台風といえば夏の風物詩のように思うかもしれないが、実はあれは晩夏から秋にかけてがシーズンのものであることをご存知だろうか。 勿論、七月にも、それどころか六月にだって発生してはいるのだが、そういうのは大抵日本には上陸してこない。 そんなこんなで、とうとう今年ひとつめの台風が上陸してくるという夜、俺は古泉の部屋に上がりこんでいた。 本当は泊まる予定じゃなかったんだが、外の物音が凄くなるにつれて不安の色を深めていく古泉が心配だったのと、古泉もまた、 「こんな天気の中、ひとりで帰るのは危ないですよ。どうしてもと仰るなら僕が送っていきますから」 などと言い出したくらいには俺を心配してくれたらしい。 「んなもん、今度はお前をひとりで帰らせることになるだろ。本末転倒だ。お前がうちに泊まる用意をしてついてくるなら認めないでもないが、それくらいなら俺が泊めてもらった方が二人とも濡れずに済む」 「じゃあ、泊まってくれるんですね」 ほっとしたように笑った古泉に、一瞬言葉を詰まらせた。 そんな可愛く微笑まれて、しかもこんな夜に二人きりとか、危険だということにこいつは気付かないんだろうか。 おそらく気付いてないんだろう。 気付いてたらもっと恥ずかしそうにするとか、恥じらいながら「変なことはしないでくださいね…」とか言うだろうからな。 本当に…こいつは俺のことを散々鈍いとかなんとか言っていた気がするが、こいつだって相当のもんだぞ。 呆れながら、ため息は辛うじて飲み込み、 「泊まっていいか?」 と問い直す。 「はい」 嬉しそうに笑った古泉に、 「こんな天気の晩に一人だと不安だったんだろ」 とからかうような調子で言ってやると、古泉は顔を赤らめ、 「そんなことありませんよ」 と言い張る。 「嘘吐け」 「嘘じゃありません。…ただ、」 古泉は恥じらいに目を伏せながら、か細い声で告げた。 「…あなたとまだ一緒にいられるのが、嬉しいだけです」 「……っ、お前は…!」 あほかとか可愛いとか襲うぞだとか色々言いたいことがありすぎて言葉にならん。 俺は古泉を抱き締め、半ば強引に唇を奪ったが、奪うまでもなくそれは俺のものであり、古泉も一瞬驚きはしたものの、その後は素直に応えてくれる。 作法にのっとって閉じていた目を薄く開くと、長い睫毛が綺麗で白い肌にくっきりとした陰影を落としているのが見えた。 「ん……っ、ふ…ぁ……」 かすかに漏れる吐息も、紅潮した頬も、柔らかな唇の感触も、滑らかな舌やつるつるの歯も、何もかもが愛しくて、気持ちよくて、おかしくなりそうだ。 縋るように俺の腕を掴む古泉の意図は分からない。 やめろと言いたいのかそれとももっととねだっているのか。 やめさせたいにしてはそれは引き止めているような掴み方のようにも思えるが、そう判断すると今度はこっちの理性が崩壊しかねん。 なんとか唇を離すと、古泉は熱っぽくとろんと融けた瞳をこちらに向け、 「んん……もっと…」 などとこちらの理性を試すような言葉を湿度の高い声で囁きやがる。 思わず恨めしく見つめたが、通じないらしく、可愛らしく小首を傾げられ、しかも、 「…だめ…かな……」 と言われて負けた。 求められるままに口付けて、抱き締め合うと、クーラーが効いているはずなのに酷く暑く思えてくる。 溢れた唾液を辿って唇の端を舐めると、くすぐったそうに古泉が体を捩った。 それは別に逃げようとしてもものではないんだろうが、そうと思えなくもないそれで、辛うじて頭が冷えた。 「っ、悪い、」 ぐいっと古泉を引き離して、目をそらす。 「汗かいてるし、先に風呂借りていいか?」 「あ、はい。じゃあ僕、夕食の支度してますね」 「ああ、頼んだ」 「はい」 嬉しそうに笑った古泉には多分気付かれてないだろう。 俺は風呂に逃げ込み、痛いくらいに張り詰めたものを目にして途方に暮れる。 キスをしただけだってのに、これはないだろ。 童貞ってのはこれだから、と第三者めいた調子で考えてもどうにもならん。 どう始末したものか、と思いながらもどうにも出来ず、諦めてシャワーを浴びる。 冷水が心地好いくらいの気候で何よりだ。 いっそのこと抜ければいいんだろうが、恋人がいてそれも虚しい。 冷水を浴びながらぼんやりと数学の公式や古文の活用なんかを思い出し、辛うじて静めた。 こんな状態で泊まっちまって平気なのかね、と思いながら風呂場から上がったのはいいが、そういえば着替えも何もないんだった。 とりあえずバスタオルは使ってもよさそうなのがあったのでそれを借りたものの、さてどうするか。 古泉は料理に一生懸命になってると話しかけてもなかなか気付かないタイプだ。 ここで呼んでも仕方ないだろう。 となると、これしかないな。 俺は使い終わったバスタオルを腰に巻き、そのまま台所に向かう。 ドアを開けるとひんやりとした空気が肌に触れた。 ちょっと冷えすぎたか。 肌寒さを感じながら、せっせと料理に励んでいる古泉の背中に、 「古泉、着替え貸してもらえるか?」 「え?」 ぱっと振り向いた古泉は、かぁっと顔を赤らめて、 「な、あっ、う…」 と訳の分からない声を上げた。 「着替えがなかったんだ」 「あ…すみません、気が利かなくて……。今着替えを用意しますから」 と慌てるが、 「下着だけでもいいぞ。上は着てたのを着てもいいから…」 「汗かいたでしょう? 使ってないのがありますから、着てください」 そう言って古泉はばたばたと出て行った。 俺はというと、それを追いかけて行くのもと思ったのでその場で待機だ。 古泉は何を作ろうとしてたんだろうか、と思って見れば、どうやら今夜は冷し中華らしい。 夏らしくていいな。 焼きあがっていた薄焼き玉子を細く糸状に切る作業の真っ只中だったようだ。 どれ、これくらいなら俺でもやれるだろう。 手早く錦糸卵を作ったところで、古泉が戻ってきた。 「あ……続き、してくださってたんですか」 「おう、これでいいか?」 と見せると、 「ああ、うん、これで十分です」 と笑ってくれた。 畜生可愛い。 「これ、どうぞ」 と差し出された新品の下着と見覚えのあるパジャマを素直に受け取り、 「んじゃ、ちょっと着替えてくるな」 と言って台所を出て、もう一度脱衣所に戻った。 手早く着替えようと思ったのだが、パジャマに袖を通したところで思わず顔がにやけた。 こういうのも恋人だからこそかと思うと、妙に嬉しい。 にやにやしながら台所に戻ると、冷し中華が完成していた。 「お、うまそうだな」 「ありがとうございます」 照れ臭そうに言った古泉を急かしてテーブルにつく。 食事中にあまり喋るのも、と思う口なのか、食事中の古泉は口数が少ない。 それにつられて俺も黙ると、外の嵐の音がよく聞こえた。 「結構激しいな」 ぽつりと呟くと、古泉は頷いておいて、口の中が空になるまで咀嚼し、 「今回は直撃コースというわけでもないはずなんですけどね」 と言った。 つくづくよくしつけられているというか、律儀というか…。 しかしそんなところも当然好ましいわけだ。 にやける俺に、 「なんですか?」 と古泉は不思議そうな顔で言う。 「お前が可愛いなと思ってるだけだ」 「…またそんなことを言って……」 照れ隠しのように呟いた、と思ったのに、なんだろうな。 いつもとはどこか違う気がした。 「どうかしたか?」 「…なんでもないです」 なんでもないなんて様子には見えなかったが、言いたくないだろうことだけは分かったのでそのまま引き下がる。 風の音は強まるばかりで、一晩中騒がしくなりそうだった。 なんだか妙な空気のまま食事を終え、古泉がシャワーを浴びてくる間、俺はソファで寛がせてもらうことになった。 テレビはどこも台風情報が中心で、各地の被害なんかを伝えている。 勿論普通の番組もしてはいるんだが、何をつけたって同じに思えた。 こんな状況で古泉と二人きり、一晩一緒にいるなんて、俺はなにか選択を誤ったんじゃないかとさえ思えてくる。 ぶっちゃけてしまうと、我慢出来るかが正直分からん。 そして、我慢出来なかった場合、あいつに何かしらの無体を強いて、結果としてあいつに嫌われるのが情けないほど恐ろしく思えた。 せめて寝る場所はこのソファにさせてもらおう。 あいつを寝室で寝かせれば、我慢だって出来るはずだ。 「よし、そうしよう」 「何がですか?」 「うわっ!?」 いつの間に風呂から上がったのか、古泉がしっとりと濡れた髪から雫を肩に落としながらそこに立っていた。 「お前…ちゃんと頭を拭け」 思わず古泉が肩に掛けていたタオルを取り、そのまま頭をわしゃわしゃと拭いてやると、 「わ、う、すみません」 とくすぐったくも嬉しそうな声を上げた。 くそ、可愛い。 タオルを動かすたびに、シャンプーのどこか甘い匂いが漂い、収まりきっていなかったらしい燻りを呼び覚ます。 静まれ、落ち着け、と自分に言い聞かせながら、手早く髪を拭き終え、タオルを肩に戻した。 すとんとソファに座りなおすと、古泉がすぐ隣りに腰を下ろし、余計に落ち着かなくなる。 むずむずとどうしたらいいものか考えていると、 「…ねえ、」 なにやら深刻そうな声が聞こえた。 「どうかしたか?」 驚いて隣りを見れば、古泉は泣きそうな顔でうつむいていた。 「どうした」 「…ご迷惑、でしたか……?」 震える声で言った古泉が、潤んだ瞳で俺を見つめる。 「迷惑って……何が…」 「今日、泊まってくださいと言ったこと、です…」 「迷惑じゃない。迷惑な訳ないだろ。俺の方こそ…」 「じゃあどうして、」 ぼろ、と涙が零れる。 なんで泣くんだ。 俺はなにかヘマをしたか? うろたえる俺に、古泉は泣きながら、 「ずっと上の空なんですか…。やっぱり、僕といたって楽しくない…?」 「んな訳あるか」 どうしてそうなったんだ? 首を捻りながら俺は古泉を抱き締めた。 「お前といるだけで楽しいし、お前が笑ってくれたら嬉しい。こんな風に泣かれたら…苦しくてならん」 「ごめ…なさ……」 「謝ってほしいんじゃないから落ち着いて聞け」 俺の方こそよっぽど謝るべきだ。 「え……?」 「…お前とこうしたり、キスしたりするだけでも……俺は物凄く理性を試されるんだぞ」 恨み言のように呟くと、ワンテンポ遅れて理解した古泉の顔に赤味が差す。 「そう…だったんですか…?」 「そうなんだよ」 自分がいつ野獣になるかと思うと気が気でないんだからな。 「……」 「だから、悪いがもう少し離れてくれるか? 今日は本当にまずい」 そうなんとか搾り出したってのに、古泉は俺の肩に頭を擦り付けるようにして、より一層体をくっつけてくる。 「古泉、」 「いい…よ」 か細いがはっきりとした声で告げられて、ぎょっとする。 「……は?」 「…いいって、言った」 恥かしさにか俺の肩に顔を隠したまま、まるで拗ねるような調子で言っておいて、恨めしげに俺を見上げ、 「隠さずに言ってくれたらよかったのに」 「…いや……だが…無理はしなくていいんだぞ?」 「してない」 唇を尖らせて言ったかと思うと、そのまま唇を押し付けるようなキスをされた。 「…最近は、そういう機会があっても全然そんな気配もないから、どうでもよくなったのかとか、他に誰かいるのかなんて、思っちゃったじゃないですか」 不満げに呟く唇は俺のそれと触れ合ったままだ。 「古泉……」 「…好き…だよ」 薄く開いたままの唇が合わさる。 戸惑いの抜け切らない俺を誘うように、滑らかな舌が俺の唇を舐める。 「……したくない…?」 「…っ、んな訳あるか」 吐き捨てるように言って古泉を抱き締め直し、その唇を奪う。 息苦しくなるほど深く口付けて、舌を貪る。 「は…っ、ん……ふ…、うぅ……」 苦しそうな声を上げるくせして、古泉は俺に縋りつき、首に腕を絡めてくる。 「…もっとか?」 少し唇を離して問えば、答える代わりに唇を重ねられる。 熱に浮かされるように求め、貪りあう。 外の嵐はいよいよ強まり、世界から隔離されたような部屋の中で、俺たちは本当に二人きりだった。 |