のんびりも何も、俺は何一つ了承しちゃいないんだが……」
「ええ、あなたに僕を好きになってもらうまでも含めて、のんびりゆっくり進めたいんです」
「…そうかい。勝手にしろよ。俺はもう疲れたから寝させてもらう」
すっかり疲労困憊した様子でそう言った彼は、布団の方へと向かいながら、ぽそりと一言呟いた。
その言葉が信じられなくて、思わず彼に、
「今、なんと仰いました?」
と問うと、耳を赤く染めた彼が、
「お前も寝るなら来いよって言ったんだろ。……ただし、妙なことは仕掛けてくるなよ」
「…ありがとうございます」
そう言って彼の肩に触れると、
「調子に乗るな」
と吐き捨てられたが、調子に乗りたくもなるというものだ。
僕の耳が異常を来たしていないのであれば、彼はさっき確かにこう呟いたのだから。

――『のんびりするのは勝手だが、俺が焦れる前にしろよ』と。