情けは人のためならず、



情けは人のためならず、ということわざが誤解されて久しいようだが、あの言葉の本来の意味は、情けをかけるのは人のためにならないからやってはならない、という意味ではない。
むしろ逆だ。
人に情けをかけるのは人のためではなく、自分のためになる、という意味の言葉だ。
人が困っている時に手を差し伸べられない人間が、人に助けてもらえるなどということがあるはずがない。
だから、人には情けをかけるのが自分のためだ。
俺は別にそれを座右の銘にしているというわけでもないのだが、この言葉が案外好きだったりする。
それは、いわゆるテンプレ型ツンデレのような、「べっ、別にあんたのためじゃないんだからね!」という言い訳がしたいのではなく、そんな風に人に情けをかけられるだけの余裕をもって過ごしたいという、慎ましやかな願いがあるからに過ぎないのだが、それにしても、情けをかけるのはお節介と紙一重であり、案外難しいもんだな。


結局、俺が本当に異世界人であるということは、こちらでもかなり万能に近いらしい宇宙人、長門情報参謀によって証明された。
どのように証明されたのかは俺にはよく分からんが、とにかく何やら小難しい理論がこちらでは常識になっているらしく、それに照らし合わせて、俺がここにいるのは異世界から突然やってきたからであるという証明がなされたようだった。
…すまん、本当に俺も分かってないんだ。
ともあれ、スパイなんかじゃないと証明されたおかげで、俺は拘束から解放された。
やれやれ、と息を吐きながら、解放された手を擦っていると、朝比奈兵站参謀が、
「あの、あたし、お薬取ってきますね」
と言ってくださったが、
「いえ、大丈夫ですよ。ちょっとひねっただけですから」
「でも……」
「本当に、大丈夫です。ほら、少し赤くなってるだけでしょう?」
これだって、幕僚総長にひねられたせいで赤くなっているだけなのだ。
朝比奈さんが気に病むことはない。
「無理はしないでくださいね」
と優しい声をかけてくださる朝比奈兵站参謀に感謝していると、ここの総司令官であるハルヒ上級大将閣下が言った。
「キョン、ジョンはあんたのところに泊めてやんなさい」
「は!? なんでだよ!」
「仕方ないでしょ、帰れないって言うんだから」
そう、どういうわけか俺は帰れなくなっていた。
拘束から解放されてすぐに元の世界へ帰ると話し、実際帰ろうとしたってのに、くしゃみをしてもあの強烈な目眩が訪れなかったのだ。
理由は分からない。
ただ、俺が助けを求めて長門に電話をすると、
『…なんらかの理由で、あなたがそこに呼ばれた可能性がある』
という返事が返ってきた。
「呼ばれたって……」
『原因が解消されない限り、こちらに戻って来れない可能性がある』
「……明日が土曜でよかったと思うところなのか、これは」
『私も解析を行う。あなたは原因を解消することに努めて。おそらく……鍵となるのは、その世界のあなた』
「分かった。…心配かけて悪かったな」
『いい』
以上のような短いやり取りの後、俺はハルヒたちに帰れない旨を伝え、ハルヒ閣下の発言にいたった訳である。
「別の世界のとはいえあんたなんだから、自分のことは自分で面倒見なさい!」
と吼えたハルヒ閣下のせいで、俺は作戦参謀に押し付けられ、有無を言わさず追い出された。
人目につかないうちにと慌ててすぐ近くの作戦参謀の部屋に駆け込んだが、途中すれ違った何人かは、全く同じ顔が並ぶ光景に目を瞬かせていた。
…どーすんだ、あれ。
ともあれ、飛び込んだ作戦参謀の部屋は、案外きちんと整えられていた。
書類というものが存在しないからだろうか。
物は非常に少なく、簡素な印象を受けるが、不思議と居心地はよさそうだ。
なんとか落ち着いて話せそうになったのでまずは、と、
「すまん」
短く謝った俺に、作戦参謀は小さくため息を吐き、
「気にするな。ハルヒの横暴に振り回されるのは慣れてる」
「だが、非番だったんだろ?」
「妹の買い物に付き合わされてただけだ」
そう言った作戦参謀は、もうひとつため息を吐いたのだが、それはさっきのとはどこか違うように思えた。
どことなく切なげというか、悩ましい。
……自分と同じ顔のやつにそんなことを思うのは妙な気分だがな。
ともかく、違和感を持った俺は、
「…誰か一緒に過ごしたい相手でもいたのか?」
と聞いてみたのだが、
「い゛っ…!?」
と絶句するということは図星か。
軍人なのに、こんなに分かりやすくていいんだろうか。
所詮俺だから仕方ないのかもしれんが。
普段は大丈夫なのか、作戦参謀。
「だ、誰もそんなこと言ってないだろ…!」
言ったようなもんだろ。
「相手は誰だ? まさか幕僚総長か?」
「っ!?」
今度こそ真っ赤になった作戦参謀をじっくりと観察するだけの余裕はなく、俺は茫洋と見つめるにとどめた。
…なんというか、何か呪いでもかかっているのだろうか。
アカシックレコードというものが本当に存在するのであれば、ぜひとも一度のぞいてみたいもんだ。
どの世界でも俺と古泉が付き合っているわけでもないとは思いたいのだが。
「……ああ、それでか」
ぽつりと俺は呟いた。
「は?」
まだいくらか赤い顔のまま、作戦参謀が不思議そうに俺を見る。
「いや、倒れてた俺を見つけてくれたのが幕僚総長だったんだが、反応がおかしくてな」
「反応が?」
「態度と発言が噛み合ってなかった。心配してるくせに、口では毒を吐くから、こいつは一体どういう病気かと思ったんだが」
「ああ、そりゃ医務室だったからだろう。……堂々と付き合ってるわけじゃないからな」
小さな声で付け足した作戦参謀に俺は小さく笑って、
「隠してるのか」
「そりゃあな。部下の手前、堂々と付き合えるわけがないに決まってるだろ」
「お互い不自由なもんだな」
「……お前も、なの、か?」
怪しむように言った作戦参謀に頷き、俺はさっきは話さずにいた古泉とのことを教えてやる。
「ハルヒが妙な力を持ってて、俺たちのことを知られたらどうなるか分からない、というのが古泉の考えらしくてな。それに、男同士で付き合ってるなんてことが知られたら家族まで後ろ指を指されちまうかも知れん。だから、俺たちも堂々と付き合えはしないんだ」
「…厄介だよな」
「こそこそしなきゃならんことがか?」
作戦参謀は小さく頷き、
「大体、こそこそしてたら、本当に相手が自分に一筋なのかなんて分からんと思わんか?」
と予想だにしないことを言ったので返事がワンテンポ遅れた。
俺は真意を探りたくて、まじまじと作戦参謀の眼を見つめ、
「…幕僚総長が浮気してるってのか?」
「ああいや、そういうんじゃ、ないんだ。……ただ、」
と作戦参謀は顔をしかめ、
「…もし、あいつが他の誰かにも、俺に言うのと同じようなことを言ってても、俺には分からんだろうな、と、思って……」
「……」
それはつまり、古泉が浮気しているという疑いがあるというよりむしろ、自分がどうして好かれているのか分からないという不安があるということなんじゃないだろうか。
自分も同じようなことを考えたことがあるし、今も時々脳裏を掠めていくそれに覚えがあるだけに、その気持ちはよく分かった。
俺がどう言おうかと考え込んだ時、作戦参謀の持つ端末が小さな音を立てた。
「なんだ?」
「メールだ。…プライベートの」
かすかに頬が赤いということは、幕僚総長からだってことかね。
どうやら長くはないらしいメールに目を走らせた作戦参謀は、端末をベッドの上に投げ捨てた。
「どうしたんだ?」
「古泉が、会いたいとさ」
「…会えばいいんじゃないのか?」
「……こんな顔して会えるか」
拗ねたように呟いた作戦参謀は、話題の転換を図ることにしたのか、
「夕食の希望はあるか? 騒ぎになると厄介だから、ここで食べてもらうことになるが」
「任せる。俺はこっちのことは何も分からんからな」
「だが、味の好みくらいあるだろう?」
「…多分、お前とそう変わらんと思うが」
「……なるほど、そうなるか」
などと、点滅し続ける端末を放り出したまま会話を続けていたのだが、ややあって、いきなりドアが消えるようにして開いた。
入ってきたのは幕僚総長であり、作戦参謀は嫌悪するように顔をしかめたが、照れ隠しには過剰だと思うぞ。
「失礼しますね」
にこやかに言った幕僚総長に作戦参謀は、
「何の用だ」
と吐き捨てるように言った。
プライベートやハルヒたちSOS団員の前では、幕僚総長相手に敬語を使わないことにしていることが見て取れたが、どうにも空気が険悪だ。
「あなたがメールに返事をくださらないので」
悪びれもせずに言った幕僚総長は俺を見ると、
「まだ帰れそうにありませんか」
と聞いてきた。
「悪いな、邪魔して。……それに、ちょっと帰り辛くもあるんだ」
「おや、それはまたどうしてです?」
「疲れてるってのがまずひとつ。世界を渡るのは案外体に負担が来るんでな。それから、……友人と喧嘩したせいで、帰り辛い」
その友人が本当は恋人であるということを知っているのは作戦参謀だけだが、幕僚総長も何かを察したらしい。
「喧嘩ですか。…そういうことは、よく?」
「いや、初めてみたいなもんだが。それだけに…顔を合わせ辛くってな。俺の方に非があるんだから、素直に謝ればいいんだろうが、そこまで大人にはなれん」
実際、帰れたとして、俺は素直に帰っただろうか。
あいつと顔を合わせたくないというよりむしろ、合わせる顔がないように感じていた。
あいつの言う通り、危ない目に遭っちまっただけに。
それでも、会いたいとは思うのだ。
ホームシックになるほど強くも切なくもないのは、長門がついている以上、どうあっても無事に帰れると信じているからだろうが、そうでなければ半狂乱になってたって不思議じゃない。
黙って考え込んでいた俺をじっと見つめていた幕僚総長が、不意にくすりと笑った。
「…なんだよ」
睨みつけると、
「いえ、」
と幕僚総長は苦笑を見せる。
「あなたの方が子供っぽい反応を見せるんだな、と思いまして。…同い年、ですよね? やはり軍属と一般人の違いですかね」
その言葉に、作戦参謀の眉がきつく寄った。
幕僚総長は迂闊なのか無神経なのかどっちだ、と俺は戸惑うしかない。
「帰りたくないなら、ずっとここにいればいいだろ」
本気じゃないだろうに、作戦参謀が言い出し、幕僚総長が慌てたように、
「ずっとって……あなた、一体どうするつもりです?」
「私が面倒を見ればよろしいのでしょう? それが涼宮閣下の指示でもあります。人間一人増えたくらいでぐらつくほど、うちの兵站は弱くないということは、私よりもあなたの方がよくご存知なはずだ。……何か問題でもありますか? 幕僚総長殿」
最後の『幕僚総長殿』をえらく強調しながら言った作戦参謀に、幕僚総長が戸惑いを滲ませる。
「あの、僕、何かしました…?」
「これから夕食なので、お引き取りください」
あくまで敬語で押し通しながら、作戦参謀は強引に幕僚総長を追い出し、ロックをかけた。
「……あてつけに使われるのは不本意なんだが」
ぽつりと呟いた俺に、作戦参謀の頬がかっと赤く染まり、
「すまん。…つい……」
「気持ちは分かるから構わんが」
どことなく気まずい空気のまま、俺たちは合成だという割には案外うまくて、普通の食事と遜色ないような夕食を取った。
個人用の水を使ったシャワーなんて贅沢品はないとのことなので、体の汚れを落とすというよく分からん空気にさらされた後、着替えをすることになったところで、俺はふとあることを思い出して作戦参謀を見た。
着替えの真っ最中だった作戦参謀は俺の視線にすぐに気づき、その手を止めた。
「…なんだ?」
「いや、ハルヒが俺の体の鍛え方がどうのって言ってたからな。お前は違うんだろうかと思っただけだ。……実際、違うみたいだな」
「ああ、そういうことか」
と小さく笑った作戦参謀は、残っていたズボンを脱ぎ捨てると下着だけになった。
その上で、いくらか自慢するように割れた腹筋なんぞを見せてくれる。
「実際鍛えさせられてるからな」
「羨ましい」
率直に呟くと、作戦参謀はなにやら複雑に眉を寄せた後、俺の服を剥ぎ取った。
「ちょっ…!?」
何するんだよ!?
「俺のを見たんだからお前も見せろ」
とハルヒに似ていると言えなくもない好奇心溢れる目で言った後、まじまじと俺の貧弱な体を見つめ、
「……細いな」
「わ、悪かったな」
「腕なんかも柔らかいし。後方支援担当の女性陣でもこれくらいのはあんまりいないだろうな」
「そこまで言うか?」
「事実だ」
そう言って笑った作戦参謀の悪気のなさに、筋トレに精を出すことを密かに誓った俺だったのだが、
「……やっぱり、筋肉質なのよりは、少しでも抱き心地がよくて可愛いのがいいんだろうな」
という呟きに思考を阻まれた。
「…そんなもんは、個人の好みであって人それぞれだろ。それとも何か? あの野郎に何か言われでもしたのか?」
あの野郎というのが誰を指すのかは言うまでもない。
「違うが……」
表情を曇らせた作戦参謀は、拗ねるのを通り越して落ち込んだ様子だった。
「さっきだって、お前のこと、ニヤニヤしながら見てただろ」
「あれは多分、お前が一般人ならこんなだったかなんて考えてる面だろ。気になるなら、今度一言、妬いたとでも言ってやればどうだ?」
「い、言えるかっ!」
と赤くなる作戦参謀に、もしかして軍人だからこそ、俺以上に、色恋沙汰に耐性がないのだろうか、などと思いつつ、
「言った方が早いと思うが……」
「お前なら言えるのか? そんな、は、恥ずかしいこと…」
「さあな。妬いたことがないから知らん」
「……羨ましい」
本当に羨ましそうに呟いた作戦参謀には悪いが、
「単純に、付き合い始めて間がないだけだ」
そう言いながら、いい加減風邪を引きそうだったので服を着てベッドに潜り込んだ。
狭い一人暮らし用の部屋に、客用ベッドなんて気の利いたものがあるはずもなく、作戦参謀とひとつのベッドをシェアするしかない。
相手が自分みたいなものとはいえ、男と同衾なんて面白くない。
今日は友人のところに泊まるという嘘のメールをお袋に送りつけ、そのついでに作戦参謀ともメールアドレスの交換を行ったのだが、作戦参謀はどうにも気になることがあるらしい。
「付き合い出して間がない割に、喧嘩はするのか」
と言われた。
よっぽど煮詰まってるらしいな。
……もしかして、それが原因で俺が呼ばれたってわけじゃないだろうな?
自分が二人いたとして、幕僚総長が本当に自分を選ぶのか確かめたかったとか、誰でもいいから相談したかったとか。
長門が、鍵となるのはこっちの俺、つまり作戦参謀だと言っていたことも気にかかる。
本当に原因がそれならそれで別にいい。
第三者として見ているから、多少ばかばかしく思わんでもないが、当人にしてみれば非常に深刻な悩み事であるということは多々あるし、俺にだって経験はあるからな。
だが、そうなると本気で助けにならなければならんのだろうな。
「恋人として付き合いだしてからは短いが、友人としての付き合いはそこそこ長いからな。遠慮はせん。大体、付き合ってんのに遠慮してたって、面倒なだけだろ」
「……いいな」
ぽつりと作戦参謀が呟き、俺は呆気に取られた。
何がいいって?
「俺は、あいつと友人付き合いなんてした覚えもろくにない。おまけにあいつは上官だからな、あれでも」
「……もしかして、喧嘩したこともない……とは、言わんだろうな?」
「…ない、な。何か揉めるようなことがあっても、俺が一方的にキレて、あいつがなだめるくらいで、あいつが俺に何か注文をつけてきたりするのは、任務上のことくらいしかなくて……」
それで本当に好かれているのか疑っているわけか。
俺からすれば、幕僚総長の方がべた惚れだからこそ、何も文句を言わずに尽くしてるだけだと思うのだが。
どうやら、双方に変な遠慮があるのが問題らしい。
「…あいつが、何で俺なんかと付き合ってんのかも、分からん……」
「じゃあ、お前も、遠慮せずにぶつけてやれよ。あいつに遠慮してもらいたくないってんなら、お前もそうすべきだろう」
「……」
返事はない。
ただ、心細そうな目をしていたので、軽く抱きしめ、なだめるようにしばらくの間背中を叩いてやった。
……と、そこでひとつ思いついた。
幕僚総長を妬かせて、キレさせたなら、こいつの不安はなくなるんじゃないか、と。
俺はうとうとしかけていた作戦参謀をつつき起こして、こしょこしょと内密な算段に入った。
何しろ、相方は作戦参謀である。
俺一人で立てる作戦より遥かにいい作戦が立てられるのは分かりきっていた。