あの時、



あの時、もしもああしていたら、なんていうことは考えたところで全く以って無駄にしかならないばかりか、場合によっては足かせにもなりうるような非常に厄介な考え方である。
しかしながら、俺もまた人間である以上、そんなことも考えちまうわけだ。
あの時、もしも俺があんな余計な一言を口にしなければ、こんな気まずいことにならなかったのかね、と。


普段の俺の行動パターンからして、俺は光陽園学院バージョンハルヒと古泉がいるあの世界から帰ってきてすぐ、長門に相談したと大抵の人間は思っただろう。
ところがそうはいかなかったのだ。
俺が使い慣れていないからなのかはたまたそういうものなのか、TPDDもどきは非常に使い勝手が悪かった。
副作用のように訪れる目眩が酷いことこの上なく、気力も体力も恐ろしく削り取られるのだ。
それでもまだ、長門とあれこれ話すくらいの余裕はあると思っていたのだが、口を開きかけたところで長門にストップをかけられちまった。
「あなたは疲労している。…話すのは明日でも構わないはず」
と言ってな。
長門がわざわざそう言ってくれたんだ。
俺としては従う他はない。
というか、そこで頑張ったところで長門が頷いてくれそうになかったからな。
長門と二人、大人しく帰途についた。
別れ際に長門が警告をひとつだけくれた。
「くしゃみに気をつけて」
実にシンプルである。
俺としてもこれ以上の跳躍をして心身を酷使したくはなかったので、
「ああ、分かってる。…何か他の世界だの妙なこと考えてなけりゃ平気なんだよな?」
「……確定は出来ない」
……精々くしゃみを堪えろと言うことか。
花粉症じゃなくてよかったと思うべきだろうかと嘆きつつ、俺は長門と翌日の約束をして別れた。
自分の部屋に入るなりベッドに倒れ込み、それからやっと、自分が思っていた以上に疲れていたことに気がついた。
このまま動きたくなくなるほどの倦怠感が全身にまとわりつき、まぶたが重く垂れ下がってくる。
俺はそのまま目を閉じ、朝までぐったりとそれこそ死んだように眠りこけたらしい。
翌朝妹に、
「キョンくん大丈夫ー? 今日は起きれる?」
と聞かれたくらいだったからな。
しかし、幸い一晩寝たらすっかり回復していたので、俺は妹に心配をかけちまったことを詫びつつ、早めに家を出た。
理由は勿論、長門に会うためである。
待ち合わせた部室に入ると、長門は当然のような顔をして座っていた。
「よう」
「…おはよう」
軽く挨拶なんぞ交わしつつ、俺は自分の椅子を長門の椅子のそばにまで持っていくと、
「まず、どうしたらいい?」
と聞いた。
長門は少しの沈黙の後、
「……解析は昨晩のうちに済ませてある」
「そうか。…で、どうなってるんだ?」
「推測が的中した。……あなたは現在、朝比奈みくる等がTPDDと呼称するシステムに酷似したシステムを所持している」
「やっぱりそうなのか」
「…ただ、そうなった原因は不明。遠因のひとつには涼宮ハルヒも考えられる」
「まあ、そうだろうな」
そうでもなけりゃ、説明がつかん。
そもそも、朝比奈さんと共に何度かTPDDの世話になったことだって、ハルヒのせいと言えることだからな。
「で、長門、お前ならくしゃみで他の世界に跳んじまうなんて状態を変えられたりしないか?」
「……不可能ではない。TPDDそのものからして、書き換えは可能。でも、亜種はまだ非常に不安定。不用意に条件の書き換えを行うと暴走の危険性もある。自然に落ち着くことも考えられるため、現段階での書き換えは推奨出来ない」
「そうか…」
だったら俺は精々くしゃみを我慢せねばならんわけだな。
元からそうちょくちょくくしゃみをしているわけでもないが、我慢する必要があるとなると難しく思えてくる。
しかしまあ、なんとかなるだろう。
「他に何か影響は出ないか? 俺自身についてだけじゃなくて、俺が他の世界に行ったりすることで、ってことだが」
「あなたの身体には現段階で観測済みの疲労の他には、大きな影響は認められない。よって、通常の疲労と同様の対処および警戒で構わない。他の世界への影響については、問題ない。誤差の範囲内と考えられる」
「…じゃあ、俺は好きに出かけたりしていいのか」
意外とあっけないもんだな。
「……あなたが戻ってきてくれるなら」
「戻るに決まってるだろ」
戻らずにどうするってんだ?
驚く俺に長門は、
「…それならいい」
とだけ呟くように言った。
それから、俺に向かって手を突き出すと、
「…あなたの携帯電話を貸して」
「別にいいが…どうするんだ?」
長門は俺から携帯を受け取りつつ、
「異世界にあってもこちらから連絡が取れるようにする。……必要なら、異世界の相手と連絡が取れるようにすることも可能。…希望は?」
「そうだな…」
どうせまたあの世界に行く約束もしちまったんだ。
そうなるとハルヒのことだ。
その後も何度も呼ばれることになるんだろう。
なら、事前に連絡できた方がいいに決まってる。
「頼む」
頷いた長門がかすかな声で聞き覚えのある響きの「呪文」を唱える。
それだけで、携帯には表面的になんの変化も生じなかったが、何か変わったんだろう。
「異なる世界への跳躍の際には絶対に忘れず持っていって」
「ああ、分かってる」
それを俺に固く握らせる長門は、どこか祈るような表情をしているように見えた。
…多分、俺の目の錯覚なんだろうが。
「ところで、」
と俺は小さく笑いかけ、
「あっちのハルヒたちとの会話は楽しかったんだよな?」
こくりと長門が頷くのを見ると、俺の方まで嬉しいような暖かな気持ちになる。
「じゃあ、今度またあっちに行ったら、用がなくてもお前に電話していいか?」
「…いい」
「ハルヒたちも喜ぶだろうな」
笑って手を伸ばし、長門の頭を撫でてしまったのは、なんとなくというやつだ。
場の流れと言い換えてもいい。
長門も、嬉しそうにしたから、別にいいと思ったんだが、キィッとかすかな音を立ててドアが開き、そこから顔を覗かせたやつの顔色からすると、まずかったんだろうか。
「あ……」
まずった、とばかりに顔を青褪めさせている古泉に、俺は軽く眉を寄せつつ、
「立ち聞きするほど趣味が悪かったか?」
「す、すみません。でも、さっき来たところなんです」
そうかい。
「まあ、口で言うほど気にしてないからお前も気にすんな。なあ、長門?」
俺が言うと、長門も頷く。
古泉は怖々部室の中に入ると、後ろ手にドアを閉めた。
その妙にびくついた仕草が昨日会った学ランの古泉を思わせ、知らず知らずのうちに笑みが込み上げてくるのを何とか堪えた。
「わざわざ早く登校してきてまで、なんの相談だったんですか?」
戸惑いを隠しもせずに聞いてきた古泉に、俺は逆に問い返す。
「聞いてなかったのか?」
「ですから、本当に来たところだったんです。入ろうとしたら、あなたが長門さんに…その、触れているのが見えて、驚いたんです」
うつむき加減に言う古泉は、どこかいつもと違っているように見えた。
一瞬、ここは本当に俺がいるべき世界なんだろうかという馬鹿げた疑念が首をもたげて来そうになったほど、おかしかった。
「…古泉」
「はい…?」
おどおどした、と表現していいような目を覗きこみつつ、俺は眉を寄せる。
「……古泉、だよな? 間違いなく」
確認先は困惑している古泉ではなく長門だ。
「間違いない」
だよな。
…全く、紛らわしい。
「あの…、どういう意味でしょうか」
「そのまんまの意味だ」
そう言いながら、俺は薄く笑った。
なんだ、やっぱりこいつもあっちの古泉と同じなんだな。
見栄っ張りで、強がりで、もしかしてこいつも泣き虫だったりするんだろうか。
それを聞く前に、やっぱり聞いてみてやろう。
そうしたら、きっとこいつの本当の表情が見える。
「なあ、お前も、俺のことを好きだったりすんのか?」
「っ……!?」
古泉が驚きに目を見開く。
その頬に赤味が差し、真っ赤に染め上げられる。
何か言おうとしてか唇は開かれるのだが、声は聞こえてこない。
やがて唇が引き結ばれ、くしゃりと顔全体が歪んだ。
泣きそうな、涙を堪えるような、顔。
何でそんな顔をされなきゃならんのだ?
というか、俺としてはドンビキされるかあるいは笑い飛ばされるのを期待してたってのに、なんだその反応は。
それじゃまるで、こいつが本当に俺を好きみたいじゃないか。
古泉の目に涙が滲んで見えたと思った時、古泉はそれを腕で覆い隠すようにしながらそっぽを向き、
「…っ、あなたは、本当になんて残酷な人なんだ…!」
と唸るように言って、まるでそれだけで限界だとでも言うように、部室を飛び出していった。
俺は唖然としてそれを見送るしかない。
「……だから言った」
というのは長門の言葉である。
「言ったって…」
「ほどほどに、と。昨日」
…そういえばそんなこともあったな。
聞き流したりせず、ちゃんと聞いておくべきだったらしい。
「……どうしたもんかね」
俺の呟きに返答はない。
自分がまいた種である以上、自分で何とかしろと言うことなんだろう。
途方に暮れたようなことを呟きながらも、俺はまだ大して悲観していなかった。
古泉のことだから、後で向こうから誤魔化しに掛かるに違いないと楽観視していたのだ。
それが大きな間違いであることは、その日のうちに証明されちまった。
放課後、またもや部室で顔を合わせた古泉は、ハルヒの手前、いつも通りに挨拶を寄越しつつも、決して俺と目を合わせないようにしていた。
微妙にそらされた目線に、言葉少なな様子からして、古泉が朝のショックから立ち直っていないことは明らかだった。
それでも、俺からはどうしようもない。
これ以上何か言って墓穴を掘るのも、古泉にうっかりととどめを刺しちまいそうになるのもまずいに決まってる。
となれば、自然に古泉が落ち着くのを待つほかはないだろう。
そんなわけで、古泉がゲームをしたがらず、黙々と宿題などやり始めてくれたおかげで、俺もまた居心地の悪い時間を過ごす破目になったのだった。
古泉のポーカーフェイスからは何も伺えない。
俺に対して怒っているのかということさえ、分からん。
目が合わないことと積極的に関わってこないことのほかはいつも通りでしかないから余計にだ。
こいつはどこまで嘘でどこまで本当で出来ているんだろうかと、恨めしく古泉を見つめながら感じたのが寂しさだなんてことは、断じて認めん。