新学期が始ったと思ったら、古泉が見るからに疲れていた。 何かよっぽど忙しいのか、それとも春休み、あれだけハルヒに振り回されたのが堪えたとでもいうのだろうか。 俺からすると、ハルヒのおかげで春休み中にも古泉と顔を合わせることが出来たのであれはあれで悪くはなかったのだが、古泉にしてみりゃ疲れただけかもな。 それにしても、酷い顔だと思う。 いや、当然のように、いつもの通りの綺麗な造作は保っている。 ただ、いつものそれよりも酷い笑顔だった。 見ていて痛々しく、無理して笑うなと言ってやりたくなるくらいの、引きつった笑み。 顔色が悪いというところまでは行っていないようだが、こいつのことだ、人知れず胃薬なんかを飲んでいても不思議じゃない。 心配になった俺は考えた末、今日は強引にでも古泉の部屋に上がりこもうと決めていた。 だから、並んで一緒に帰っていたのだが、いつもなら分かれる地点で古泉が足を止め、 「それではここで。また明日お会いしましょう」 と言って去ろうとしたから、思わずその肩を掴んだ。 「ちょっと待て」 「なんでしょうか」 その視線が冷たく、いくらか痛いのは、やはり余裕がないからだろう。 俺はそれに負けじと古泉の目を真っ直ぐに見つめて、 「お前ん家、行っていいだろ」 「…嫌です」 きっぱりと答える遠慮のなさは、それだけ親しくなれたということかと思えば嬉しいが、それでも断られるのは嫌なもんだ。 俺は古泉の鼻先に指をつきつけ、 「お前、今日はいつにもましてうまく笑えてないぞ」 と言ってやった。 瞬間、引きつった顔を浮かべながらもすぐさまそれを抑え込んだ器用な男は、 「なんのことでしょうか」 と誤魔化そうとする。 そんなもんが俺に通用するかよ。 「疲れてんだろ。そりゃ、俺に大したことは出来んだろうが、愚痴くらいなら聞いてやれるから、諦めて連れてけ。用事があるっていうならそれが終るまで部屋の外で待ってやる」 それでどうだ、と言った俺が、本気でそうするつもりだと分かったんだろう。 古泉は諦めのような嘆息をして、 「分かりました」 と頷いた。 最初からそうすりゃいいんだ。 一度来たきりだが完璧に道を覚えていたので、古泉の横を歩いて部屋に向かう。 「先日と同様、汚いものですけど」 と言いながら古泉が通してくれた部屋は、前と同様小奇麗なもんだった。 「謙遜もほどほどにしないとイヤミなだけだぞ」 そう言って俺は床の上にかばんを放り出し、勧められるままソファに座る。 「今、お茶を淹れて来ますから、」 「必要ないからお前もこっちに来い」 と強引に呼び寄せ、隣りに座らせる。 じっと身を硬くした古泉に、俺は少しばかり笑みを浮かべて、 「疲れてるんだろ」 「……」 「なんでもいいから、ぶちまけちまえ」 「……言えません」 そう答える声はすでに震えてるってのに、頑固なやつだ。 「俺が聞いたらまずいことなら、聞かなかったことにしてやるし、そうでなくても他言はしない。だから、言っちまっていいんだ」 と言って、古泉の体を引き寄せ、抱き締めた。 一瞬、びくりと震えた古泉だったが、俺を突き飛ばすつもりはないらしい。 震える背中を撫で付けて、 「…泣いていい」 と言ってやると、 「……っふ……ぅ…」 とかすかな声が聞こえてくる。 痙攣するように体を震わせても、声は出さないので、 「声も出していいから」 と言ってやる。 「う……っ、ぁ、あぁ…!」 そうして、子供みたいにわんわん泣きだした古泉を抱き締め、可能な限り優しく撫でてやる。 その泣き声に耳を澄まし、古泉が何か言いたいようだったら聞こうとしながらも、俺は抱き締めた古泉の体温が心地好くてならない。 俺の体にかかる古泉の体重も、俺よりがっしりした体の感触も、気持ちがいい。 泣き止ませたいのかそれともずっとこのままでいてほしいのか分からなくなる。 そんなことを思っていたから、俺は時間の経過など気にせず、腕がだるいとか脚が痺れるとかそういうことも考えずに、ひたすら古泉を抱き締め、撫でまわしていたわけなので、 「…すいません、こんな、長い時間……」 と言って古泉が体を話した時には逆に拍子抜けしたくらいだった。 「脚が痺れたでしょう?」 さて、どうだろうか。 ためしに脚を動かすと、膝から下がまるでマヒしたみたいに感じられた。 それからじわじわとあの独特の痒みが起きる。 うおぉ、と悶絶しそうになっていると、古泉が困ったような顔をしているのが見えたので、慌てて堪える。 男は我慢だ。 「すみません」 申し訳なさそうに言った古泉は、どうやらある程度回復したようだった。 愚痴も何も聞こえなかったが、泣いただけでもすっきりしたのだろう。 「もう大丈夫か?」 と念のため聞いてやると、恥かしそうにかすかに頬を赤く染め、 「は、はい。お世話になりました」 「つっても…大したことをしたような気はしないんだがな」 むしろこっちがごちそうさまと言うか。 「いえ、とても助かりました」 そう言って、古泉は困ったような苦笑を浮かべて、少しだけ俯いた。 「…僕はどうも、ストレスの発散がうまくないのだそうです。つい、溜め込んでしまって……」 それなら、これまではどうしていたんだ? 首を捻った胸の中で何かがちりりと痛む。 俺じゃない、他の誰かに慰めてもらったり、発散させてもらったりしていたんだろうか。 それは誰なんだ? 機関の誰かあたりなんだろうが、俺の知る誰かなんだろうか。 余計なことを考えるほどに胸の中のそれは酷く痛む。 思わず眉を寄せた俺に、古泉は俯き加減のままで答えた。 「だから、ある意味では、涼宮さんのおかげで助かっていたんです。閉鎖空間ではどれだけ暴れても実害は出ませんし、そうでなくても、彼女に振り回されて色々なことに挑戦していると、ストレスなんてどこかに行ってしまいますからね」 なるほど、あの空間が古泉の役に立つということもあったというわけか。 うん? ということは、 「もしかして、それでストレスを蓄積させてたのか?」 「…そう、ですね。このところ、涼宮さんが大人しくされていますし……」 「…だが、それならもし、いつかハルヒのあの妙な力がなくなったりしたら、お前はどうするんだ?」 「仰る通りです。彼女の力がいつかなくなるという可能性は十分ありますし、そうなったら閉鎖空間も発生しないでしょう。僕は改めて、自分自身に向き合わねばならなくなりますね」 「だったら、とりあえずこうするのはどうだ? 今日みたいに、俺に泣きつくんだ」 「……え…?」 戸惑いの声を上げる古泉に、俺はよく聞けよ、と言葉を紡ぐ。 「泣きたくなったら誰かに愚痴ったりするのもストレス発散の方法のひとつだろ。お前には世話になってることだし、それくらいでいいなら、俺が付き合ってやってもいい」 我ながらどうしてこう素直な物言いが出来ないのかと嘆きたくなりながらも、辛うじてそう言ってみた。 すると古泉はどういうわけかくしゃりと顔を歪めて、 「…他の人にも、そんなに優しいんでしょう?」 と言う。 「誤解するなよ。誓って言うが、他の奴にこんなことを言ったことは一度もない」 「そう…なんですか?」 疑うように見つめてくる古泉に、俺ははっきりと、 「ああ。だから、…お前にだけ特別に空けておいてやるから、泣きたいくらい辛くなったりしたら、俺のところに来るか、俺を呼びつけるかすりゃあいい。…いつでもいいから、遠慮なくそうしろ」 「……どうして、そんなに優しいんです?」 「そりゃ……」 困惑に満ちた顔で問われ、俺は答えに窮する。 どう答えるのがいいかと悩んだ挙句、俺は嘘ではないが真実でもない答えを選ぶことにし、 「…お前の泣き顔が可愛いからだろ」 と言ってやった。 「な……、何言うんですか…!」 と言った古泉の顔が真っ赤だ。 いい歳をしてそんなことを言われると思いもしなかったのか、驚きに満ちた顔は珍しいものですらある。 俺はにやにやとそれを見つめながら、 「事実だろ」 「そんなことありません!」 「少なくとも、澄ました顔をしてるよりはずっと可愛い」 「ああもう、あなたと来たら……」 俺がなんだというのかよく分からんが、古泉はそう嘆かわしげに頭を抱えて顔を隠したが、 「耳が真っ赤だぞ」 「…言わないでください……」 俺より図体の大きいのがそうして縮こまっているのは本当に可愛くて、そう口走りそうになるのを堪える。 これ以上言ったら古泉がこのまま消え入りそうなほどに恥かしがっていたからだ。 そうじゃなかったら、この何倍も言っていただろう。 それくらい、俺にとっては古泉が可愛くて、愛しくて、ああやっぱり好きだなとどこか悠長なことを思った。 |