覚悟を決める時ってのはどういう時であるべきなのか、俺にはちょっとばかり見当もつかないのだが、この道の先達に言わせると今こそがその時らしいので、精々覚悟を決めておきたいと思うのだが、いかんせん、元々そんなに度胸がある方ではないのでこのまま敵前逃亡を図りたいくらいの気分に陥っている。 それでも逃げないのが誰のためか、と言うと、非常に恥ずかしいことになるので黙っておきたい。 俺にだってプライドはある。 その晩、俺はとある相談があって、例によって例の如く、学ラン古泉のいるあの世界のキョンに電話をかけていた。 相談、とは正確には言いかねるのかもしれない。 先日キョンに叱られたのもあって、あまり頼るのはやめようと思ったから、聞くことはほんの少しだけだし、それも、判断を仰ぎたいわけじゃない。 ただ、参考までにキョンたちのことを聞きたいだけなのだ。 『んで、なんだって?』 げんなりしたように言ったキョンに、すまん、と内心で手を合わせながら、 「…その、お前らはデートの時って、どうしてる?」 『……は?』 「だから、デートの時に…っ」 『まだデートもしてなかったのか!?』 耳が痛いほどの大音量で怒鳴られた。 「…っ、わ、悪かったな、遅くて……!」 『いや、もうてっきり行くトコまで行ったかと思ってたから驚いただけだが……にしても、デートもまだとか…』 と呆れたように唸ったキョンは、 『んで、そんなこと聞くってことは、デートの予定でも出来たってことだよな?』 「あ……まあ、そう…だな…」 『それでなんで俺のところに電話なんかしてくるんだ?』 「その…、参考に、お前らはどういう風にしてるのか聞きたいんだ」 『……悪いが、デートなんかしたことねぇよ』 「はぁ!?」 『するわけないだろ』 つんけんした声でキョンは言い、 『当たり前だ。んなもん、面倒臭いのにするか』 「それにしても……」 『……まあ、SOS団の活動がデート代わりみたいなもんではあるが』 と申し訳程度に呟いたキョンは、 『それに、二人で過ごすなら家の方が気が楽だからな。好きに出来るし、人目は気にしなくていいし。……やりたくなった時も便利だからな』 その言葉に、いつだったか邪魔しちまったことを思い出し、俺は赤くなった。 「そ、そそ、そうか」 なんて吃る俺に、 『……まだしてないのか』 「う、うるさい…!」 『んで、今度やっとデートか』 「…そうだ」 話は今日の放課後に遡る。 帰る道すがら、ハルヒの目を掠めて俺の耳に口を寄せた古泉が、 「今度の週末、一緒に出掛けませんか?」 などと言い出したのだ。 「一緒に…って……」 「ちょっとした買い物にご一緒していただけたらと思うのですが」 「それって……」 「デートのお誘い、のつもりですよ、勿論」 「……っ」 思わず赤くなった俺に古泉は楽しそうに声を立てて笑った。 余裕だなこの野郎。 「そうでもありませんよ。あなたに断られたらどうしようかと思って緊張していたんです。でも、その様子なら大丈夫そうですね?」 と言われ、余計に暑くなる。 ぱたぱたと手の平で顔を扇ぎながら、 「だが、大丈夫なのか?」 「友人と買い物に行く、というのは普通のことでしょう?」 まあそれもそうか。 気分はデートでも見るからにそうと分かる態度じゃまずいだろうから、抑えなきゃならんということだな。 「それとも、本格的なデートをお望みですか?」 「え?」 驚く俺に、古泉は流し目なんぞよこして、 「そうですね、まず朝一番にあなたを起こすところから始めましょうか。あなたに声をかけて、キスをして、抱きしめて、一体どれくらいで起きてくださるか、楽しみですね。それから、目を覚ましたあなたに花束を贈りましょう。薔薇なんて華やかでいいと思うのですが、あまりにも華美であなたの趣味に合わないとしたら、そうですね、代わりに小振りな百合の花なんてどうでしょうか? あなたによく似合うと思いますよ。清楚で、慎ましやかで美しくて。あなたが着替えるのを見ているのは却下されてしまうでしょうから諦めて別室で待ちますから、僕のためだけに装ってくださいね。それだけでもとても嬉しいですから」 古泉はにこにこ笑いながら口を挟む隙もないほどにしゃべり倒す。 「あなたの仕度が整ったら、手を繋いで歩いて駅に行きましょうか。電車に乗ってちょっと遠出してしまえば、あなたも恥ずかしくないでしょうから、堂々と恋人らしく過ごしましょう。手を離すなんて勿体ないですから、繋いだままで歩いて、買い物をして。食事も手を離さずにしたいものですね。ショッピングついでに映画も見ましょうか。場内でも手は繋いだままですよ。映画の感想を話ながらでもお茶をして、少し歩いて、夕食は少し背伸びしてとっておきのレストランでとりましょう。その後大人しく帰るか、それともどこか眺めのいいホテルに入るかは、あなた次第ですよ」 「なっ……」 かぁっと赤くなる俺に、古泉はくすくす笑う。 でも、意地の悪い笑いじゃなくて、こっちがくすぐったくなるような優しい笑みだ。 「どうです? そんなデートはだめですか?」 「だっ…め、って、いう、か……、そのっ、それは……」 うまく返事も出来ない俺に、古泉は優しい声で、 「ええ、分かってます。ただの願望ですよ。でもせめて、ちょっと出掛けて、買い物を楽しむくらいのデートなら、いいでしょう?」 「……そう、だな」 くすぐったくなりながら頷くと、古泉は嬉しそうに、 「ありがとうございます。楽しみにしてますね」 と一瞬だけ、俺の手を握り締めて離した。 俺だって、楽しみに決まってる。 しかし、生憎俺にデートの経験はない。 よってどうしたらいいのか、何か心掛ける必要はあるのかと思い、電話したという訳である。 『……とりあえず、ゴムとローションは買っとけ?』 「んなっ……!?」 なんでそうなる、と焦る俺に、キョンは平気な声で、 『だって、デートなんだろ? 最後は古泉の部屋かどっかのホテルにしけこむんじゃないのか?』 「そうとは限らんだろうが…!」 『そうならんとも限らんだろ』 それはそうかもしれないが、 「に、した、って……」 『考えてみろ。もし相手も最初はそのつもりがなかったらどうする? 最初からそのつもりなら向こうが用意してくれるだろうが、そうじゃなけりゃ用意してないってことになるんだぞ。なのに、そういう雰囲気になったら、なかなか止まれないってことくらい、お前も男なら分かるだろ。そうなった時、痛い思いをするのはお前なんじゃないのか? それでいいのか?』 それ、は……。 『先達としてすべきアドバイスにこれ以上のものはないと思うから言ってやる』 とキョンは珍しく、真面目な声を出したかと思うと、 『――切れたら当分痛む上に、羞恥で死ぬかと思うぞ』 と身も凍るようなことを言いやがった。 かくして、脅しに負けた俺は、真夜中にマスクをつけて遠くのドラッグストアまで走る破目になったのだった。 ……既に恥ずかしくて死ぬかと思う。 というか、そんな変装紛いのことをしてまで何をしているんだろうかと自分でも思ったとも。 思ったが、……仕方ないだろ。 正直、そんな空気になった時に古泉を突っぱねられるとは到底思えん。 それにこれまでだって、と俺はひとりで頬を赤く染める。 何度か、そういう流れになりそうになったことはあるんだ。 その度に、俺がなんとか止めたり、あいつが思い止まってくれたりしたため、何もないままになっている。 でも、いつもいつもそんなんじゃ嫌だと思うくらいには、俺もどうやらあいつのことが好きらしい。 それに……少しだが、怖くもあるのだ。 俺が今のまま何もしないまま、出来ないままでいたら、あいつに愛想を尽かされちまうんじゃないか、なんて思わないでもない。 何しろあいつはやけに手慣れてるからな。 俺とは違ってさぞかし恋愛経験も豊富なんだろう。 それに関して嫉妬するようなつもりはないが、あいつが手慣れてるなら、いつまでも拒む俺をいつまでも思ってくれるなんて思えない。 だから、俺は呆れられ、引かれる覚悟をした上で、こうしてキョンに言われたものを買いにきたわけだが、そういう売り場ってのはどうしてこう、立ってるだけで恥かしいんだろうな。 いや、堂々としてりゃいいとは思う。 なしでしようとする方がよっぽど問題だとも思うしな。 ゴムなんかを買うのはむしろ褒められてもいいくらいのことだと思う。 だが、用途が限られているがゆえに、買った人間が何をするつもりなのか分かるってのがいけない。 だからこんなに恥かしいんだろうな。 マスクの下の顔を真っ赤にしながら、俺はやけに種類の多いゴムの箱を棚の端から端まで眺める。 普通のでいいんだが、と思ってもどれが普通なんだかさっぱり分からん。 とりあえず、イボ付きだのメンソールだのってのはまず普通じゃないだろうから無視する。 フレーバー付きとか温感なんてのもやめといた方がいいだろう。 残るは、と眺めて、厚みがどうのって記述を見たあたりで一気に気力が失せた。 なんで俺がこんな思いをせにゃならんのだ。 理不尽にさえ思えてくる。 もういい。 俺は一番容量が少なくて、一番値段の安いのを選ぶと、先にペットボトル飲料やら軽食なんかを放り込んでおいたカゴに滑り込ませた。 さて、次なる難題はローションだ。 これこそ、どういうのがいいのかさっぱり分からん。 しかし幸いこっちは大して種類がなかったので、温感でもなければ冷感でもないのを選んで放り込んだ。 そうして、もう一度店内をぐるりと一回りして、何食わぬ顔を作ると、レジに女性店員がいないのを確かめて会計を済ませ、急ぎ足で店を出た。 本気で恥かしかった。 「……これだけ苦労させられたんだから、何もなかったりした日にはキレるぞ」 八つ当たりのように呟いて、俺は小石を蹴り上げた。 |