突然の女性化から二月が過ぎたが、俺と古泉の体は元に戻る気配もなく、むしろ俺たちの方が女として過ごすことに慣れ始めていた。 最初こそ、着替えや風呂の度に戸惑い、おおいに慌てたものだが、慣れてしまえば何のことはない。 自分の体ということもあって、普通に触ったり出来るようになっている。 着替えやトイレが女子と一緒なのにも、早々に慣れざるを得なかった。 俺としては流石に一緒に着替えるのはどうかと思い、はじめはどこか人気のない教室にでも入り込んで着替えようとしていたのだが、ハルヒに、 「キョン! あんたどこ行こうとしてんのよ! さっさと着替えないと遅れるわよ!」 と、教室を出て行こうとしたところをとっ捕まえられた挙句、まだ残っていた男子の目の前でひん剥かれた。 ……そんなことがあったなら、もう後は同じだろう。 今ではハルヒと普通に会話しながら着替えをしたりしているのだから、本当に慣れとは恐ろしいものだ。 今も、汗を吸った体操服を脱ぎながら、ハルヒと話していたのだが、それまでの話題を無視してハルヒが口にした言葉は、 「で、結局古泉さんとはどうなってんの?」 というものだった。 ……ハルヒ、俺たちはさっきまで、このクソ暑い季節にグラウンドを3周もさせる体育教師について愚痴ってたと思うんだが。 「いいじゃないの、別に。今思い出したんだから」 と膨れたハルヒは、 「で、どうなのよ」 そう言い逃れを許さない目で俺を睨みつけた。 「どうって……」 「付き合ってんの? それとも断ったの?」 女性化してから二ヶ月、ということはつまり、古泉に告白されてから二ヶ月過ぎたということでもあるのだが、俺は未だに古泉に明確な返事をしないままでいた。 好きとも嫌いとも言えず、付き合うとも絶対に付き合わないとも言っていない。 完全に宙ぶらりんのままだ。 それでも古泉は俺に文句も言わず、時折俺を抱きしめたりするものの、それ以上の行為には及ばない。 俺に、好きですと囁くこともある。 だがそれは、俺の返事を求めてというものではないのだと、古泉が自分で言っていた。 ただ自分が言いたいから言うだけだと。 俺にとって古泉は、この世界でおそらくたった一人の同志だ。 同じ日に突然女になっちまい、家族にも友人にも生まれつきそうだったと認識されているため、唯一愚痴れる、一人きりの仲間。 だから、俺にとって古泉と過ごす時間は、ともすれば気が狂ってしまいそうになる俺の精神を留めてくれるものにさえ思えている。 そのせいで突き放せないんだろうか。 ――それだけじゃない、なんてことはもう分かってる。 分かっていても口に出せないのは、なけなしの矜持と、これまでみたいに気安く話せなくなるんじゃないかという怯えがあるせいだ。 たとえそれが、友人から恋人という形に変わるだけだとしても、関係が変わることによって距離感や連帯感にまで変化がもたらされるのが怖いくらい、俺は現状にそれなりの満足感を抱いていた。 「その顔だと、答えてないみたいね」 呆れたように言ったハルヒは、 「キョン、あんた、いくら古泉さんとの付き合いが長いからって、それは酷すぎない?」 「付き合いの長さが関係あんのか?」 「あるでしょ。……今に満足してるから動かないって選択をしそうなのがあんただもんね」 図星を指されて絶句した俺に、ハルヒは自分の予想が当たったのを喜ぶように笑って、 「それが残酷だってことくらい、分かってるわよね?」 「……うるさい」 そりゃ、俺だって分かってる。 だが、だからってどうすればいいんだ。 「そんなの、あんたが考えることでしょ」 当たり前のことだが、ハルヒに言われると非常にムカムカしてくるのはどうしてだろうね。 「でも、」 俺の苛立ちなど気にした様子もなく、ハルヒは窓の方へと視線をそらすと、 「あんたがそうやってる間に、古泉さんの方が心変わりするかもしれないわよ?」 「……心変わりって……」 「たとえば、誰かに告白されてついついオーケーしちゃうとか」 「…有り得んな」 なぜなら古泉は俺と同様、元は男である。 そうであれば今更どんな野郎に告白されようがそれを受けるはずがない。 「大した自信ね」 呆れきった笑みを見せたハルヒだったが、 「でも、あんた、分かってるの? 悔しいけど、あんたもあたしも古泉さんも女で…そうであれば、男が腕力に物を言わせたりしたら太刀打ちできないってこと」 「……」 そんなことは想像も出来ない、というかしたくないのだが。 「もし、古泉さんが誰かに無理矢理どこかに連れ込まれたりしたらどうする?」 「…っ、そんなの、俺があいつに返事をしてようがいまいが関係ないだろ」 荒げそうになる声を抑えながら俺が言うと、ハルヒは軽く眉を跳ね上げた。 何だその反応は。 「――別に」 ぷいっと顔を背けたハルヒは、一瞬、閉鎖空間が発生するんじゃないかと不安になるほど不機嫌な顔をしていた。 「ハルヒ?」 「何よ、あんたもさっさと着替えたら?」 「あ、ああ…」 これ以上手出ししない方がよさそうだと判断した俺は、着替えの方に意識を集中させることにした。 着替え終わった後は、さっさと教室を出る。 もう放課後だからな。 見えざる力に引っ張られるように部室に向かうまでだ。 そうしていつものように足を踏み入れた部室には、珍しく古泉がいなかった。 「長門、古泉は?」 「男子生徒に呼び出されて行った」 「……なんだって?」 「男子生徒に…」 「いや、聞こえなかったわけじゃない」 リピートしようとした長門を遮って、俺は頭を振った。 古泉が男子生徒に呼び出された、となると用件はほぼ決まりだろう。 頭の中にハルヒの言葉がこだまする。 『悔しいけど、あんたもあたしも古泉さんも女で…そうであれば、男が腕力に物を言わせたりしたら太刀打ちできないってこと』 『もし、古泉さんが誰かに無理矢理どこかに連れ込まれたりしたらどうする?』 さっき例示されたことが現実化したら、と思うと恐ろしくさえあった。 ハルヒにもう無茶苦茶な力がなくなったということは分かっている。 それでも何かあるかもしれないと思ってしまうのは、俺たちの身に起こったことだって、本来なら起こるはずのないことだったからだ。 「…長門、古泉はどこに連れて行かれたんだ?」 「屋上」 「……ちょっと見てくる」 「…そう」 俺は部室を出ると足早に屋上に向かった。 そうして、ドアを開けた瞬間、 「好きですよ」 という古泉の言葉が聞こえ、俺は動きを止めた。 俺としては、動きを止めたのは俺ではなく世界そのもののように思えた。 風もなく、空は雲ひとつ動きやしねえ。 俺の存在を視認した、どこのクラスかさえも分からないような野郎も、目を見開いてこっちを見ているだけだ。 古泉も、こっちを見てくれない。 やっとその体が揺らぎ、こちらを振り向き始めた、と思っても、その動きが酷く緩慢に思えた。 長い髪が動きに合わせて揺れるのが、コマ送りのようにはっきりと見えた。 そうして、古泉が完全にこちらを向くより早く、俺は開いたドアを閉めて階段を駆け下りていた。 なんだこれは。 自分で自分が信じられん。 自分が何をしたのか、何を考えているのか、そんなことさえ分からなくなりながら階段を下りる。 部室に行ったら確実に長門と顔を合わせることになる。 ハルヒだって来るだろう。 今はあいつらにも会いたくないと思ったのは、顔がぐしゃぐしゃになっているのが鏡を見なくても分かったからだ。 眉はこれ以上もないくらい寄っているし、目からはしょっぱい液体が垂れ流し状態だ。 加えて、唇は形が歪むほど固く引き結ばれていて、見っとも無いことこの上ない。 とにかく屋上から離れたくて、一階まで駆け下りたところで、 「あれ? キョン、どうしたの?」 と声を掛けられた。 声の主が誰かと考える必要などない。 俺は返す言葉もなく、黙って国木田に抱きついた。 「キョン?」 「…っ、すまん、少し、…ひっく、だけ、……肩、貸してくれ…」 国木田は手の置き所に困る様子を見せていたが、ふわりと俺の頭を撫でると、 「まあいいよ。少しだけね。貸し賃は後でちゃんともらうから」 と冗談とも本気ともつかないような口調で言った。 「あり、がと…」 「いいよ。ほら、まずは思いっきり泣いて、それから泣き止んだら? キョンが泣きたくなるようなことが、あったんだろ?」 国木田は優しくそう言ったくらいで、俺が落ち着いても、俺が泣いた理由を尋ねたりはしなかった。 「話したくないんでしょ? キョンが話してスッキリするなら、いくらだって聞くけどさ」 「…ああ」 「なら、聞かないよ。そのコーヒー飲んだら、もう大丈夫だよね? それとも、家まで送っていった方がいい?」 「いや、いい。……そこまで女扱いされたくない」 「なに言ってんだよ」 と国木田は穏やかに笑いながら、 「キョンは女の子だろ」 ……その言葉が、ずきりと胸に痛んだ。 仕方ないとは思う。 不可抗力だ。 だが、やっぱり俺には、俺の心情を理解してくれるのは、古泉しかいないんだと思った。 俺は紙コップに入ったコーヒーを飲み干すと、 「国木田、助かった。…ありがとな」 「いいよ、これくらいいつでも。それに、コーヒー奢ってもらったし」 そう自然に笑う国木田に、まだどこか引き攣りながらではあるものの、一応笑みと呼んで差し支えないような表情を向けてから、俺はその場を離れた。 向かう先は部室だ。 そこに古泉がいてくれることを祈りながらドアを開けた俺の目に、古泉の姿は映らなかった。 長門とハルヒだけがそこにいて、俺はハルヒが不機嫌そうなのにも構わず、 「ハルヒ、古泉は?」 「古泉さんならさっき帰ったわよ。急用が出来たんですって」 「急用?」 「心配なら会いに行けば?」 投槍に言ったハルヒに少しばかり苛立ちながらも、 「ああ、そうさせてもらう」 と俺は放り出していたカバンを拾い上げた。 「じゃあな」 と部室を出ても、ハルヒは俺を咎めもしなかった。 それをかえって不気味に思いながらも、俺は廊下を歩いた。 古泉の部屋には、こんな体になっちまってから何度か足を運んだことがある。 だから俺は、迷いもせずに古泉の部屋までたどり着けたわけだが、ここまで来ておいて、インターフォンのボタンを押すのに酷く躊躇った。 大体、古泉に会ってどうするっていうんだ。 あいつはもう、俺じゃない別の奴を選んだのに。 それは間違いないことだ。 古泉ははっきりと好きですと告げていたし、俺のことを認識していながら追いかけてもこなかった。 だから。 ――と、一見冷静に納得しているように見えて、俺の内心は断ち切られた麻よりもぐちゃぐちゃに乱れていた。 古泉の部屋の前まで来てしまったことでもよく分かるように、俺は確かに古泉に未練がある。 いや、未練なんてものじゃない。 古泉が離れて行くのが嫌で、胸が苦しかった。 これが、誰かを好きになるということなのかは、幼稚な初恋しか知らない俺にはよく分からない。 ただ、それでも、古泉が誰かほかの奴の彼女になるのが嫌だという考えに揺らぎはなかった。 だから俺は、震える指先でインターフォンのボタンを押したのだ。 インターフォンだから、当然のように、向こうには俺の顔が見えているらしい。 数秒後に応答した古泉は、 「……どうして、うちにいらしたんです?」 とどこか硬直した声で言った。 いつも通りでないことにまた胸がずくずくと痛む。 頼むから、そんな声を俺に向けないでくれ。 「お前に、会って話したいことがあるからに決まってるだろ」 「…僕にはありません。お引取りください」 「嫌だ」 「……帰ってください」 「嫌だって言ってるだろ」 「……」 ブツン、と回線を断ち切るような音が響いた。 ドアはうんともすんとも言いやしねぇ。 古泉はどうやら、俺と我慢比べをするつもりらしい。 俺はドアの前に座り込み、小さくため息を吐いた。 帰ることなど出来るはずがない。 今の俺は本当にどうかしていて、古泉の顔を見て、ちゃんと話したい。 たとえ手遅れであっても、俺の気持ちをきちんと伝えたい。 そんなことばかりを考えている状態だったからな。 閉じられたまま動きもせず、中の音を伝えてもくれないドアは、何よりの答えのようにも思えた。 それでも、と思うのは俺のワガママだ。 身勝手なことだと、分かっている。 だけど、それでも、この場から動きたくなかった。 動いてしまったが最後、俺はきっとまた、自分の考えを全て押し隠してしまう。 せっかく気が付いたことさえ、見なかったフリをして。 膝を抱えた俺の前を、知らない誰かが通り過ぎていく。 目をそらしながら、あるいは、じろじろとこちらを見ながら。 邪魔になっていると思っても、動かなかった。 また泣き出しそうになるのを堪えながら、俺は固く目を閉じた。 どうして、この体はこんなに簡単に泣いちまうんだ。 それだけか弱いということなのか、それとも、俺の心まで変えられてしまったせいなのか。 泣くなら、古泉の前で泣いてやる。 泣いて、泣き喚いて、叫んで、駄々を捏ねて、あいつを困らせてやる。 ガチャリとドアノブを捻る音が響いた。 辺りは既に真っ暗になっていたが、マンションの廊下は明るく、そのくせ人の気配が伝わらないのが不気味なくらいだった。 反射的にドアから体を離し、立ち上がると、ドアが開いた。 顔を覗かせたのはハルヒの前では決して見せないだろう、不機嫌な顔をした古泉だった。 「……入ってください」 吐き捨てるような声が耳に痛い。 俺は返事をすることも出来ないまま、小さく頷いて古泉の部屋に入った。 何度も足を踏み入れた部屋なのに、初めて入る場所のように感じられる。 身を縮める俺に、古泉はまるでそうしなければならないと決まっているかのようにコーヒーを出した後、俺の真正面から少しずらした場所に腰を下ろした。 やっと口を開いたかと思うと、 「先ほど、管理会社の方から電話がありまして、」 冷たく響く声にびくりと体が竦む。 「僕の部屋の前で女の子が座り込んでいる、何かあるんじゃないかと苦情が来たという話だったんです。まさかと思いましたが……どうして、帰らなかったんです?」 「…っ、迷惑、かけて、……すまん……」 声はかすれ、震えて、上手く話せなかった。 「あの……」 俯いた俺の手の中にあるコーヒーカップがカタカタと震える。 ぽたんとソーサーに水滴が落ちる。 「な、泣かないでください…!」 古泉の慌てた声を聞きながら、ざまあみろと思ったが、それでも涙は止まらない。 「…こ、いずみ……!」 「…はい」 大きな音が立つのも構わず、俺はコーヒーカップをテーブルの上に置いた。 そうでなければ、投げ落として割ってしまいそうだと思うほど、体が言うことを聞かなかった。 うまく動かせない体を無理矢理に立たせて、腕を伸ばし、古泉の肩に手を置く。 「あ、の……」 大きく見開かれた古泉の目を見つめながら、 「……好き、だ…」 とそれだけを言うのが限界で、俺はそのままその場にくずおれた。 古泉にすがるように膝をついた俺に、古泉は何も言わない。 俺を拒めばいいのに、拒みもしない。 「……好き……って…」 その言葉の意味さえ分からなくなったかのように、古泉はそう呟いた。 怯えるように、俺と同じくらい震える声で。 「あの……本当、に…」 頷き返しながら、俺はしゃくり上げた。 「お前、には、別に好きな奴が、出来たのかも…っ、しれねぇけど…、俺は、お前が……」 「……え」 と呟いたきり、古泉は絶句した。 「……好きな奴、出来たんだろ?」 違ったのか? 「あ、…あなたの方こそ、国木田氏と……」 「国木田…?」 「………違ったん、ですか…?」 ……ああ、そうか。 俺は、無理矢理体を起こし、古泉を抱きしめた。 「誤解、だったんだよな?」 お前は俺のことを好きなままでいてくれて、それなのに、俺が国木田と抱き合ってるのを見て、誤解して。 俺は俺で、お前に誰か好きな相手が出来たと誤解して。 「僕は…あなたが好きです。でも、だから、あなたが国木田氏と付き合うのであれば反対なんて出来なくて、むしろ、それが出来るならあなたにとってもいいことだと……」 「だから、誤解だ。俺は……俺が好きなのは、お前だから……」 そっと背中に回された腕にほっとするくらい。 好きだと言われて嬉しくなるくらい。 「嬉しいです」 そう言った古泉に、こうしてよかったんだと思った。 |