論理学は、



論理学は、しばしば詭弁に過ぎなくて、役に立たなかったりすることの方が多いように思われるのだが、論理的な思考というものは必要不可欠である。
とはいえ、俺もどちらかと言うと日常生活では直感と言う奴を優先させがちだし、理屈を捏ね繰り回すのは人を煙に撒きたい時だとか自分が現実逃避をしたい時だったりする。
人間なんてしょせんそんなもんだろ。
小難しいことばかり考えてたら身動きなんて取れなくなっちまうもんだ。
どうやって眠ってたか、なんてことを考え始めると逆に分からなくなって、全く眠れなくなるみたいにな。
だから、論文を書いたりする時ならともかく、普通に生活しているのなら、理屈より直感を優先させた方が多分うまく行くんだろう。
…それを実際に実行できるかはともかくとして。

このところ、古泉の機嫌はすこぶる良い。
少し前までの機嫌の悪さなんかの分を取り戻すかのように上機嫌だ。
俺にボードゲームで負けて、自販機のコーヒーを奢らされようが、これまで以上ににこにこ笑顔を振りまいていやがる。
俺としては、不用意に笑顔を振りまかれることでライバルが増える可能性があるんじゃないかと思うだけで腹立たしくすらなってくる時もあるのだが、古泉が幸せそうにしているのを見るのは嫌どころか多分に嬉しくなっちまうような状態なので止めることも出来ず、むなしい思いをしているところである。
……なんでこうなっちまったんだろうな。
考えたところで理由はとんと見当もつかず、それどころか古泉がにこにこと幸せそうにしているだけで思考すらどこかに行っちまう始末だから手に負えない。
困った困った、なんて嬉しそうに繰り返す自分も含めて。
そんな頃のことである。
先日未来の自分にもらった土産のクッキーが空になり、朝比奈さんが丁寧に綺麗にして返してくれたのは。
それを待っていたかのように、長門も空き缶を返してくれた。
「美味しかったか?」
と答えを分かっていて聞いてみれば、長門は小さく頷いた。
「…また食べたい、と伝えて」
そんなに気に入ったのかと笑いながら、
「分かった」
と請負って、俺は缶をカバンの中にしまった。
あいつは缶が空になった頃に取りに来ると言っていたが、それはいつ頃の話になるんだろうかね。
本当に来たら、あいつの嫁同然な同居人ってのは何者なのか問い詰めてやりたい、などと俺が考えていると、同じく荷物を片付け、帰ろうとしていたはずの古泉が俺の顔を覗き込み、
「どうかしましたか?」
と聞いてきた。
「難しい顔をなさってましたが」
「別に、なんでもない」
頼むからいきなり顔を近づけてくるんじゃない。
「…それならいいんですが」
そう引き下がりながらもどこか釈然としない様子で、
「お願いですから、もう隠し事はやめてくださいね」
と念を押してくるのへ、俺はいい加減に相槌を打つだけだ。
古泉もそれ以上は言わず、ただ困ったように苦笑した。
朝比奈さんの着替えのため、外に出たところで、古泉が言った。
「すみません、ちょっとお話ししたいことがあるので、後で部室に残っていただけますか?」
疑問形でありながらそれはどこか拘束力を伴っており、俺としては頷くしかない。
それから古泉はハルヒに、部室の施錠の役を買って出る旨を伝え、着替え終わった朝比奈さんと待ちかねていた様子の長門共々送り出し、俺を部室に引き戻した。
「で、何の話だ? わざわざ残らせたんだから、よっぽど重要な話なんだろうな」
「いえ、そう大したことではありませんよ」
そう言っておいて、古泉は悪戯っぽく微笑み、
「でも、そうですね。僕としては大変重要なことかと。それにしても、あなたと二人きりで話そうと思ったらこのようにしなければならないというのも、なかなかに不便なものですね」
それにはいくらか同意を示してやってもいいとは思うが、前置きが長い。
「もったいぶらずにさっさと話せ」
ため息混じりに言っても、古泉の機嫌の良さは保たれるらしい。
笑顔のまま、古泉は端的に述べた。
「デート、しませんか」
……一瞬、何を言われたのかと思ったね。
ああ、予想だにしてなかったとも。
ゆえに、俺の返事も端的なものとなった。
「なんで」
ついでにじろりと軽く睨んでやると、古泉がたじろぐように眼球をくりくりと動かした。
「なんでって…」
「デートってのは付き合ってる奴同士がするものだろ。お前は俺を好きだと言い、俺も好きと言ったが、だからと言ってお前と付き合い始めたという覚えはないんだが?」
「え…。……あー…」
思い当たる節にやっと行き着いたらしい古泉だったのだが、へらりと笑って、
「もしかして、ちゃんとお付き合いの申し込みをしていなかったことに関して、拗ねてます?」
「いや、客観的に事実を述べてるだけだ」
ああ、それだけだとも。
大体、付き合うと言ったところでしたいことがあるわけでもないし、付き合いだしたからと言って何が変わるっていうんだ?
これまでだって、ほとんどなにも変わってないじゃないか。
「僕にはありますよ、したいこと」
そう言って古泉は卑怯なまでに真っ直ぐな目で俺を見つめた。
それだけでうろたえてしまいそうになるのは、俺がまだ対古泉用の免疫を構築出来ていないからだろう。
前よりは多少マシだが、まだ慣れん。
意識する以前はあんなに平気だったってのに、厄介なこった。
「あなたとしたいことは、いくらでもあります」
今にも触れそうなほど俺に近づきながら、古泉は言った。
嬉しそうに、楽しそうに。
「デートもしたいですし、もっと気軽に電話とかもしたいと思ってます。もっとあなたと話したい。あなたを知りたいと、思うんです」
そう微笑む古泉は、本当にイヤミなくらいの美形っぷりで、見惚れそうになる。
だが、ここで見惚れていてはまずいと、俺はわざと渋面を作り、
「デートって言っても要するに出かけるってことだろ。それくらい、付き合わなくても出来るんじゃないのか」
と渋る。
「ただ出かけるってこととデートはやっぱり違うと思いますよ」
「俺には違いがよく分からん。大体、お前と俺の立場を考えたら、付き合うなんて出来んだろ。デートなんて更に無理だ。不可能と言ってやったっていい」
「そんなことはありません」
等と、そんな風にしばらく押し問答を続けた挙句、古泉はとうとう情けなく眉を下げ、今にも泣きそうな表情へとせっかくの綺麗な顔を崩しかけながら、小さな声で言った。
「…どうして、そんなに嫌がられるんですか。もう、僕のことなんて嫌いになってしまったんですか……」
「違っ…!」
自分でも思いがけないくらい強い口調で否定しそうになって、俺は慌てて口を閉じた。
このままじゃ、余計なこと、言わなくていいことまで言っちまいそうだと思ったからに他ならない。
…言えるわけ、ないだろ。
付き合うなんて形でこれまでのそれなりにいい関係を変えちまうのが怖い、なんて。
何もかも、怖いことばかりだ。
今は確かに感じているはずのこの感覚すら、ただの思い込みや勘違いだったら、どんなに古泉を傷つけることになるのかと思うと怖い。
逆に、古泉が俺を思ってくれているというのが、いつか冷めるのかと思うと、それも怖くてならない。
冷める可能性があるのに、今以上、古泉と近づきたくない。
近づきすぎて、依存のような状態に陥ったら、と思うと怖くなりもする。
今、どうしようもなく好きだからこそ、失った時が怖い。
変わっちまった時が怖い。
中途半端に未来を知っちまったから、余計に。
だが俺がそんなことを言えるわけもなく、まだ情けない顔のまま、
「違うんでしたら、どうしてなんですか。理由を説明してください」
と懇願するように聞いてくる古泉に、
「い、嫌なものは嫌なんだっ」
と言い捨てて、その場から逃げ出そうとしたのだが、その瞬間、突然現れた何かにぶつかって弾き飛ばされかけたところを、
「おっと」
と抱きとめられ、そのままぶつかった何かに抱き締められた。
「大丈夫か?」
「…って……あんた…」
そこにいたのは、さっきまで間違いなく部室の中にはいなかった人物だった。
ドアを開閉する音も聞こえなかったし、そこから出入りした人間もいない。
つまり、そいつはドアを使わずに部屋に入ってきたというわけであり、更に言うならさっきまで部室内にいなかったどころか、この時間にいたはずもない奴だった。
羨望の眼差しをそのまま嫉視に変えてやったっていいくらい、背も高く、体つきもいくらかとはいえ逞しくなった、未来の俺がそこにいた。
「いつの間に…」
唖然としながら呟けば、そいつはニヤリと笑って、
「ちょっと前からいたぞ?」
「なっ…!?」
「気付かなかったのは、そういう情報操作を長門に加えてもらってるからだから、気にするな。お前らが会話に夢中になってたせいだけじゃない」
そういう問題じゃないだろ!?
「空き缶を取りに来たら何かもめてるようだったからな。話がひと段落するのを懐かしいような微笑ましいような気持ちで眺めつつ、待たせてもらった」
そう言っておいて、そいつは俺以上に呆然としている古泉へ目を向けて、
「誰か分かるよな?」
とからかうように言った。
それでやっと我に返ったらしい古泉は、それでもまだぎこちなく、
「え、ええ、分かりますが……」
「ああ、別に大した用事じゃない。さっきも言った通り、クッキーの空き缶を取りに来ただけだからな」
それにしても、とそいつはしげしげと古泉を見つめ、
「…この時点ですら背が追いつけん、ってのが腹立たしいな」
と呟いた。
はたから見ている分にはそんなに違わないように見えるんだが、微妙に足りないらしい。
古泉はいくらかたじろぎつつも、遠慮がちに言った。
「あの……いつまで彼を抱き締めているつもりですか」
「ん?」
言われた未来の俺は、今やっと思い出したとばかりに俺に視線を戻すと、にやっと笑い、わざと殊更に抱き締めなおしやがった。
「この前も思ったが、ほんとに小さくて細いな」
「っ、放せっ!」
慌てて抵抗すれば、意外とあっさり解放された。
俺はカバンを引き寄せると中から空き缶を引っ張り出し、そいつに押し付けた。
「ほらっ、これで用事は済んだだろ!? さっさと帰れ! あんたがいると余計に話がややこしくなりそうだ」
「そういうことを言っていいのか?」
にたにたと意地の悪い笑みを浮かべたままのそいつに俺が眉を寄せると、
「お前の懸案事項を解決してやれるのは俺だけだろ?」
と言いやがった。
未来の自分なんだから、俺が今何で悩んでいるのか知っていて当然だとは思う。
思うのだが、今、こうして別人として対峙してそんな風に言われると、怯まずにはおれない。
自分の内心を透かして見られているような感じで非常に居心地が悪い。
「その前に、」
とそいつは面白がるような目を古泉に向け直し、空っぽのクッキーの缶を振りつつ、
「古泉、お前、これに覚えはなかったか? 正確には、これの中身にだが」
いきなり話を振られた古泉は、戸惑いつつも頷き、
「え、ええ、覚えのある味だと思いました。僕の家で作っていたクッキーとよく似ていると…」
「似てるんじゃなく、全く同じものだとしたら?」
その言葉に、古泉が怪訝な顔をする。
「……どういうことです? あなたが過去に行って取ってきたものだとでも?」
「そうじゃないが、」
そう言っておいて、そいつは俺に向かって言った。
「お前には、分かるんじゃないのか?」
「…は?」
「鈍いな」
くすくすとどこかで見たような感じで笑いつつ、そいつは言った。
「このクッキーを作ったのは、俺の嫁だ。…嫁っていうよりは、役割的に、あっちが旦那になるのか?」
それで種明かしは終り、とばかりに言ったそいつは、俺たちを見た。
が、俺も古泉もさっぱり訳が分からん。
そんな風に、俺と古泉が理解出来ていないのを面白がりながら、そいつは親切にもダメ押しした。
「つまりはお前だ、古泉」
「……ああ、それで同じ味なんですね」
どこか的外れなことを言った古泉以上の衝撃を、俺は受けていた。
前に会った時にも、こいつは言っていた。
クッキーを作ったのは自分の嫁のようなもので、一緒に住んで一日三食作ってもらっているというようなことを。
とてもじゃないが単身者用には見えないマンションに住んでいて、しかも同居人がいるということも言っていた。
それから、前に会った時も今日もひっかかった、どこかで見覚えのあるような、しかし俺とは絶対に違う笑い方。
あれは…古泉のそれと似ているんじゃないのか?
同居人が古泉で、嫁だの旦那だの言っちまうような間柄だとしたら、それはつまり、
「…俺の考えてたのは完全に杞憂ってことか」
安堵するというよりもむしろ自分の思考の空回りっぷりに情けない気持ちでいっぱいになる俺へ、未来の俺は軽く鼻で笑い、
「そういうことだな。まあ、そうやって悩むのも若い頃の特権ってやつだと思っておけ」
自分にとってはもうとっくの昔に過ぎたことだと思って好き放題言ってやがる。
「ついでに言うと俺はもういい年だから、こういう風に妙な世話を焼いてやりたくなったりもするんだよ」
と笑ったが、元はと言えばお前がややこしいことをしたせいじゃないのか。
「それじゃ、俺は帰るからな」
謝りもしなければ反省もなしにそう言ったそいつは、くしゃみもせずにその場から消え失せた。
それがTPDD’の変化のあらわれというやつなのかは分からないが、特に負担もなく移動しているらしいのがいくらか羨ましい。
…と、逃避したところで古泉と二人きりという状況に戻された現実からは逃れ難い。
「あの、」
と声を掛けて来た古泉を振り返ると、古泉が困り果てたような顔をしていた。
「よく話が分からないんですが……やっぱり何か悩んでらしたんですね」
……言わなきゃならんのか。
出来れば言いたくないのは、それが完全に空回りの杞憂だと分かったからでもあるし、そうでなくても恥かしいほど後ろ向きな考えであるからだ。
それどころか、そんな風に古泉のことで頭がいっぱいだったなんて白状するのも恥かしい。
羞恥心で人が死ねるものなら、たとえ話である猫のように魂がいくつかあったとしても、あっという間に残機ゼロでゲームオーバーになってるところだろう。
言いたくない。
他に手段があるなら絶対に言いたくないくらい、どうしようもない思考だったという自覚があるだけに。
「あの……」
だんまりを決め込んでいる俺に、古泉が控え目に声を掛ける。
その困惑しきった顔を睨みあげて、俺はそのまま古泉を抱き締めた。
「ちょっ…!?」
「頼むから、聞くな。俺の悩みだの気遣いだのが徒労に終ったってだけの話だ」
「しかし、」
「これからは、ちゃんと言うって約束してやるから」
「……」
黙った古泉に、あともう一押しだと確信しながら俺は言う。
真正面から顔を見れないのは、俺がそういう性分だからだと言うしかない。
「…もう、意地を張るだけ無駄だって分かったから、その、……古泉、俺と、……付き合って、くれ…ないか……」
羞恥のあまり切れ切れになったが、古泉にはちゃんと通じたらしい。
一転してその表情に喜色を滲ませながら、
「…本当ですか?」
「ああ…」
「もしかして、悩んでたのは…」
「頼むから、詮索してくれるな」
とそこは強く言わせてもらう。
「……分かりました」
ふふっと小さく笑った古泉が、俺をしっかりと抱き締める。
「僕の方こそ、お願いしたいです。…僕と、付き合ってください」
「…ん」
「デートも、してくださいますよね?」
「…してやっても、いい」
小さく返せば、古泉の笑みが余計に幸せそうにとろける。
その締りがないくらいの顔が、何より好きで、愛しい。
「電話でも、会ってでも、たくさん話したいです」
「分かってる」
「もっとあなたを知りたいんです」
「ん、俺も…知りたい」
「いっぱい、話しましょう」
「ああ」
「キスも……して、いいですよね?」
「ああ。……って、」
今、どさくさに紛れてなんて言った!?
――そう、俺が問うより早く、古泉の顔がこれ以上ないというくらいのどアップになり、唇に柔らかな感触が触れた。
機能停止状態に陥った俺に、古泉はこの上なく幸せそうに微笑み、その笑みと寸分も違わぬような幸せそうな声で、
「…愛してます」
と囁いたのだった。