数多ある、故事成語とか四字熟語なんてものの中で、その意味を痛感するものというのは一握りに過ぎない。 あのハルヒの憂鬱だって、白髪三千丈なんて言えるほどの憂いではなかったし、千里の道も一歩からと言いはしても二三歩目でけつまずくかどうかして忘れる人間の方がきっと多い。 目から鱗が落ちたと思っても、実際にはそう大したことじゃなかったりもする。 それなのに、俺は今、猛烈に痛感している言葉がひとつあった。 ――後悔先に立たず、と言う言葉である。 後に悔やむから後悔と書くのだと分かってはいても、強がれない。 何故なら、後悔する可能性を事前に予見してもいたせいだ。 それならやめとけばよかった、あるいはそれなら後悔するなと言うのが普通だろう。 俺もそう言いたい。 だが、予想外だったのだ。 予見していた結果になってしまったことで、ここまで自分が悔やむようになっちまったということが。 全く、後悔ってのはする時になるまでどんなことになるのか分からないもんだ。 何で俺がここまで考え込まなきゃならんのだ。 というか、考えるまでもなくやることは決まってるはずだろ。 古泉に事情を説明し、あんなことを言ってしまったことを詫びる他はないということは分かる。 だが、それでも言いたくないというより、言い出す勇気がなかった。 それはなんでだ? …分からんし、分かってはならないような気もする。 何か不吉なものを感じる。 それでも、古泉が俺に対して余所余所しいことこの上ない、今の状況が続くのは嬉しくない。 俺はどうすりゃいいんだ。 そんな、ぐるぐると堂々巡りの考えを繰り返しながら、俺は唸っていた。 古泉ってのは他の奴も面倒なんだろうか、と思い出すのはあの世界、古泉とハルヒが光陽園学院に通っている、ちょっとばかりこっちとは違う世界の二人のことだ。 あの古泉はこっちの古泉よりもいくらか分かりやすそうでもあったんだが、面倒そうでもある。 それをうまいこと操っているらしいキョンには、少なからぬ尊敬の念を抱きそうになるくらいには、俺は参っていた。 ……あいつに相談でも出来たら違うだろうか。 そう思いながら、俺はベッドのそばに放り出したままのコショーの瓶を見た。 前にあの世界に行った時、朝比奈さんが持ってきてくださったそれを、俺は大事に取っていた。 あれをうまく使えれば、あの世界に行けるんだろう。 事前に行って構わないか聞ければ便利なんだろうが、長門に携帯を改造してもらってからはまだ一度も行っていないから難しい。 一か八かやってみてやれ。 いくらか自棄になりながら、俺はコショーに手を伸ばし、鼻先で振り撒いた。 勿論、携帯をしっかりと握っておくことも忘れない。 そうして、くしゃみと共にやってきた目眩に身を任せ、俺は世界を始めて意図的に飛び越えた。 しかし、覚悟していたところで酩酊感にも似た感覚は如何ともしがたいものであり、ぐらぐらと揺らぐような感覚の中、俺は床に膝をついた。 「ジョン!?」 驚いているらしいキョンの声が聞こえてきた、ってことは無事に跳べたんだろう。 そう思いながら顔を上げようとすると、余計に世界が回った。 気持ち悪い。 「大丈夫か?」 頭を振るのは危険なので、手を振って大丈夫じゃないと答えると、 「そのまま横になっていいぞ」 と言われたので、遠慮なく床に伸びる。 こうすると少しはマシだな。 「ちょっと氷でも取ってくる」 そう言い残してキョンはばたばたと部屋を出て行った。 気を遣うなと言う間もない。 素早いな。 ややあって、氷を入れたビニール袋を手に戻ってきたキョンが俺の頭にそれを当ててくれ、俺はやっと人心地がついた。 「無理すんなよ」 と言われつつも体を起こし、床に座る。 目を開けるとここがキョンの部屋であり、どうやらテレビゲームをしていたらしいことが分かった。 「またうっかり来ちまったのか?」 そう聞いてくるキョンに、 「いや、今回はわざとだ。…ここまで堪えるとは思わなかったがな」 やっぱりあれだろうか。 寝不足に陥っていたのが原因だろうか。 「寝不足? お前何やってんだ?」 呆れているキョンに、 「ちょっと相談したいことがあってな」 と言うと、キョンは首を傾げ、 「ジョンが俺に?」 と呟いている。 そんなに意外か? 「いや、ハルヒや古泉の話からすると、お前は俺なんかよりよっぽど行動力があるみたいだったからな。相談なんてしてくるとは思わなかった」 買い被り過ぎだ。 「みたいだな」 どこか面白がるように言ったそいつは、ベッドにどかりと胡坐をかくと、 「で? 相談ってのはなんだ?」 ……面白がってるな。 「興味があるからな」 悪びれもせずに言うのを見ていると、本当にこいつに相談したんでいいのかと思わないでもなかったが、他に相談出来る宛があるわけでもないんだから仕方ない。 「お前、何で古泉と付き合ってんだ?」 俺が単刀直入にそう聞くと、キョンは驚いたように目を瞬かせたかと思うと、 「…んなこと聞いてくるってことは、お前もとうとう告白されたのか?」 「厳密に言うと違う。ちょっと…面倒なことになっててな」 そう言って俺が簡単に説明してやると、始めのうち、キョンは大人しくふんふんと聞いていたのだが、話が進むにつれてその顔が引き攣り始め、古泉にかなり酷い言葉を吐いちまったと告白した辺りで唇が変な形にひん曲がり、気まずくなっているという辺りまで来る頃には同情を絵に描いたような顔つきになっていた。 話し終えた俺が意見を求めるべくキョンを見つめたところで、キョンは嘆かわしげに、 「…古泉も可哀想にな……」 と呟いた。 「……そんなに酷かったか?」 「酷いなんてもんじゃないだろ。健気に隠してたんだろうに。おまけに後は知らん顔かよ」 随分と古泉に同情的な発言だ。 そこまで言ってやらなくてもいいと思うのだが。 それに、 「だったら、どうしたらよかったっつうんだよ」 「過去形で言うな。今からでも遅くないから、真剣に考えてやれよ」 と睨まれた。 古泉がらみだからか、妙に厳しいな。 しかし、一理あることは間違いない。 振るにしても何にしても、考えてやらなきゃならんだろう。 「むぅ……」 唸った俺はしばらく考え込んだ後、またもや深みにはまり込みそうになる思考を引き止め、 「…お前はどうだったんだ?」 キョンはまるで、それが予想外の問いであったかのように目を見開き、それからじっと俺を見つめ返した。 「俺?」 「ああ。…古泉と付き合ってるんだろ。なんでそんなことになったんだ?」 ある時点まで俺と記憶を共用してるってことは、生まれつきゲイって訳でもないんだろう。 参考までに聞かせてくれ。 「参考……にはならんと思うんだが…いいのか?」 おう。 「…長くなるぞ」 覚悟の上だ。 「……分かった」 そう言っておいて、キョンはしばらく黙り込んだ。 話すのを迷っているというより、何から話そうか考えているように見えた。 ややあって、おもむろに話し始めたのは、ここ半年ほどの間の出来事のことだった。 「ハルヒがこっちでSOS団を作ったことも、その経緯も分かるよな?」 全部説明されたってわけじゃないが、なんとなくな。 あいつの行動パターンはよく分かっている。 「なら、その辺は省くか」 独り言のように言った後、 「とにかく、俺は訳が分からんままSOS団に引っ張り込まれて、以来、あの文芸部室だの喫茶店だの誰かの家だので集まってるんだが、ハルヒと古泉は学校も違うだろ。古泉とは特に、最初は全然馬が合わなくてな」 「そうなのか?」 「分からんか? あいつは光陽園学院なんかに通ってるようなお坊ちゃんで秀才だ。趣味も家庭状況も違いすぎて話が合わん。加えてあいつは物凄い不器用なところがあってな」 とキョンは嘆かわしげにため息を吐いた。 「あいつとしては俺となんとか親しくなりたいと思って話しかけたりしてたんだが、話題が高尚過ぎて、俺にはイヤミにしか思えなかったくらいだ。そのくせあいつは何が面白いんだか俺のことばっかり見てるし、あいつはいつまで経っても嘘くさい態度を続けたりするもんでな。どうしようもなくイラついて、2月に入るか入らないかって頃に、ぶち切れた」 「…は?」 ぶち切れたって…お前……。 「――そんな態度じゃアソビ目的の彼女なんかは出来たところで恋人は出来ないだろうな。それどころか、親友だって出来ないだろうよ。――と、思いっきり怒鳴ってやった」 「それは……」 辛辣と言うか、むしろ負け犬の遠吠えにしか聞こえない気がするんだが? 「だよな」 とキョンは苦笑した。 「俺も今ならそう思う。だが、あの時は本当にそう思ったからそう言ったし、あいつにも堪えたらしい。驚いて硬直した後、泣き出してな…」 「な…」 泣き出して? あの古泉が? …ああいや、あいつがキョンに縋って泣くという話は以前この世界に再訪した時ハルヒから聞かされてはいるのだが、本人に聞かされると驚かざるを得ない。 しかしキョンはくすくすと、えらく楽しそうに笑って、 「ああ、酷い大泣きだった。思い出すだけで笑えて来るくらいにな」 …お前さ、さっき俺に酷いって言わなかったか? 俺の指摘なんぞさらりと聞き流して、キョンは笑顔のまま続ける。 「あいつも結構複雑な環境にあるらしくてな。親や周囲の重圧なんかにさらされて、ああも歪んじまったらしい。歪むっていうか、同級生相手に敬語で喋るような変な奴になっちまったってことだが」 なるほど、超能力者でないならそういう理由がいるということか。 「そういうことを知っちまったら、邪険にも出来ないだろ。んで、あいつが他の奴に話せないような愚痴を聞いてやったりしてるうちに懐かれて……告白された」 「で、すぐにOKしたのか」 「いいや。俺だって、最初は断ったとも。思いっきり逃げ回りもした。が…最終的に、熱意に負けて絆されて……。まあ、付き合ってる」 そう言った顔は見てて恥かしいくらい幸せそうに見えた。 「ほんとに長かったな」 俺が呟くように言うと、 「誰が聞いたんだよ」 と睨み返された。 「悪かったな」 「とにかく、俺に言えるのは、きっかけはどうあれ大事にしてくれるってことくらいだ。…多分、そっちの古泉もな」 あの見てて困るくらいシャイな態度の奴にいきなり強く出られたらそれはそれで怖いだろ。 ううむ、と悩みつつ、俺は腕を組んだ。 その時である。 いきなりドアが開いたかと思うと、俺は誰かに抱きつかれた。 誰か、なんて言うまでもない。 妹じゃないんだから古泉しかいないに決まっている。 「キョンくんっ…!」 と泣きそうな顔で抱きついてきた古泉に向かって、俺は遠慮の欠片もなく怒鳴った。 「俺はジョンだ! 間違えんなアホ!」 「う…え……?」 きょとんとした顔で俺を見た古泉が、ベッドの上のキョンに目を向けて青褪める。 キョンはと言うとけらけらと笑いながら、 「大丈夫か?」 なんて言っていやがる。 「てめぇ…のうのうと見てんじゃねえよ!」 「悪いな。楽させてもらった」 そう笑ったキョンは、 「正直、そうやって抱きついてこられるのが一番堪えるんだよな」 などと独り言のように呟いていた。 その間にやっと自分のしでかしちまったことを理解したらしい古泉は、真っ青な顔のまま俺を解放したかと思うと、キョンに向かって堂々と土下座した。 「ごっ…ごめんなさい! 見間違えました…! お願いだから見捨てないでください…っ」 ぼろぼろ泣きながら平謝りの体勢である。 体裁も何もない。 初めて見たそれはなかなかの破壊力を伴うものであり、俺としては、 「…凄いな」 と呟く他ない。 慣れきっているキョンはと言うと、 「別に怒ってねぇから、ほら、こっち来い」 と呼び寄せてやり、そろそろと怯えるように抱きついてきた古泉を抱きとめ、小さな子供にでもしてやるように、ぽんぽんと背中を叩いてやったりしている。 「よしよし、大丈夫だからな」 掛ける声は優しげだが、口元が変に歪んでないか? そう指摘すると、キョンはその唇をはっきりと笑みの形に歪めて、 「可愛いだろ、こいつ」 「……悪いが、それは全く理解出来ん」 自分よりでかい図体したやつに泣き縋られてそんなことを言えるってことからして理解不能だ。 「そうかい。まあ、そんなもんかもな」 まるで自分だけの特権だとでも言うようにキョンは古泉を抱き締めてやっている。 加えて、わしゃわしゃと頭を撫でられたりしているうちに、古泉も落ち着いたらしい。 真っ赤に目を泣き腫らしつつも、なんとか泣き止み、キョンの話を聞いていた。 俺がどうして来たのかという話と相談の内容をキョンは話したのだが、俺としては、外見は呆れるほどにそっくり同じで、違うのは制服だけという古泉に、そんな話をするのは妙な気がした。 落ち着けば、キョンよりよっぽど冷静に話せるのが古泉であるらしい。 「どうしたもんかね」 と嘆いた俺に、締まらないほど泣き疲れた、痛々しい声で、 「いっそ、正直に話したらどうでしょうか。あなたがこのように世界を移動出来るということも含めて。そうして、まず誤解を解かなければならないと思うのですが」 「そう…だな」 「それに、真剣に向き合うのであればまずは正直に話す必要があるのではないでしょうか」 全くの正論である。 そして、正論には反論し難い。 それに、俺が正直になれば、あいつもそうなってくれるかも知れないということも、俺には分かっていた。 問題は抵抗があるということなのだが。 「……ひとまず保留にしたらどうだ?」 と言ったのはキョンだ。 「あいつがお前を好きであるらしいとか、そういうことはとりあえず置いとけ。そうすりゃ、目下のところ問題になるのは、あいつが余所余所しいってこととお前が面倒な状況になってることをあいつに内緒にしちまってることになるだろ。そうしたら、多少は話しやすくならないか?」 「…そうだな……。分かった、ちゃんと話してみることにする」 「そうしろ」 「…今日は本当にありがとな」 そう言って帰ろうとした俺に、キョンは迷惑がる風もなく、 「気にするな。またいつでも来いよ。連絡も、さっきアドレスを交換したりしたから出来るようになったんだろ?」 「ああ」 「今度来る時は、ハルヒに会える時にしてやれよ。あいつ、お前がいつ来るかってうずうずしてるからな」 「分かった」 苦笑しながら、俺は鼻先でコショーを振り、あるべき世界に帰還した。 |