正直言って、テンパっているとしか言いようがない状況に俺は陥ったのだと思う。 何をどうしたらいいのかさっぱり分からんし、そもそもどうするのがいいなんて正解があるとも思えない。 よって、混乱の極みにあった俺は、後々まで深く後悔するような事態に見舞われたのだ。 それがもし、運命だとか言うもので、それを弄んで楽しんでいる性悪な神様とやらがいるのだとしたら、俺は断固として苦情を申し立てたい。 古泉との初デートのその日、待ち合わせ場所に現れた俺は本当に酷い出で立ちだった。 なにしろ、目の下にはくっきりとくまをこさえているし、そのくせ顔は赤面症のように赤く、手足は緊張に震えていたのだから。 古泉はいつも通りの笑みを浮かべて、 「おはようございます。早かったんですね」 と言っておいて、その眉を下げ、 「…あの、大丈夫ですか? なんだか顔色がよくないみたいですよ?」 と心配してくれたのはいいが、俺は必死になって頭を振った。 それこそ、目眩がしそうなくらいに。 そのせいでよろけそうになる俺を、古泉は親切で支えてくれ、 「本当ですか?」 と俺の顔を覗き込んでくれたってのに、反射的にそれを振りほどいた。 「っ、」 しまった、と思っても遅い。 古泉が一瞬見せた呆然とした顔と、それを俺にさらして負担にさせまいと気遣ってか、すぐになんでもない顔を取り繕うのに、ずきりと胸が痛んだ。 「わる、い……」 「いえ、思ったより元気なようで安心しました」 そう微笑んで、それでも古泉は慎重に、 「…大丈夫なんですね? 僕としても、あなたとのデートは楽しみでなりませんが、無理をしてほしくはないので、遠慮せずに言ってくださいよ? それに、」 と古泉はわざとらしく偽悪的な笑みを見せ、 「あなたの体調が悪いなら、看病と称してあなたとふたりきりで過ごすのも楽しいでしょうから」 「…あほか」 毒づいて、俺は古泉の手をとる。 「買い物、行くんだろ。何がいるんだった?」 そう、いくらかでも強引に歩き出してしまえば、どうやら基本的にイエスマンであれるらしい古泉は、苦笑しながらも大人しくついてくる。 それにほっとしながら、返事を待つ俺に、古泉は思案するような感じで、 「ええ、ほしいのは古文の参考書なんです。でも、せっかくですから色々見て歩きましょう」 囁くように言って、さりげなく俺を追い越した古泉が、今度は俺をエスコートするような形になる。 こういう扱いを、くすぐったく思いながらも、間違いなく嬉しく思うようになったのは、一体いつ頃だったんだろうな。 最初は自分の中にある古泉への好意に、ちらとも気づかなかったくせに。 それでも、今はこれだけ嬉しいんだ。 意地や見栄を張ったりせず、素直でいよう。 俺は小さく笑って、 「じゃあまずは本屋か」 「途中で気になるお店があったら入ってみましょう。僕としては、」 と古泉は内緒話をするように声をひそめ、さりげなく俺の耳に唇を寄せて、 「少しでも引き延ばしたいんです。あなたと二人で過ごせる、この貴重な時間を」 「っ…ば…っか!」 瞬時に顔を真っ赤に染めて、俺は飛びのいた。 「おまっ…なんで、こんな往来でそういうこと言えるんだよ……!」 「ふふ、すみません。やはり、恋は盲目というのは真理を突いているのでしょうね。……こんな場所なのに、僕が気になるのはあなたの反応くらいなんですよ」 「だからっ、恥ずかしげもなくそういうこと言うなっての」 「だって、言うほど可愛らしいあなたを見られるので、止まらないんですよ」 と笑う古泉は案外人が悪い。 だが、まあ、機嫌はいいようで何よりだ。 だからってんじゃないが、俺は少しでも仕返しをしてやりたくて、軽く古泉のシャツの袖を引っ張ると、 「…あんまりいじめるなよ」 と古泉にしか聞こえないように小声で囁いた。 正直、効果があるのか分からなかったのだが、そうやって拗ねたように文句を言ってみるというのは案外効くらしい。 古泉はさっきの俺に負けないくらいの早さで顔を赤く染め、絶句した。 まじまじとこっちを見つめる目が、戸惑うようにきょときょとしていて、 「…なんか可愛いな、お前」 と笑えた。 「あっ、あなたって人は……!」 苦情らしいものを言い立てておいて言葉を濁らせる古泉に、 「俺がなんだって?」 と聞く。 返ってくるのはどこか怨みがましい視線だ。 「…分かってて聞いてるんでしょう?」 「…何をだ?」 「……分かってないんですか?」 「だから何を」 主語をはっきりさせてくれ。 日本語ってのは確かに、曖昧な表現が許され、むしろ尊重される言語だとは思うが、あまりぼかされちゃ理解出来ない。 そういう曖昧な会話を成立させたいなら、俺にもうちょっと経験値をよこせ。 「経験値…ですか?」 「ああ。お前が何を考えてるのか分かるくらいになるまで待ってくれってことだ」 そう言って、俺は軽く頭を掻き、 「…嫌か?」 と照れ隠し半分で聞いたら、いきなり手を握り締められた。 「古泉っ?」 「本当にあなたときたら…、心配過ぎますよ。無防備にそんなことを言って僕を舞い上がらせて……。危ない目に遭ったらどうするんです?」 「危ない目って言っても、お前がいたら平気だろ? それともお前が危ないって話しなのか?」 冗談のつもりで言った後半部分に、盛大に頷かれて驚いた。 「なんだそりゃ」 「それくらい、あなたがそうやって素直にされてると威力が高いってことですよ。僕に長生きしてほしいのでしたら、もう少し小出しにしてください」 小出しにって。 「全然ないのは寂しいですよ。でも、連発されるとそれだけで心臓が止まってしまいそうなので、」 小出しにってことか。 よく分からんが、 「嫌ではないんだな?」 「嫌なはずありませんよ」 ならいい、と俺は笑って、 「とりあえずこれでひとつ覚えたぞ」 「っ、覚えたなら実行してくださいよ…!」 いまひとつよく分からんやつめ。 「お前の方こそ、嬉しいなら素直に喜んでりゃいいんだ」 「か…勘弁してください」 降参したらしいから許してやる。 「ええもう僕の負けでもなんでもいいですから、これ以上のお誘いは出来れば他に誰もいないところでお願いします」 「んなっ……!?」 「あれ? お誘いじゃなかったんですか?」 そう意地悪く笑うので、 「もうひとつ覚えたぞ」 「何をでしょうか」 「お前は案外負けず嫌いだってことを、だ」 むくれて言った俺に、古泉は軽やかな笑い声を立てて、 「そうですね、おっしゃる通りかと」 と悪びれもせずに肯定した。 この野郎。 「俺だって、お前のことおたおたさせてみたいとか思うってのに……」 俺がそうぶつくさ言うと、古泉は何やら笑顔のままで微妙に硬直した。 「……なんだよ」 そんなにおかしな発言だったか? 「…ええと、俺だって、なんて言うってことはあなたもおたついたりしてるつもりなんですかとも、僕は十分あなたの一挙手一投足に振り回されてますとも申し上げたいんですけど、それ以上に、」 と古泉は困ったような顔をして、 「…本当に、お願いですから、あまり煽らないでください。これじゃ、いじめられてるのは僕の方ですよ」 …煽れてるのか。 なるほど、 「つまり、お前も案外簡単なんだな」 「人をなんだと思ってるんですか……」 と嘆息する古泉には悪いが、それは俺にとっては嬉しい情報だぞ。 古泉も俺と同じなんだって思えるからな。 にまにま笑う俺に、これ以上言っても無駄だとやっと悟ったのか、古泉はどこかふて腐れたような顔のまま、俺の手を引っ張り、 「ほら、ちゃんと付き合ってください」 と俺を本屋に引っ張りこんだ。 古文は得意じゃないと言う割に故事には詳しい古泉と、無駄な知識は多くても試験で役立つ知識に乏しい俺とが、二人して古文の参考書なんて読み比べ始めたらどうなるか。 …そりゃ、雑学と薀蓄のオンパレードに決まってる。 ぱらっとめくったページにたまたま、枕草子なんて載ってれば、 「古文の読解は苦手ですけど、この時代には結構興味があるんですよね」 と言い出し、 「平安時代が好きか?」 「と言いますか、……一夫多妻、しかも通い婚ってどうなんでしょうね?」 と爆弾を投下する。 「はぁ!?」 「僕だったら、我慢出来ないと思うんですよ」 という古泉の言葉にぎょっとしていたら、 「自分の大切な人のところに他の誰かも通ってたら、なんて、絶対に嫌です。僕ならさっさと家に連れて帰りますよ」 と言われ、ほっとした。 「それは、まあ、俺もそうだな。だが、そもそもそんな浮気性な相手じゃ好きにならんというような気もする」 「ああ、では安心してください。僕は一途ですから」 なんて小声で囁き、古泉はウィンクをよこした。 「あほか」 にやけてくるのをただの笑いだと誤魔化し、 「そうじゃなきゃ、付き合ってなんかやらん」 と強がるように言うと、古泉はからかったり、嫌がったりすることもなく、むしろ嬉しそうに笑うのだ。 そんな調子で、本屋だけでなく、ゲーセンやらホビーショップやらあちこち歩き回ったのだが、その間ずっといい雰囲気だったと思う。 俺がドラッグストアでびくついたりして挙動不審になったのは、先日の狂行のせいだが、それもなんとか誤魔化せたはずだしな。 それなのに、だ。 ……なんで俺は古泉の、つまりは一人暮らしの恋人の部屋のソファでのんびりと横になってテレビなんぞ見てるんだろうね。 ちなみに時刻はすでに遅く、そろそろうちの親も寝ちまうような頃である。 夕食は古泉の部屋で、狭いキッチンで肩を並べて作ったのだが、なかなかうまく出来たと思う。 それだけしてるのに、なんでこうなんだ。 古泉が笑ってくれたり、甘ったるいことを言ってくる時とは違う感じで、胸の中がじくりと熱くなる。 ついでのように涙腺も熱を持ちそうになるが、それは避けたい。 そう思いながら、すぐ側にある古泉の膝ににじり寄るようにして頭を近づけると、ふわりと優しく撫でられた。 「眠くなりました?」 …違う。 「…ねえ、やっぱり何かあったんじゃないですか? 今日はなんだかおかしいですよ」 「そう言うお前はいつも通りだな」 ……なんか、俺の方が馬鹿みたいじゃないか。 せっかく覚悟して来たってのに、古泉にそのつもりはないらしいし、そもそも意識してるのかさえ怪しい。 ここが自分のホームグラウンドだと思ってか、外でとは比較にならないほど落ち着いていて、少しもおたつかないのが非常に面白くない。 …そりゃ、俺だって、本気で覚悟出来てた訳ではないから、その方がありがたいのかも知れないが、それにしたって、面白くない。 なんと言ったらいいんだろうか。 別に期待していたというほどでもないのだが、予想していたのと大幅に違った状況になると、たいていの人間はこういう気持ちになるんじゃないのか? もやもやして、むしゃくしゃして、もはや擬態語なんかでも足りないくらい、自分で自分の精神状態を言い表せない。 だから俺は言語という、高度に文明化されているために非常に扱いづらいツールを放棄して、より原始的であるがゆえに、言語化し難いものも伝わることを期待して、言語以外のツールに頼ることにしてみた。 要するに、古泉に抱き着いたという訳だ。 「あっ、あのっ…!?」 いきなり腰にまとわりつかれた古泉が戸惑いの声を上げるが、知ったことか。 「うるさい、何も言うな」 「……そんなことを言われても、」 困惑しきった声で古泉は言った。 「こんなことをされたら、困ります」 「なっ…!」 一瞬で頭に血が上るかと思ったが、すぐにふわりと頭を撫でられ、優しく見つめられて、少し抑えられる。 「誤解しないでください。……我慢出来なくなりそうで、困るんです」 そう言う眼差しは優しく、頭を撫でてくれている手つきも、そんな欲求とは無縁に見えるんだが、 「我慢なんかしてるのか?」 「してますよ。…ものすごく」 恥ずかしそうに付け加えられた言葉と、ほんのりと頬を染めたはにかむようなその表情に、胸の中で何かが震える。 それが何か、恋情なのか劣情なのかはたまた加虐心にも似た別の何かなのかさえ、俺には分からない。 だが、なんだか酷く堪らない気持ちになって、 「我慢なんか、」 しなくていい、と言おうとした、まさにその瞬間だった。 『助けてくれ』 声が、した。 「あん?」 せっかくいい雰囲気だったってのに、と思いながら、俺が眉を寄せ、顔を上げると、古泉は怪訝な顔で、 「あの…どうされたんです?」 と言う。 「いや、今、なんか声が聞こえた気がして……。気のせいか?」 「僕には聞こえませんでしたが……」 「…じゃあ、気のせいかね」 改めて、古泉を抱き締め直そうとしたってのに、その邪魔をするように、再び、 『頼むから、助けてくれ…』 と泣き出しそうな声が届く。 一体誰だ。 訝りながら俺は体を起こし、古泉から離れる。 「聞こえるんですか?」 「ああ。空耳にしちゃはっきりしてるんだが……お前には聞こえないのか」 「ええ、全く」 「じゃあ、もしかすると、」 と俺がその考えを口にするより早く、それは現実となったらしい。 何かの香りがふわりと鼻先をくすぐったかと思うと、くしゃみが出ていた。 すっかり慣れっこになった、と言いたいところだが、全く慣れることの出来ない不快な目眩に襲われ、気づいた時には外にいた。 目の前には、すっかり葉桜になってはいるがなかなか見事な桜の木。 「…なんでこうなるんだ」 とりあえず、最中でなかったことを喜べるような余裕など、俺にはなかった。 |