予想外にもほどがあるんじゃないかと言いたくなるような展開にたびたび襲われている俺ではあるが、それにしたってこれはないと泣きわめいてやりたくなる瞬間だってある。 そんなことは滅多にないが、だからこそ、よっぽどのことだということなんだろう。 それに、少なくとも、そうやっていくら憤慨してもどうしようもないということだけはしっかりと学習しちまっている。 適応能力の高さには、よくも悪くも折り紙付きだ。 にしたって……本当に、なんでこんなことになるんだろうな。 突然世界を飛んでしまったらしい俺は、いきなり外に放り出されたことに呆然としていたのだが、目の前の桜から、 「…来てくれたのか」 と声がしたのには、それ以上に驚かされた。 ぎょっとする俺の目の前で、桜がかすかな光を放ったかと思うと、桜の幹をすり抜けるかのように、何者かが現れた。 そいつはちょうど今日、古泉が買った参考書に載っていたような服を着ていた。 ええと、水干って言うのか? それとも狩衣か? 俺には区別がつかんが、まあとにかくそういう恰好だ。 頭には一応烏帽子が乗っている。 が、そういう一部のマニアには受けそうな服装だってのに、残念ながらそいつの顔は俺と全く同じだった。 これでは受けるものも受けないだろう。 「いきなり呼び付けて悪かった」 とそいつは俺と同じ声で謝った。 「迷惑だろうが、ちょっと付き合ってくれないか? もう、他に手だてがないんだ」 そう言われたら断ることも出来ないとは思うんだが、 「その前に、状況を説明してくれないか?」 俺が言うと、切羽詰まった様子だったそいつも、 「すまん」 と言ってちょっと笑った。 「俺は、この桜の木の精なんだ」 と登場からして人間離れしていたそいつは自己紹介した。 「もう何百年かここにいて、この町を見守ってる。…だが、最近はここらも開発が進んでてな。随分暮らしにくくなったもんだ」 そう言いながら、ぽつぽつと明かりの灯った町を見つめる目は優しい。 「俺は幸い、この通り町外れにいるし、桜ってだけである程度は守ってもらえるから安全なんだが、そうはいかない木があっちにあるんだ」 そう言って町の中心に近い、小高い丘の上を手にしていた扇子で指した。 もう随分と暗くなっていて分かり辛いが、明かりが灯っていないことでその形は分かった。 「あの丘の上に、橘の木がひとつある。俺と同じく、この町を守ってきた木だ。だが、それもどうやら役目を終えて、明日にも切り倒されるらしい。助けて欲しいってのは、そいつのことだ」 「ええと……切り倒されないように、ってことか?」 「ああ。…だが、それは難しいだろうってことは俺にもよく分かってる。だからせめて、それが無理なら、せめて、一枝だけでももらってきてほしいんだ。……俺が自分で行ければいいんだろうが、昔のように木が多い頃ならいざしらず、今は難しくてな」 なんだそりゃ、よく分からんな。 「そんなことでいいのか?」 「ああ。……頼む」 そう言ったそいつの表情は本当に切実そうで、その木だか枝だかが酷く大切なものなんだろうと分かった。 「…分かった。明日、なのか?」 「そうだ。だから、明日の昼までには帰してやれるとは思うから、」 「どうせ休みだから、気にすんな」 そいつはほっとしたように笑って、 「すまんが、よろしく頼む」 俺はそれに送り出されて、その桜の木のある丘を下り始めた。 どうやら、あの立派な桜の木はそれなりに親しまれているらしく、綺麗な遊歩道が整備されていて、迷うこともなければ暗い道に悩まされることもなく、麓まで下りられた。 桜の精があんな姿で出てきたのでよっぽど違う世界なんだろうかと思ったが、町の様子を見た限りそうでもないらしい。 多少、時代を遡ったような感覚に陥りそうな気もしてくるが、つまりはその程度の違いしかない。 なんていうか……某アニメ映画の世界だな。 高度経済成長期を背景に、開発が進み、自然が壊されて行ってる、ってところだろうか。 言ってみたら未来から来たかのような存在である俺が、どことなく懐かしい匂いのする町を歩いていても、大して奇異に思われないらしい。 シンプルな私服でよかった。 歩きながら、自分が携帯さえ持っていないことに気付いたが、今更どうしようもない。 とりあえず危険はなさそうだから大丈夫だろうと、間違いなく心配しまくってくれているだろう古泉に内心で詫びる。 そんな調子でゆっくり歩いて、一時間もなかったと思うのだが、たどり着いたもうひとつの丘は、なかなかに上りづらそうだった。 道はろくに整備されてないので真っ暗だし、泥の剥き出しになった斜面に轍が刻まれている程度だし、おまけに半ば丸裸にされつつあるらしい。 上り口辺りに立っていた看板によると、ここの木を切り倒して分譲住宅地になるようだ。 その斜面をえっちらおっちら上って行くと、その山頂部には、やはりなかなか見事な木があった。 常緑樹らしく、いくらか硬い葉を広げ、広がったそれこそ、桜の精の言った橘の木なんだろう。 夜闇に映える白く小さな花もちらほら咲いていた。 しかし、いきなり来た、事情も分かってない奴が何か言って止められるんだろうか。 考えながら、その橘の下に腰を下ろそうとした時、木が淡い光を放った。 まさか、いや、やはり、か。 驚く俺の目の前に、先ほどと同じような要領で、人影が現れる。 桜の精と同じような服装をした男は、古泉とそっくり同じ姿をしていた。 そいつは、俺を見るなりため息を吐いて、 「……彼は本当にしてしまったんですね」 「…は?」 「してほしくはなかったのですが、仕方ありません。……あなたを巻き込んでしまってすみません」 と言ってそいつは深々と頭を下げた。 「どうか、無茶はしないでください」 「…よく分からんが……」 「あの方はあなたに説明してないんですか?」 「俺が知ってるのは、お前が明日には切り倒されそうだってことくらいで、それをなんとか止めるか、万が一それが駄目なら、一枝でいいからもらってきてほしいと頼まれたくらいだ」 「そうでしたか」 困ったように苦笑して、 「それでは、今夜は時間がありますね。暇潰しに、雑談にでも付き合っていただけませんか?」 「構わんが……」 のんびりしていていいんだろうか。 「いいんですよ。どうせ、人が来るのは明日の朝でしょうから」 そう言ってそいつは地面に腰を下ろし、本体なんだろう木の枝に手を伸ばした。 それに応えるように枝が動いたかと思うと、そこにあった花が見る間に実となり、その手に落ちる。 「お腹も空くでしょうから、よろしければどうぞ」 「あ、ああ…」 受け取りながら、俺もそいつの隣に腰を下ろした。 橘、というよりは蜜柑だな。 鮮やかなオレンジ色の実を手の中で少し転がしながら、俺は小さな声で尋ねた。 「あの、桜の精とどういう関係なんだ?」 橘の精は小さく、くすぐったそうに笑って、 「彼とは、ある意味では兄弟のようなものなんです。初めてこの町が拓かれた頃に、その象徴として、更には鎮守のためにあちらの丘とこちらの丘に揃って植えられたのがそもそもの始まりです。それから随分長い間、共にこの町を見守ってきました。祭の日などは、僕たちの力も強まるので、人に紛れて祭を楽しんだりしましたし、そうでなくても逢瀬を交わすことも出来ました。……桜と橘という、種の違いはありましたけど、僕は彼が愛しいし、彼も僕を愛してくれてます」 やっぱりそうなのか、と思いながら、何かしら違和感を覚えた。 そんなことを言っているそいつの顔が酷く苦しげで、その声も切なく響いたからだ。 「……お前はもう諦めてるのか」 俺が聞くと、そいつは苦笑を見せた。 「あなたや彼には怒られそうですけどね。…僕としては、いいんです。もう長いこと生きてきましたし、僕の役割が必要なくなるほどこの町が繁栄したことは喜ばしくも思えるのです。もし、彼も切り倒されるというならもう少し慌てたかも知れませんし、足掻こうとしたかもしれませんが、彼はどうやらこのまま守り続けられるようですし、それなら僕は安心して逝けると思うんです」 「…っ、お前はそれでいいかもしれんが、残される方は堪ったもんじゃないぞ!? それともお前は、惚れた相手を悲しませて平気なのか!?」 「彼はそんなに弱くありませんよ」 自分を卑下するでなく、そいつは言った。 「だから、枝を持ってくるように言ったんでしょう」 「は……?」 「そうなんですよ」 そう言って、そいつは笑った。 「僕はむしろ、そうなった方が嬉しいのかも知れません。それが実現可能ならば、ですけれど」 「意味が分からん。ちゃんと説明してくれ」 「出来ません」 なんだと? 「聞いたらきっとあなたは怒るかどうかするでしょう。そうしてここからいなくなられたら困るんです。ですから知りたければあの方に聞いてください」 そう言って、そいつはそれ以上そのことについては何ひとつ説明してくれようとはしなかった。 ただ、そのほかのことについては饒舌だった。 「最近は、風に声を載せて会話を交わすくらいしか出来ないのです。……彼は元気そうでしたか?」 「ああ、多分な」 「それは何よりです」 にこにこと呟いておいて、そいつは少しばかりため息を吐き出し、 「…会いたいですね」 「会いに行けよ」 「そうですね。……出来るものなら」 そんな風に話しながら夜を明かした。 空腹を覚えれば橘の精が自分の実をくれ、それは不思議と腹が膨れるものだった。 橘にしては甘くて、それでも酸っぱいその実の味に、なぜだか涙が出そうになったのは、俺もこれがどうにもならないことが分かっていたからかもしれない。 前夜の寝不足がたたって、屋外だというのに橘の木の下で、橘の精に守られるような形で軽く眠った俺を起こしたのは、けたたましいチェーンソーの音や大型車両の乗り込んでくる音だった。 俺は立ち上がり、なんとしてでも守るという気持ちでそれを待ち受けていた。 姿を現さない橘の精がそれを望んでないということは分かってはいたが、それでも、古泉と同じ姿形をした、おそらくはこの世界の古泉なんだろうそいつが目の前でむざむざと殺される姿なんて、俺は見たくなかった。 「おい、ここは立入禁止だと書いてあっただろう。危ないから帰りなさい」 作業着のオッサンに言われて、俺は首を振った。 「この木を切るのはやめてください」 「やめろって言われてもな、」 「せめて、この木一本だけでも残してほしいんです。他の場所に、向こうの丘に移すことくらい、出来るでしょう? どうか、お願いします」 そう言って、俺はその木にしがみついた。 そうすりゃ、強引に切られはしないだろうと。 オッサンは困った顔で現場監督らしいのを呼んでくる。 それに、同じ言葉を繰り返そうとした時だった。 ふっと俺の体が軽くなり、不可思議な感覚に包まれた。 自分が自分でないような、と思ったのは間違いじゃなかったらしい。 「やめろ」 俺の口が勝手に言葉を紡ぐ。 「この木がなんのためにあるものか、本当にお前らは忘れてしまったのか?」 今しゃべっているのは俺じゃない。 あの桜の精だ。 「この木は鎮守の木だ。この丘を守り、この町を守っている。この木を切り倒せば、何が起こるか分からんぞ」 「何を……」 ざわめく工事のオッサン連中にも怖気づかず、はっきりと桜の精は告げる。 「この木を切らずにおいた方がお前らの身のためだ。それが信じられないと言うなら、好きにしろ。ただ、」 と桜の精は手を伸ばし、愛しげに橘の枝に触れた。 「この一枝はもらっていく」 そう言った瞬間、橘の精が姿を現した。 それが、他の奴等にも見えているのかは分からない。 ただ、俺にははっきりと見えていた。 「随分と無茶をしましたね」 「どこがだ」 憤然と桜の精は答える。 「これくらい、何が無茶だってんだ。無茶ってのは、こいつらを地面に沈めて、その上でお前を飛梅よろしく俺の側まで掻っ攫うような真似を言うんだ」 「お願いですからそれはやめてくださいね? あまりに力を使ってしまっては、あなたの体が持ちません」 心配そうに言う橘の精に、桜の精は頷いた。 「だから、……一枝寄越せ」 「…難しく、危険なことだと分かってますよね?」 「ああ。そんでもって、お前が俺を危ない目に合わせるくらいなら自分を犠牲にするタチだってこともな。だが、こればっかりは譲れん」 「……ありがとうございます」 その腕が、俺の体を抱き締める。 いや、抱き締めているのは桜の精なのだろう。 愛しげで、それでいて熱のこもった強さに、泣きそうになった。 それが最後の抱擁だと、俺にさえ分かったからかもしれないし、あるいは、泣きそうになったのは、どうやら無断で俺の体を使っているらしい、桜の精の方なのかもしれない。 古泉は袂からひとつの小柄を取り出した。 引き抜いたその白銀の刀身を小指の先に当て、躊躇うこともなく切り落とすと、そこからは血ではなく透明な樹液が滴り落ちる。 「これを、彼の元へ」 と言ったということは、俺にあてた言葉だったのだろう。 目の前で指を切り落とされて驚く俺に、その小柄と指先とを渡す。 「急いでください。もう間もなく、僕は切り倒されます。ですから、それまでにせめて、この丘から出てください」 その言葉に弾かれるように、俺は駆け出す。 もしかしたら、それも橘の精の力によるものだったのかもしれない。 訳が分からないまま駆け出し、真っ直ぐに桜の精の木を目指す。 他の何も俺の目に入らず、耳にも入らなかった。 走りながら、涙が溢れてきて止まらなくなった。 どうしてだか、分かった。 あいつは死んじまったんだと。 泣きじゃくりながら、全速力で走りに走って、そうして桜の木の下に身を投げた。 「お疲れさん」 そう言って、桜の精は迎えてくれた。 「ありがとな」 「…あんな、んで…っ、よかったのかよ……」 荒い呼吸が落ち着くのを待つ余裕もなく、切れ切れにそう吐き出すと、桜の精は小さく笑った。 「ああ。……最後にあいつとまた会えた。それに、お前はちゃんとほしいものをもらってきてくれたからな」 桜の精は手を伸ばし、俺が必死になって抱え込んでいたものをそっと取り上げた。 酷く愛しげに取り上げたものは、小柄と枝だった。 「…あ、れ……? さっき、まで……指、だった、だろ…」 「ああ。……あいつが、死んだんだ」 見ろ、と桜の精は町の方を指差した。 俺はぜえぜえ言いながら体を起こし、そして、驚きに目を見張った。 「丘が……ない…!?」 あるのは、崩れ落ちた土砂の山で、それはとても丘なんて呼べるものではなかった。 結構な騒ぎになっているのか、ここまで救急車のサイレンや人のざわめきめいたものが聞こえてくる。 「言っただろう? あいつは鎮守なんだって」 そう、桜の精はどこか酷薄に微笑した。 「あいつがあの丘を守っていた。それを切り倒したんだ。崩れたって何も不思議じゃないだろう?」 「そう……だったのか…」 呆然とする俺に、桜の精は少しばかり申し訳なさそうな顔をしておいて、 「悪いが、俺は人じゃないからな。…あいつを殺した人間がいくら死のうが傷つこうが、知るものか。いや、その生き死にさえ、どうだっていい」 今はそれ以上に大切なことがある、と桜の精は自分の袂から、橘の精が持っていたそれとよく似た小柄を取り出した。 「これは、俺たちの友人だった長門が俺たちの枝を使って、揃いで作ってくれたんだ」 引き抜かれた刀身はやはり綺麗な白銀で、それに見惚れている間に、桜の精は躊躇いもなくそれを自らの腹に突き立てた。 「なっ……!?」 何するんだ、と驚く俺に、 「別に自殺したいわけじゃないさ」 とそいつは平気な顔で笑った。 「ただ、こうでもしなきゃ出来ないことがあるんでな」 その腹に、そいつは橘の精の枝を埋める。 「…っく……う、ぐ…」 呻きながら、それでもそうして埋め込んでしまうと、そいつの腹が膨らんだ。 どういうことだ、と戸惑いながら本体の木を見ると、深く傷ついた幹に、橘の枝が瑞々しく光っていた。 接木したってことなのか? 「ああ、そうだ」 「だが、そんなことしても種類が違うんじゃ……」 「分かってる。だめになるだけかも知れん。だが、俺とあいつじゃ種類が違いすぎて、子供を残すことも出来ない。それなら、せめてあいつをこうして育てなおしてやるしかないだろ?」 そう、幸せそうに桜の精は笑った。 「こんな小さな枝だ。あいつの記憶をどれほど引き継いでくれてるかも分からん。育つうちに全然違うものになるかも知れん。それでも俺は、俺のために、あいつを留めておきたいんだ」 そう言って、愛しげにその腹を抱える。 「ああ……嬉しいな。これでもう、見えるのに会いにも行けやしねえことを恨むこともなくなる。もう、こいつを離しやしない……」 幸せそうに呟き、そいつはそれからやっと俺を見た。 「本当に、ありがとな。礼と言っちゃなんだが、これをもらってくれるか?」 そう言って差し出したのは、揃いの小柄だった。 「大事なものなんだろ。礼なんか要らんから、お前が取っとけよ」 「いや、お前がもらってくれ。俺にはもう要らないんだ。俺はもう、あいつと、自分の分身を分け合う必要がなくなったんだからな」 だから、と俺に二つの小柄を押し付けた。 俺は本体の方と桜の精の方とを見比べながら、尋ねる。 「…育てられそうか?」 「育ててみせるさ。だから、……いつか、見に来てくれ」 「……ああ、絶対、見に来るからな」 そう約束した俺の鼻先を、かすかな香りがくすぐる。 そうか、桜の香りだったのかと思った時にはくしゃみが出ていた。 |