偽名ならば、



偽名ならば、やっぱりジョン・スミスと名乗るしかない純日本人の俺である。
正直、いきなり言われても他に思いつかん。
山田太郎ではどこかの主人公だし、実在する誰か他の人間の名前を名乗るのは後で訴えられる危険性があるかもしれない。
名無しの権兵衛なんて名乗った日には、ゴンなどと呼ばれそうだし、そうなるとこれまたどこかの主人公である。
下手するとゴンじゃなくナナのほうを取って呼ばれるかも分からん。
だから、あえて他に候補を考えるならば絶対に訴えられないような相手の名前の拝借くらいだろうか。
身近な友人とかな。
しかし古泉一樹では俺には少々荷が重い名前だ。
というか、俺には似合わん。
他に何かあったか?
…そうだな、人の名前を拝借したりするのでなければ、スミスではなくドゥと名乗ることくらいしか思いつかん。
ジョン・ドゥ。
……スミスのが響きがいいな。
というか、ジョン・ドゥでは犯罪者であり被疑者じゃないか。
それならやっぱりジョン・スミスだ。
というわけで、俺は偽名としてそれを名乗るしかなかったわけである。


その日も俺は、特に変わったこともせず過ごしていたはずだった。
この場合変わったことというのは普段の生活から外れることという意味であり、宇宙人未来人および超能力者なんかと一緒に過ごすことは変わったことには入らないことを断らせてもらおう、念のため。
ただ少し変わったことがあったとすれば、俺がぼんやりと考え事なんぞしていたということだろう。
ぼんやりしていられたのはハルヒが珍しく古泉を連れ出していたからであり、朝比奈さんも鶴屋さんと共に先に帰ってしまった以上、部室の中には俺と長門しかおらず、俺は思うままぼーっとすることが出来たわけだ。
黙々と読書を続けている長門を見ていると、思い出されるものがあった。
…そう、あの世界だ。
ハルヒがただの女子高生として共学校になっていた坂の下の高校に通い、古泉はその御付の者よろしくハルヒに寄り添っていた。
朝比奈さんはSOS団に引きずり込まれることもなく書道部に所属していたし、長門は眼鏡を掛けたただの文芸部員だった。
あの世界に果たして俺は存在したのだろうか。
というか、俺があの世界に行く前に、あの世界は存在したのだろうか。
そして今もあの世界はあるのだろうか。
……分からんな。
考えたって仕方がないのだが、それはどこかで終りがないだけ考え甲斐のある命題のように思えた。
あるだろ? そういうことって。
百年以上も同じ問題を抱えて悩みまくった数学者がわんさといたんだ。
俺ひとりがちょっとの間こうしてぐだぐだと考え込んだって別に構わないだろう。
もし…あの世界がまだ存在するならいい。
俺が選んだことであの世界がなくなっていたらと思うと、もうそろそろ初夏だってのにうすら寒いものを感じずにいられない。
答えてくれるかどうか分からんが、長門に聞いてみようか。
そう思った俺が、口を開こうとした時だった。
ふっと何かが鼻先を掠めたような感覚がして、鼻がむず痒くなる。
これは来るな、と思うのとほとんど同時に、
「――っくしょん!」
とくしゃみが出たまでは覚えている。
しかし、その先が問題だった。
あまりに激しいくしゃみだったからか、頭がくらくらした。
それだけなら別に今までにだってなかったわけじゃない。
問題は、それがえらく激しく、そして驚くほど長い間続いたってことだ。
目も開けていられないほどぐらつく世界の中、俺はなにか記憶にある感覚を感じていた。
嘔吐感を呼ぶような目眩。
ぐるぐる回っているのは本当に俺の三半規管と脳が起こした情報伝達齟齬による錯覚なのか?
本当にそうなっているんじゃないのか?
不安は――恐ろしいことに、的中した。
やっと目眩が治まったと思うと共に、身体感覚が戻ってくる。
しかし、パイプ椅子に座っていたはずの俺は、何故か椅子のない空間に放り出されており、結果、そのまま無様に床にすっ転んだ。
大間抜けと笑わないでいただきたい。
誰だってこんな目に遭えばこうなるさ。
「痛ぇ…」
盛大に顔をしかめ、腰を擦りながら目を開けた俺は、これ以上はないというくらい目を見開いた。
驚きのあまり口もあんぐりと開けていたに違いない。
なにせ、視界に映るほかの連中もそんな状態だったからな。
さっきとはいくらか違う文芸部室の中、揃ってこっちを見ているのは、全く知らないわけではないものの見慣れてもいないSOS団の面々だった。
正直言って、とっさには状況判断も出来なかった。
それでも、その場にいる人間をとりあえず把握しようと俺は室内を見回す。
メイド服姿でびっくり眼になっている朝比奈さん。
驚きのあまりメガネがずり落ちそうになっている長門。
見覚えのある黒いブレザー姿で口までぽかんと開けているハルヒの髪は前に見た時より更に伸びて長くなっている。
笑みすら消失させ、眉を跳ね上げた古泉は当然のように黒い学ランを着こなしている。
そして――何か言おうと口をぱくつかせているものの、声すら出なくなっているらしい俺そっくりの誰かの姿があった。
「ジョン…!?」
というハルヒの呟きを聞くまでもなく、ここがどこか分かった気がした。
となると、俺そっくりの誰かはおそらく、この世界の俺なんだろう。
しかし、一体どういうことなんだ。
戸惑いながらも俺は床から体を起こした。
「久しぶり、でいいのか? ……ハルヒ」
もはや苦笑するしかない俺に、ハルヒはコクコクと頷いて見せた。
驚きすぎてまだうまく言葉も出ないらしい。
ぱんぱんと服についた埃を払い、俺は聞く。
「悪いが、俺にも状況がさっぱり分からないんでな。何か分かることがあるなら教えてもらえたら助かる」
そう言った俺に、この世界の俺の眉が寄る。
…というか面倒だな。
俺はジョンということにしてこいつはキョンと呼ばせてもらおう。
「何かって言われてもな…」
「俺はいきなりここに現れたのか?」
「あ、ああ。つうか、お前は……」
「ジョン・スミスって言ってもお前には通じないか? 多分だが……別の世界のお前だ」
薄く笑った俺にキョンは再び絶句した。
その間に話せそうなやつを求めて視線を巡らせると、古泉と目が合った。
「古泉、お前も久しぶりだな」
「そうですね。12月以来ですから…もう半年近いですね」
「今日は何日だ?」
「今日ですか? 今日は…」
わざわざ携帯まで使って確認してくれた日付は俺の認識しているものと同じだった。
本当に「平行」世界らしいな。
「楽観視もしてられないと思うから、確認させてもらうぞ」
そう言って俺はハルヒと古泉、それから長門と四人で答え合わせを始めた。
あの冬の数日間に何が起きたのかということを。
それを全く知らないはずのキョンと、ほとんど蚊帳の外に置かれていた朝比奈さんは戸惑う様子で俺たちの話を聞いているだけだったが、ハルヒたちから聞いてはいたらしい。
時折なにやら頷いたり「ああ」と呟いたりしている。
「…やっぱり、ここはあの時の世界の延長にあるわけか」
呟いた俺に、ハルヒが憤然と言う。
「何よ。あたしたちが消え失せたとでも思ってたわけ?」
「…正直に言うと、その可能性もあると後で思った」
「あんたね…。それ、先に分かってたんだったら今頃あんたをSOS団全員でフルボッコにしてやるところよ。あたしたちを犠牲にして帰ったってことになるんだから」
呆れと笑いを含んだ声で言ったハルヒをとりなすように、古泉が言う。
「実際のところは分かりませんよ。あるいは僕たちとこの世界だって、彼が突然現れたように突如として生じたのかもしれません」
この「彼」というのは俺のことではない。
キョンのことである。
ハルヒたちの話によると、俺がエンターキーを押した直後、俺の姿が消え失せたのだそうだ。
それに驚き、ハルヒがはしゃいでいる間に、再び俺が現れた。
「てっきり失敗して戻ってきたのかと思ったんだから」
とはハルヒの言である。
ところがそれは俺――ジョンではなかった。
ジョンと記憶を一にしない、この世界の俺だったのだ。
そいつに、その三日間の記憶はなかった。
しかし、それ以前の記憶はある。
これはどういうことか、と考えた時に古泉の出した結論が、
「ジョン氏という存在がこの世界からいなくなってしまったということは、この世界における彼に関する記憶が全てなくならなければならないということでしょう。しかし、そうはならなかった。そうなっては、そもそも彼がこの世界に現れるということ自体発生しなかったことになってしまいますし、そうであれば彼自身の記憶からもそのことは消えたでしょう。あるいはこの世界ごと消えていたかもしれません。そうならなかったということはつまり、この世界が存続しなければならないだけの理由があり、世界を存続させるためには彼の代わりとなる存在が必要となったということです。よって、それまでの記憶を携えて彼は発生したのではないでしょうか」
長い上に何が言いたいんだか本人以外にはよく分からないような内容ではあるが、一応頷けた。
この世界が存在しないということになってしまっては、俺が後になってもう一度訪れて過去の自分を助けるなどといったイベントをこなせないことになるからな。
そうなっては困るし、大きな矛盾が生じることになる。
矛盾と言うよりはパラドクスと言った方がいいのかも知れないが。
「自分がほんの一瞬前に発生したなんてことを言われたって、信じられなかったがな。お前がこうして目の前にいるってことはハルヒたちの与太話だなんて言ってられないらしい」
嘆息するように呟いたキョンに、俺は苦い笑いを浮かべ、
「そりゃ、悪かったな。だが、それまでの人生があるなら別にいいだろ。その後に積み上げたものだってあるんだろうし」
「お前ならそう簡単に割り切れるか?」
「…どうだろうな」
考え込んだ俺に、キョンはすぐに噴出した。
「悪い、ちょっと文句をつけたくなっただけだ」
ということは?
「気にしてねえよ。どんな経緯であれ、俺はここにいるんだからな。…幸か不幸か」
付け足された一言に、ハルヒが眉を経てつつ、
「SOS団にいられることを至上の喜びに感じなさい! おまけに、今日は念願の異世界人に会えたんだからね!」
念願も何も二度目だろう。
と思ったのは俺だけじゃなかったらしい。
「念願も何も二度目なんだろ」
呆れを含んだ調子でキョンが言い、俺は思わず噴出しそうになった。
なるほど、こいつは本当に「俺」だな。
「それにしても、困りましたね」
古泉が真面目くさって言い、俺も頷いた。
「前は理由も原因も分かったし、あの時点でもある程度見当はついてた。が、今回は本当にさっぱりだ。なんでこんなことになっちまったんだか」
ハルヒが異世界旅行物を読んだりしていたような記憶もないし、それっぽい発言をしていたという覚えもないのだが。
「長門が助けに来てくれるかどうかするのを待つしかないか」
嘆息した俺に苦笑を寄越したのは古泉で、
「随分落ち着いてらっしゃいますね」
「そりゃな」
時間を移動した回数はもはや覚えていないし、異世界とかいうやつだって閉鎖空間をひとつの世界と考えれば結構な回数行っていることになる。
ことに、この春先はごたごたしてたからな。
「そんなに大変だったんですか?」
大変だったとも。
全部語りつくしたら文庫本一冊くらいじゃ足りんぞ。
「是非お聞かせ願いたいところですが、その前に」
古泉はやけに真剣な表情で俺に顔を近づけてきたかと思うと、
「……先ほどの話をうかがった時から疑問に思っていたのですが、閉鎖空間への出入りはともかくとして、その時間移動というのは本当に人体に影響を及ぼさないものなのでしょうか?」
「……どう言う意味だ?」
「いえ、少しひっかかるものがあったんです。そちらの世界の朝比奈さんがご使用になる時間移動システムの名前は、随分と物騒な響きを持っていましたよね?」
「タイムプレーンデストロイドデバイスのことか?」
「そうです。ざっくりと直訳してしまえば、時間平面破壊装置といったところになるのではありませんか?」
「…多分、そうだろうな」
「おまけに、それを用いる際、使用者ですらない、言ってみれば同乗者のような立場であるあなたの体にさえ、負荷が掛かるんですよね?」
「目眩とかのことだな」
「ええ。そこからひとつ、考えられることがあります。時間平面破壊装置には、使用者に何らかの後遺症を起こさせる可能性があるのではないでしょうか」
「そんなばかな」
思わずそう言った俺の頭にあったのは、天使の如き朝比奈さんの微笑である。
あの方が俺の体に悪影響を及ぼすようなことをするはずがない。
それに、そうだ。
「それを言ったら朝比奈さんこそ後遺症を起こしてるはずじゃないのか? 俺なんかよりよっぽど時間移動を経験しているんだからな」
「後遺症を起こさない因子を持っているから時間移動を許可されたという可能性もあれば、後遺症を防ぐようななんらかの措置が講じられていると言う可能性も十分にあります。あるいは、後遺症ではなく、あなた自身にその装置が構築されつつあるということなのかもしれない」
「…なんだって?」
今度こそ驚くしかない俺に、古泉は今頃になって、
「あくまでも、可能性の話、推理とも言えないただの妄想ですよ」
と言って自己防衛を図りつつも言葉を続けた。
「TPDDと呼ばれるその装置は、無形で頭の中に存在するというようなようなことを長門さんが仰っていたそうですね」
「ああ」
その話は先ほど古泉が妙に興味を持ってあれこれ聞いてきた時に思い出してしたことだった。
あの時は何が気になっているのかと思ったが、あの時から既に色々と考えていたわけか。
「そうであれば、何度も使用するうちにあなたの中に同じようなシステムが構築されたとしても不思議ではないのでは?」
「だが…そんな簡単にいくものか? だったらかえって、俺に何度も時間移動をさせたりしなかったんじゃないかと思うんだが…」
「ですから、未来人にとっても不測の事態だったのかもしれません。あるいは、それすらも規定事項だったとしても僕たちには分かりません。しかし、何を言ったところでやはり妄想の域を出ませんね」
そう苦笑した古泉に俺はむっつりと考え込む他ない。
これが規定事項だったなら、かえって安心かもしれない。
朝比奈さんが助けに来てくださるという可能性も追加されるということだからな。
それにしても、俺の中にもTPDDが出来かけているとしたら、それはそれで不安を呼び起こす。
別にそれが悪いというよりも、使い方も分からないままそんなものを抱えているのは、いつ爆発するとも知れない爆弾を手にしているようなもんだからな。
その暴発の結果が今回のことかもしれない、と思うとぞっとした。
確かにこのところ暑くなってきてはいるが、寒気を催すような恐怖体験は必要ないぞ。
「ねえ、」
熱心に沈思黙考していたのを打ち破るほど気の抜けた声で言ったのはハルヒだった。
「ジョンもそっちの世界の古泉くんと付き合ってんの?」
「……は?」
一瞬何を問われたのかと思った俺の目の前で古泉は顔を赤らめ、キョンはそれ以上に顔を赤くした。
俺としては自分と同じ顔が赤面しているのよりは、古泉が頬を赤く染めているというレアな映像を見て現実逃避を図りたいところである。
「ハルヒっ!!」
怒鳴ったキョンにハルヒは悪びれもせず、
「だってあんただって気になったんじゃないの? 古泉くんとジョンが仲良く話しこんでるからって難しい顔してたくせに」
「し、してない! するわけないだろ!!」
…してたな、そう言えば。
まさか嫉妬してるとは思わなかったせいで、てっきり一緒に考えてくれてるのかと思ったんだが、どうも違ったらしい。
やれやれ、と肩を竦めた俺は、
「気が付いてやれなくて悪かったな。が、俺は別にお前の古泉を取ったりするつもりはないから安心してくれ」
とキョンに言ってやったのだが、キョンは今度こそ真っ赤になったまま絶句した。
古泉はくすくすと笑いながら、
「妬いてくれたんですね」
なんてキョンにちょっかいを掛けたりしている。
と言うかお前、前に会った時、ハルヒが好きだって言ってなかったか?
「そんなこと言いましたっけ?」
けろっとした顔で聞き返す古泉に俺は脱力するしかない。
だめだこいつ、俺の知る古泉とは違いが多すぎて扱い辛い。
脱力した俺を見て、くっくっと楽しげに笑った古泉だったが、キョンに問われると弱いらしい。
「そんなこと言ったのか?」
と睨まれ渋々と、
「言った…かもしれませんね」
はっきり言ってたぞ。
「…言ったんだろ」
じとっと睨まれて、古泉は肩を竦めた。
「すみません、確かに言いました。でもそれはあなたに出会う前ですよ」
「ジョンとは会ってたんだろ…」
怨みがましく言うキョンに、古泉はため息を吐いたかと思うと、にっこり笑って立ち上がり、びくつくキョンの腕を引っ掴んだかと思うと、
「すみません、ちょっと話し合ってきますね」
と抵抗するキョンを連れてさっさと部室を出て行ってしまった。
「……大丈夫なのか?」
思わず聞いた俺に、ハルヒは軽く笑って、
「大丈夫よ。あんな風に出て行かれるとまるで古泉くんがキョンのことをお仕置きでもするみたいでしょ? でも、違うから」
違うのか?
「気になるなら見に行く? 立ち聞きくらいなら出来ると思うけど」
……気になりはする。
しかし、聞いてはならないような気もする。
「ちなみに、お前は知ってるんだよな。一体何がどう違うんだ?」
「そうね…ジョンになら言ってもいいかしら」
くすっと笑ったハルヒは、ちょいちょいと俺を手で招くと、口の横に手の平を添えて、内緒話をする形を作った。
そうして笑いを含んだ声で、
「あのね、古泉くんって見ての通り外面がいいのよ」
それは確かに見たままだな。
こっちでも、腹が立つほど品行方正な優等生をやってるようじゃないか。
「でも、それはあくまでも外面であって、中身はそうでもないわけ」
「……そうなのか?」
「あんたのところの古泉くんもそうかは知らないわよ? でも、あの古泉くんはそうなのよ。前に一度偶然見ちゃったんだけど、結構面白かったわ。怒ってるキョンに取り縋って泣く古泉くんって」
言われるまま想像しかけて一瞬思考が停止したが、すぐに放棄して再起動する。
そんなもん想像出来るか。
いや、したくもない。
「……すまん、ちょっと想像出来ないんだが…」
「まあ、嘘だと思うなら二人が帰ってくるのを待って古泉くんをよく観察してみたらいいわ。多分、目元を真っ赤にして帰ってくるから」
とハルヒは悪戯っぽくウィンクを寄越した。
それから、朝比奈さんが淹れてくださった異世界であってもやはり美味しいお茶をすすっていると、
「で、結局ジョンはそっちの古泉くんと付き合ってないの?」
と既に忘れていた話題を蒸し返された。
「付き合ってねえよ。俺はノーマルな人間だ」
「キョンも似たようなこと言ってたけど、結局古泉くんにほだされてたわね…」
懐かしむようにハルヒが呟き、俺は思わず眉を寄せる。
それは何か。
俺もいつかホモになるとでも言いたいのか。
「ホモは差別用語でしょ。ゲイって言ってあげなさいよ」
そういう問題じゃねえ。
「別にいいと思うけどね。少なくとも、こっちの古泉くんとキョンはいつも円満で見てて面白いわよ。今日はあんたがいるから随分大人しいけど、そうじゃなかったら無意識に二人の世界を作られたりして大変なんだから」
「……」
何が面白くてハルヒはそんなもんを観察してるんだろうな。
「でも、見てたら楽しくなるんですよ?」
と言ったのは朝比奈さんだった。
にこにこと柔らかく微笑みながら、
「キョンくんも古泉くんも幸せなんだなって分かるから」
「はあ、そういうものですか…」
「うん。…ね、長門さん」
長門は本から顔を上げると、
「…恋愛小説は読まなくていい状況」
と呟いて本に視線を戻した。
文学少女はSFが好きだという割に、実際SF染みた状況になるとどうしたらいいのか分からなくなっているらしい。
さっきからずっと口数が少ない割に本が読み進んでいない。
ということはこっちの会話なんかに気をとられているということなんだろう。
分かりやすくて可愛いもんだな、と思ったところで、不意に俺の携帯が鳴った。
俺が驚いて、びくりと身動ぎしたのも当然だろう。
ここは異世界であって俺の携帯が鳴るはずなどない。
たとえ鳴るにしてもそれはキョンの携帯と同時でなければおかしいだろうに、カバンと一緒に放り出されたままのそれは沈黙を続けている。
驚きながらポケットから引っ張り出した携帯のサブウィンドウには、はっきりと「長門」と表示されていた。
「長門!?」
『…繋がってよかった』
ぽつりと落ちた声に安堵する。
「ああ、全くだ。時間はあるか?」
『大丈夫。一度繋がった以上、確保できる見込み』
「助かった。…まず、どうやったら帰れるのか聞いてもいいか?」
「だめよ!」
と言ったのはハルヒだった。
俺が驚いている間に俺の手から携帯を奪い取ったかと思うと、
「あなたがジョンの世界の有希? 宇宙人ってほんと?」
などと聞いている。
長門がどう答えているのか想像も出来ないような問いかけを繰り広げた後、今度は本から顔を上げていた長門に携帯をパスする。
「あ、あの……長門有希です…」
とおっかなびっくり喋る長門と言うのも見ていて微笑ましいのだが、本当に大丈夫何だろうな。
このままタイムアウトなんてことになったら目も当てられんぞ。
しかし、興奮に心なしか頬を上気させた長門がなにやら話し込んでいるのを見ては止めることも出来ず、そうなると長門から朝比奈さんに携帯が渡されるのを止めることも出来なかった。
幸い、と言うべきか、朝比奈さんは早々に会話を切り上げてくださり、やっと俺の手に携帯が戻ってきた。
「あー……長門?」
『…楽しかった』
「……よかったな」
電話の向こうで頷く長門が見えたような気がした。
「で、改めて聞くが、俺はどうすればそっちに戻れるんだ?」
『こちらに戻りたいと考えながら、くしゃみをすればいい』
「……くしゃみ?」
なんだそりゃ。
俺はいつの間にハクション大魔王の関係者になったんだ?
『あなたを直に調べたわけではないからその原因は断定出来ない。でも、発動条件がくしゃみなのは確か。あなたの状況から推測した』
確かに、この世界のことを考えながらくしゃみをしたが…本当なんだろうか。
『信じて』
……信じるしかないんだろうな。
「ジョン、一体なんだって言うのよ」
興味津々のハルヒに問われて説明すれば、朝比奈さんは慌ただしく、
「あたし、調理室に行ってコショーもらってきますね!」
と出て行ってしまったし、ハルヒはけたけた笑いながら、
「くしゃみって、なんか冴えないわね。でも、そういうところもなんだかジョンらしいわ」
などと好きなことを言っている。
長門も若干残念そうだ。
…俺だってどうせならもう少し簡単かつスマートな方法で移動したいわい。
「で、長門、なんでこんなことになっちまったのかとか、これが一時的なものなのかとか、分かるか?」
『推測でよければ』
「それでいい」
『……まず、これは一時的なものではないと推測される。理由は、涼宮ハルヒの能力などの外的要因によって引き起こされたものではないと考えられるから』
驚くべきことに、古泉の推測は大体のところで当たっていたらしい。
俺の頭の中にはTPDDそのものが出来かかっているわけこそないものの、TPDDの亜種とでも言ったら丁度いいような代物が既に出来上がっているようなのだ。
勿論、長門が精査したわけではないので推測だし、実際にはもっととんでもないものなのかもしれないが、現時点ではそう考えられるということのようだ。
加えて、それは本当に偶発的なことだったらしい。
朝比奈さんたち未来人さえ、考えていなかったほどにレアなケースであるらしく、
『未来から観測している彼女らでさえ、疑問視していた』
という。
しかし、それがなんでよりによって俺に起きちまったのかということについてはやはり、
『そこに、涼宮ハルヒの能力が全く関係していないとは言い切れない』
とのことだ。
そんなことだろうとは思ったよ。
『とにかく、詳しくはこちらに帰ってきてから調べたい。……協力を』
「ああ、分かってる」
帰れたら協力だってなんだってしてやるさ。
『……待ってるから』
そう言って長門が通話を切った。
試しに着信履歴を表示させて見ると、そこには長門の名前こそあるものの、何の番号も表示されなかった。
一体どういうことをやったんだか分からないが、それこそ考えるだけ無駄って物だろう。
「コショーもらってきましたぁ…」
息を切らしながら朝比奈さんが駆け戻ってくるとすぐに、キョンと古泉も戻ってきた。
ハルヒが言っていた通り、古泉の目元が確かに少し赤くなっている。
キョンはと言うとなにやら疲れた様子を見せているのだが、……本当に泣いて取り縋られていただけなんだろうなと疑いたくなるような有様である。
シャツには皺が寄っているし、よっぽど疲れたのか、ぐったりと長机に上体を投げ出しているのを見ると、どんな目に遭わされたのかと聞きたくなるくらいだ。
俺がまじまじとキョンを見つめている間に、古泉はハルヒからざっと説明を受けたらしい。
「僕の想像は、なかなかいい線まで行っていたようですね」
と嬉しそうに言うのはやっぱり俺の知る古泉とは違う。
胡散臭さのない古泉ってのは意外とこんなもんなんだろうかね、と思いながら俺は小さく笑って言った。
「それじゃ、どうやらちゃんと帰れるらしいから、俺は帰らせてもらうことにする。もしまた可能なら、」
「絶対また来なさいよ!」
ハルヒが俺の言おうとした言葉を横取りするように言ったので、俺も笑いを返すしかない。
ついでとばかりに、
「お幸せにな」
とキョンと古泉に皮肉っぽく言ってやれば、キョンがまた顔を真っ赤にし、古泉もいくらか顔を赤くしながらも、
「…ありがとうございます、と言っておいた方がいいんでしょうかね」
「好きにしろよ」
と笑った俺に苦笑を寄越した古泉は、なにやら意味ありげに、
「……そちらの僕にもどうぞよろしくお伝えください」
「ああ」
とりあえずそう答えておいた。
すると今度は長門が、
「…元気で。また会えるのを楽しみにしている」
と言い、朝比奈さんも俺にコショーを手渡しつつ、
「あたしも、またジョンくんとお話したいですから、きっと来てくださいね」
と言ってくださった。
ハルヒはいっそ清々しいまでに俺が再訪すると信じているらしい。
「今度は何か手土産でも持ってきなさいよ」
と軽く言っただけだった。
別れなんてムードですらなく、ただ単に遊びに来た友人を見守るような扱いだ。
だが、それだけにハルヒらしい。
「そうだな、出来たら持ってくることにしよう」
「宇宙人の髪の毛とか未来人の涙とかそういう面白いのにしてよ」
「無茶言うな」
特に後者は無理だ。
俺が朝比奈さんを泣かせられるはずがない。
というか、どうやって保管しろと言うんだそんなもん。
これ以上無理難題を押し付けられる前に、と俺はコショーの瓶を開け、鼻先でいくらか振り出した。
それだけで鼻がむずむずしてくるのをじっと堪え、十分に耐えたところで、帰ることだけを考える。
「――ぃっくしょん!」
そして目眩に襲われて、俺は目を閉じた。
この酷い不快感に安堵する日が来るなんてな。

目を開けると、そこは部室だった。
いくらか日が傾いているが、いつもと変わりない。
長門は眼鏡を掛けておらず、ついでにいうと本を持ってもいなかった。
俺の手の中にはコショーの瓶がまだ残っており、さっきのがただの夢なんかじゃないと示している。
「長門…帰ってこれたんだよな?」
「そう。…お帰りなさい」
「…ただいま」
そう笑ったところで、ふと思ったのは古泉のことだ。
以前、朝比奈さんとの時間移動の話をした時にも随分と熱心に話を聞いていたようだから今日の話をしてやれば喜ぶだろう。
その時もし俺が、
「お前、俺のことを好きだったりするのか?」
なんて聞いたら、あいつはどんな反応をするんだろうな。
意地の悪い笑みを浮かべた俺に長門は、まるで忠告でもするように、
「…ほどほどに」
と言ったが、……やっぱり、見抜かれていたんだろうか。