眠り月

風呂


久しぶりに、本当に久しぶりに閉鎖空間が発生して、僕は真夜中に飛び起きた。慌てて着替えて部屋を飛び出し、マンションの前で待っていてくれた新川さんの車に乗り込む。
夜中とはいえ少しばかり危険な急発進と猛スピードは見ないことにして、僕は携帯を取り出し、お兄さんの携帯を一瞬だけ鳴らして、携帯を閉じた。
閉鎖空間が発生した時はそうして知らせる、という約束を少し前にしたのだ。
多分、お兄さんはそういうことを言いだす機会をずっと待っていたのだと思う。
でも、それが僕の負担になるんじゃないか、なんて考えてたと明かしてくれた。
僕にしてみれば、近頃はこうして夜中に発生することが多いのに、わざわざお兄さんを起こしてしまうような真似をするのは気が進まなかったのだけれど、お兄さんがそれを知りたいというのならと承諾した。
実際に、こうして伝えるのは初めてだけど、うまくいったのかな。
お兄さんの安眠を妨げてなければいいんだけれど。
「楽しそうですね」
不意にそう言葉を掛けられて、驚いた。
バックミラーの端に、新川さんが目を細めているのが見える。
僕は苦笑して、
「楽しくはありませんよ」
「そうでしたか? とても優しい顔になっていましたよ」
「それは……そうかも知れませんね」
と僕は認めて、
「気を引き締めないといけませんね」
と呟いた。
これから僕が行くところは決して安全な場所じゃない。
でも、前ほどは、そこに行くのが嫌ではないのだ。
そこで僕が戦うことで、守れるものの形がはっきりと見えるからだと思う。
「頑張ってきます」
と短く告げて、僕は車を降りた。
それから、大体三十分か一時間、というところだろうか。
役目を終えて、また元来た場所に戻ると、やはり新川さんが待っていてくれた。
「お疲れ様です」
という言葉には、小さな頷きだけを返す。
疲れて言葉も出ない。
というより、まともな言葉が出そうにない。
こういう時は下手に喋らず黙っている方がいい。
新川さんもよく分かってくれているんだろう。
来る時とは全く別人のような、とても穏やかで優しい運転で、僕を運んでくれた。
うつらうつらしながら、ふと思い出したのは、もう一年以上も前の頃のことだ。
あの頃の僕には本当に、周りの人が僕にどんなによくしてくれているかなんてことに気づく余裕もまるでなくて、どうして自分ばかりがつらい目に遭うのかなんて痛々しいことを思っていたっけ。
余裕がなかったにしても酷過ぎて、呆れるしかない。
お兄さんがいてくれなかったら、あのままだったかも知れないと思うと、改めてお兄さんに感謝もしたし、そんな態度の悪い僕に対して、優しく接し続けてくれた人たちに感謝した。
マンションの前で降りて、ふらふらと部屋に向かう。
真夜中と早朝の中間のような時間帯でもあり、疲れのせいもあって強い眠気に襲われている。
本当はシャワーくらい浴びたいくらいだし、出来れば湯船に浸かって、冷え切った体を温めたいと思うのだけれど、お風呂を沸かすような気力が残ってない。
冷たい布団に戻るのも寂しいけれど、とにかく眠りたくて、部屋に入った途端、
「おかえり」
と声を掛けられて驚いた。
「…お兄さん……?」
「どうした? …あんまり無防備に目を剥いてるから、残念なくらい幼い顔になってるぞ」
優しい顔で言いながらお兄さんは僕の頬に触れ、
「つめた…」
と眉を寄せた。
そのままぐいっと僕の腕を引っ張って、
「風呂沸かしてあるから、さっさと入れ。暖まるだけでもいいから」
「ええ?」
「……つか、お前一人で入らせるのも心配だな。今にも寝入りそうな顔して……」
「すみません…」
ぼうっとしてしまう僕の手を引いて、お兄さんは脱衣所まで連れて行ってくれたばかりか、
「ほらばんざーい」
なんて、小さな子供にするようにして、服を脱がせてくれた。
恥ずかしいけれど、そう感じるより前に言われるとおりにしてしまったのがなおさら恥ずかしくて居たたまれない。
そそくさと風呂場に逃げ込み、手桶でお湯をすくおうとして、お湯の熱さに手がしびれそうに感じた。
「あっつ…」
「ばか、お前が冷えすぎてんだよ」
からかうような声が脱衣所から聞こえる。
しばらく手首から先だけをお湯につけていると、だんだんとなじんできた。
それでようやく掛け湯をしたものの、冷え切った体には本当に熱く感じられた。
我慢して浸かってしまえば大丈夫だと、過去の経験を思い出しながら無理矢理お湯につかると、身震いするほど熱くて、痛みさえ感じられた。
体を竦め、痛む足や腕をさすっていると、お兄さんがにやにやしながら入ってきて、
「熱すぎてか? 悪かったな」
と言っているけれど、
「全然悪いと思ってないでしょう…」
「さあ、どうだかな」
そう言ってのけるお兄さんは本当に人が悪い笑みを浮かべていて、これが本当にいつものお人好しなあの人なのかと言いたくなるくらいだ。
身を縮めている僕を面白そうに眺めて、悪戯するように僕の前髪にお湯をかけた。
「わっ」
「暖まったら一度上がれよ。洗ってやるから」
「さっきは暖まるだけでいいって言ったじゃないですか」
と小さく口答えしてみても、お兄さんには無駄だった。
意地悪な笑顔を浮かべたままで、
「暖まるだけでも、って言ったんだろ。せっかく入ったんなら、ちゃんと洗い流してさっぱりしろ。それに、もうすっかり目が覚めましたって顔してるぞ」
「お兄さんのせいですよ」
こんなにお風呂を熱くしてるから、とぶつぶつ言っても、お兄さんは鼻歌を歌いながら、シャンプーを泡立て始めている。
僕は諦めてお湯から出ると、
「こっちだ」
と示されるまま、お兄さんの前に座る。
その途端、手桶ですくったお湯を遠慮なくかけられ、慌てて目を閉じた。
そのまま泡立てたシャンプーを頭に乗せられ、わしゃわしゃと洗われる。
「やっぱりお前の髪の毛の感触って好きだな」
なんて独り言めいた呟きを漏らすお兄さんに、僕は目を閉じたままため息を吐いて、
「だからってここまでしなくても…」
「ここまでするのは、お前が可愛いからに決まってんだろうが」
しれっとした調子で言われるのも、今に始まったことではないけれど、恥ずかしいので許してください。
真っ赤になって耐えている間に、ざばっとまたお湯をかけられた。
どうやら、髪は洗い終わったらしい。
これで解放されると思ったら、すぐに背中に何かが触れた。
「お兄さん?」
「背中も流してやる」
「ええ!?」
「遠慮するな」
遠慮じゃないです。
「文句言ってると全身洗うぞ」
「背中を流してくださいお願いします」
何ですかその脅し、と思う間もなく、反射でそう返していた。
今日のお兄さんは本気でやりかねない。
そのついでにと色々と検分されたり、余計なことまで聞かれたらこのまま風呂で溺れ死にたくなるに決まってる。
なんとか途中でスポンジを奪い取り、体を洗い終えた僕に、ちゃっかり湯船に浸かっていたお兄さんは優しく目を細めて言った。
「こうして一緒に風呂に入るのも久しぶりだな」
「…そうですね」
「たまには銭湯にでも行くか?」
「嫌です」
即答した。
「即答かよ」
「即答しますよ。だって、最近のお兄さん、人前でも気にせずに構いまくるじゃないですか。さすがに恥ずかしいです」
「……一樹が反抗期…?」
よろ、とオーバーにショックを受けて見せるあたり、涼宮さんに似てきたんじゃないだろうか。
「反抗期って訳じゃありませんけど……」
というか、僕のことを本当になんだと思ってるんだろうか。
頭が痛くなりそうだ。
「仕方ないだろ。お前が可愛いのがいかんのだ」
そう居直っておいて、お兄さんは僕の頭を軽く撫で、
「それに、こんな日は余計にお前を可愛がってやりたくなるんだよ」
「………お兄さん…」
「どうやら怪我もなかったようで何よりだ」
…やっぱり、心配してくれていたんだろう。
そう言った声がとても優しくて、さっきまでの悪乗りっぷりは空元気だったようにも思えた。
……いや、多分、あれだって本気で楽しんでたんだろうけど。
「大丈夫でしたよ」
「ん、よかった」
お兄さんと交代して、もう一度湯船に浸かる。
お兄さんはついでだからと自分の頭も洗うことにしたらしい。
僕の頭を洗う時とは違う、荒っぽい手つきを見つめつつ、
「……今日の帰りにも、思ったんですけど、」
と僕は口を開いた。
別に、お兄さんが聞いていてもいなくても構わないと思ったのに、お兄さんは律儀にこちらへ少し顔を向けてくれた。
「新川さんの言葉の受け止め方が変わったように思うんです。前なら反発するか……嫌味にしか思えなかったのが、ちゃんと素直に受け取れるようになったというか……」
「…今更だな」
もっともな言葉に、僕も笑って頷く。
「ええ、今更です。もう、ずっと前からそれは感じてたんですけど、今日改めてそう思ったんですよ。それで……それはやっぱり、お兄さんのおかげだなと思いまして……」
「別に俺は、」
「ありがとうございます」
お兄さんの言葉を遮って、僕はそう言った。
「…そう、言いたいなって思ってたので、今日、お兄さんに会えてよかったです。お兄さんを起こしてしまったのも、こうして気を遣わせてしまったのも、申し訳ないと思うんですけど………でも…嬉しかったです」
「……ばーか」
柔らかな声で、お兄さんはそう言ってくれた。
「んなもん、俺がそうしろって言ったんだし、目が覚めたのはたまたまだ。もしかしたら気のせいかと思ったくらい、一瞬しか鳴らなかったからな。こうして押しかけてきたのも、俺の勝手だ」
「お礼くらい言わせてくださいよ」
「言うのはお前の勝手だがな」
照れくさそうに呟いて、お兄さんはうつむいた。
髪を洗い流すため、というより、それこそ照れ隠しだったんだろう。
ざばざばと勢いのよい水音にかき消されるかもしれないと思いながら、僕は小さな声で、
「お兄さん、大好きです」
と言ったのだけれど、お兄さんの耳はやっぱりいいらしい。
「俺もだ」
と言って顔を上げ、僕の頭を引き寄せたかと思うと、軽くキスされた。
「……っ、も、もう…!」
真っ赤になる僕に、お兄さんは涼宮さんのように明るい笑みを見せた。