眠り月
賄賂
深夜12時過ぎ。
「ひうっ…う、ぅ……」
忍び泣きの声が俺の部屋に響いていた。
と言っても、俺の部屋に幽霊が出たとか、どこか異空間に通じる扉が開き、そこから声が漏れ聞こえてくるとかいった、いわゆる「不思議なこと」が起こったというわけじゃない。
極めて日常的なことが起きたまでだ。
俺の胸に頭を押し付けて泣いているのは俺の可愛い弟分、古泉一樹だ。
表面的な古泉しか知らない奴なら、こいつが俺の胸なんかにすがってすんすんしくしく泣いているのを、ちょっとやそっとの怪奇現象よりもよっぽど恐ろしいものに思うのかもしれないが、こいつが時々こんな風に泣きついてくることに慣れちまった俺は、もはや不思議にも思わない。
妹やお袋も多分そうなんだろうな。
何度か古泉が泣き付きに来ていることに気付かれた時は、廊下に濡れタオルと清涼飲料のペットボトルが置いてあったりしたから。
それでも、こいつを慰められるのは俺だけだとちゃんと分かってくれているらしく、口出ししに来たりしないのはありがたかった。
「で、今日はどうしたんだ?」
俺が聞くと、古泉はぷるぷると震えながら――うっわ、なんだこの可愛すぎる生き物!――、俺のスウェットをぎゅっと握り締め、掠れた声で訴えた。
「…なん、か、女の人たちに、囲まれ、て……」
「……はぁ?」
てっきり、機関がらみで何かとか、ハルヒがらみでどうのとか思っていた俺は拍子抜けしてそう間抜けな声を上げたが、古泉はそれを疑いの声だと思ったらしい。
顔を真っ赤にしながら、
「ほ、ほんとう、なんです…っ。嘘みたいに、き、聞こえる、かも、しれないれすけど…!」
「いや、疑ってはない。疑ってないから、落ち着け」
ろれつが回ってないぞ。
ひくんと体を痙攣させるほどにしゃくり上げた古泉は、まだじわじわと溢れてくる涙を俺のスウェットに擦り付けながら、
「機関に、呼び出されて、その、帰り、にっ…、呼びとめ、られたん、です…。それ、で…そのまま、連れてかれ……て…」
そこから先は口にも出来ないとばかりに唇をわななかせ、更に涙を零す古泉に、俺はその背中を撫でさすってやるしかない。
正直、訳が分からんにもほどがあると言いたいところなのだが、古泉がここまで混乱するようなことがあったのだろうと思えばそんなことは口に出来ない。
「う…っ、ふ、ぇ…うぇえ……」
堪えかねたように声を上げて泣く古泉を慰め、寝かしつけてやるのが精一杯で、俺はそれ以上聞き出せなかった。
それでも、何があったのかは把握しておきたい。
大体、訳が分からないにも程があるだろう。
それを解明しなければ、おちおち古泉をひとりで帰らせることも出来ない。
実際、翌日の放課後、まだびくつく古泉を送ってやらねばならなかったくらいだ。
だから、俺は安直かつ無力な自分に呪いの言葉を並べ立てつつ、長門に頼った。
いきなりの訪問にも驚かず、
「一樹のことで話しがある」
という一言で、俺を部屋に入れてくれた長門は、律儀にお茶を出してくれた上で、話を聞く体勢を作った。
と言っても、悔しいが、俺からは大して話せやしない。
「一樹が泣きながら俺のところにきたんだが、有希は何か分からないか?」
と聞くだけだ。
長門は少しの間黙り込んだ後、制服のポケットから携帯電話を取り出した。
何をするつもりだ?
俺が見つめているその目の前で、長門は携帯電話を操作したかと思うと、俺に向かってディスプレイが面を向けた。
「なっ……!?」
そこには、驚くべき写真が映っていた。
短い髪を赤くて大きな丸ビーズの付いた髪ゴムで結ばれ、暖色系のミニのワンピースにハイソックス姿なんて状態にされた古泉の写真である。
それも、ばっちり涙目だ。
うちの妹を意識しているとしか思えないその姿に、妹の兄としては嫌悪を催したっていいはずだってのに、俺が思ったのはただの一言で足りることだけだった。
――可愛い。
「ゆ、有希、それは…」
問いかけようとした俺の目がまだ画面に釘付けだってのに、長門はぱっとそれを自分の方に戻すとまた携帯を操作した。
そうしてまた見せられた写真は、さっきとは違っていた。
古泉はさっきの写真より更に泣きだしそうになっているし、何よりその服装が違った。
赤ずきんちゃん、としか言いようのない服装になっている。
短すぎるスカートが恥かしいのか、少しでも裾を延ばそうと引っ張っている手つきが、こんな小さな写真でもよく分かる。
羞恥に真っ赤になった顔も、可愛い。
他にも何枚か可愛い写真を見せられて、目眩がしそうになった。
「……これで全部」
と長門が言った時には、俺はもうエネルギーを使い果たしたかのような有様で、こたつ机に突っ伏していた。
「…有希、その写真はどうしたんだ?」
「……もらった」
もらったって。
「口止め料」
「……は?」
「彼女たちは、一樹のことを可愛いと思っている。可愛いから、いじめて泣かせてみたい。あわよくば、お兄さんが一樹を慰めているところを見たい、と。そのための行動」
「待ってくれ、その彼女たちってのは何者なんだ!?」
話の流れからして、昨日古泉を連れ去った人たちに違いないのだろうが。
「私にもよく分からない」
というのが長門の返事であり、長門に分からないなら俺になど分かるはずもない。
「ただ、害意はないと判断した」
「だが、実際一樹は傷ついてるんだぞ? 可愛そうに、今日も怯えていてだな……」
「そこをなんとか慰めて、社会生活に復帰させるのが、お兄さんの役割」
すっぱりとそんなことを言った長門に俺が唖然としていると、
「……一樹はいつもお兄さんに泣きつく。今回もそうだった。…可愛い泣き顔を独占したのだから、それくらい、お兄さんがするべき」
「って、お前な…。お前だって、一樹が可愛いんじゃないのか? 可愛い弟が怯えてるってのに、その原因を放っておくのか?」
「……写真が」
写真が?
「…欲しかった」
「有希…」
がくりと脱力した俺に、長門は言った。
「一樹には内緒にして欲しい」
言われなくても内緒にするだろう。
古泉は古泉なりに長門を姉のように思い、慕っているのだ。
泣きつく相手を俺にしているのは単純に、俺の方が先に馴染み、泣き顔を見られるのにも慣れているからと言うだけに違いない。
俺がもし、何らかの用事などで近くにいなかったなら、恥かしさに顔を赤くしながらも、ひとりで我慢するのに耐えかねて、長門に泣きつきに行くだろう。
それはそれで見てみたい。
つうか、俺には絶対に、そんな古泉の姿は見られないんだからそれだけでも長門が羨ましいくらいだ。
それだけ長門のことを慕っている古泉に、こんなことを伝えられるものか。
自分の恥かしい写真を賄賂として贈られて、犯人を見逃したなんてこと。
「お兄さんにもあげるから」
「……って、さっきの写真か?」
「そう」
こくりと頷いた長門が、もう一度俺に写真を見せてくれる。
それこそ超レアで、激烈に可愛い古泉の写真の群れに目が眩んだ俺は、
「……もし、万が一ばれた場合は非常手段を頼む」
「分かってる。……データのコピーとプリントアウト、どちらがいい?」
俺はしばしの逡巡という名の真剣な検討の後、答える。
「…両方頼む」
こうして、後ろ暗い契約が成立しちまったのだった。
今度クマのぬいぐるみでも新しいボードゲームでも何でも買ってやるし、どんなことにだって付き合ってやるから、許してくれ、一樹。
俺はお前が可愛くて仕方ないんだ。
特に涙目のお前がな。