取り戻した幸せ



彼とちょっとしたケンカをして、なんとか仲直りをした。
彼は痴話喧嘩とも呼べないなんて言っていたし、仲直りだって単純なものだったと笑うけれど、僕にとってはそんな軽々しいものじゃなかった。
本当にこれで彼に愛想を尽かされたらと思うと恐ろしくて、情けない話だけれど本当に怯えていたのだ。
なんとか仲直りが出来てよかったと、心の底から安堵した。
そう話した僕に、彼は呆れた顔で僕の頭を撫でてくれた。
「お前ってほんとに馬鹿だよなぁ」
しみじみとそう呟いて、それでも優しく、
「俺がそう簡単にお前を嫌いになるわけないだろ。……こんなに愛してるのに」
恥かしそうに言いながら、彼の方からキスをしてくれた。
それがどんなに僕の心を穏やかにしてくれ、また彼への愛しさを募らせるものか、彼はきっと分かっていない。
それが彼のいいところだと自分に言い聞かせる。
心配するよりも信じたい。
嫉妬するよりも愛したい。
出来るだろうかと迷うよりはそうしようと思った。
彼は僕を愛してくれている。
僕を信じきってくれている。
それなら僕も、と思うのだ。
ともあれ、僕たちの過ごし方は、ほんの少しだけれど変わった。
朝は少し早起きをして、彼に会いに行く。
彼の方も早く起きて家を出てくれるから、彼の家に着くまでに会えることの方が多い。
でも、
「たまには寝坊してもいいんですよ? 僕が起こしに行きますから」
と言うと、
「流石にそこまで寝てられるか」
そう不貞腐れた彼が唇を尖らせたまま、
「それに、俺だってお前に早く会いたいと思ってるんだからな。おちおち寝てられるか」
なんて、可愛らしいことを言ってくれる。
愛しくて可愛くて堪らない彼の手をさり気なく取って、ゆっくりと高校へ向かう。
彼は少しばかり恥かしそうな顔をしながらも、そっと手を握り返してくれる。
「どうせ知られてるんだったら、隠すだけ馬鹿馬鹿しいだろ。それに、こういうもんは堂々としてたらかえってあれこれ言われないもんなんだよ。別に悪さをしてる訳でもなし、胸を張ってりゃいいんだ」
というのが彼の言だ。
もっとあれこれ凄いことをしていると思うのに、手を繋ぐだけのことが酷く嬉しい。
本当にこの人が愛しくて、大切で、堪らない。
僕は手を握るのとその力を緩めるのとを繰り返しながら、
「好きです」
と呟くと、彼も僕の手を握り返して、
「ん、俺も好きだ」
と返してくれる。
幸せだ、と小さく口の中で転がした僕に、
「お前だけだと思うなよ?」
と彼は悪戯っぽく笑った。
登校してからも、僕は自分の教室には行かず、彼のクラスで時間を過ごす。
登校途中からずっと続いている他愛もない会話をしながら、彼の髪に触れてみたり、指を絡めてみたりする。
それをちらちら見られたりもするのだけれど、気にしないと決めた。
「ちょっと見っとも無いというか、迷惑だろうなって気はするんだがな」
と彼は苦笑するけれど、僕の手を離しはしない。
むしろ挑発的に僕の指先に口付けながら、
「…キス、とかまですると流石に鬱陶しいだろうから、それは我慢、な?」
なんて言う。
「…誘いながら言う台詞じゃないですよ」
不貞腐れて呟けば、彼は愉快そうに唇を歪めた。
「じゃあ後で」
「はい」
「…そろそろ時間だぞ」
「そうですね。……名残惜しいですが、これで」
そろりと彼の指を解いて、彼の机から離れようとしたところで、きゅっと袖を引っ張られた。
「え?」
振り向くと彼は小さく笑って、
「昼には俺がそっちに行くからな」
と言ってくれた。
「はい、お待ちしておりますね」
にこにこどころかにやにやしながら僕は自分の教室に戻った。
席についたところで、狙ったようにチャイムが鳴る。
慌ててノートや教科書を用意して、無理矢理頭を切り替えた。
次の休み時間には、またぞろ生徒会だかなんだかの用事を抱えた役員なんかが来るのだけれど、それは笑顔で丁重にお断りさせてもらう。
しつこいのには、
「僕は役員でもなんでもありませんよね」
と少々強めに断らせてもらった。
そもそも、そういうのは僕の仕事ではなく、SOS団優先ということで免除のはずなのだから。
それでも来るということは、やっぱり涼宮さんか誰かが関与している可能性が高いと思いながら、大部分を断る。
断らないのは、簡単で瑣末なものだけだ。
それで多少はやってあげてますよというポーズを作り、極力すぐに済ませてしまう。
ようやくやってきた昼休みがどんなに待ち遠しかったかは言うまでもないだろう。
ひょこりと顔をのぞかせた彼は、僕を見つけるとふわりと微笑んだ。
そんな顔を不特定多数の人間がいるような場所で無防備にさらされると心配になるのだけれど、それを言うとまたへそを曲げられそうなのでぐっと堪える。
「古泉っ」
弾む声で僕を呼んで、いそいそと近づいてきた彼の手には、大きめのお弁当がある。
「今日はどこで食べる?」
そう聞いてきた彼に僕は少し考え、
「屋上はどうです? 天気がよくて気持ちいいと思いますよ」
「人気もないし?」
「その通りです」
悪びれもせずに頷いた僕に、彼はどこか偽悪的に唇を歪め、
「早く行くぞ」
なんて言いながら、僕の手を取った。
手を繋いだままで廊下を歩き、本来なら立ち入り禁止の屋上に侵入する。
服が汚れるのも構わず座り込んで、お弁当を広げた。
色とりどりのおにぎりが6つばかりに、玉子焼き、ウインナー、青菜の胡麻和え、漬物なんかがぎっしり詰め込んである。
「全部あなたが作ってくれたんですか?」
「まあな。だから、味の保証はせんぞ」
「そんなこと言って…、いつも美味しいじゃないですか」
「今日もそうとは限らんだろ。不味かったら言えよ」
「そうしたら、どうにかしてくれるんですか?」
「ん?」
「たとえば、あなたが食べさせてくださるとか」
「あーんして、ってか?」
声に笑いを滲ませた彼は、
「そんなもんでいいなら、いくらだってしてやるよ」
と言いながら、胡麻和えを箸できれいにつまみ、
「ほら、あーんしろ」
とやってくれる。
「あーん」
とあけた口に放り込まれたそれは、さっきよりも随分甘く感じられた。
「おいしいです」
「その顔見りゃ分かる」
澄ました顔で言った彼は、
「俺も」
と口を開ける。
何をと指定されなかったので、一口大にした玉子焼きを口に入れると、彼はくすぐったそうに笑って、
「甘くしすぎたかと思うな」
なんて言った。
ゆっくりと食事をしたいような、でも早く食べ切ってしまいたいような気持ちになりながらも、食事を終える。
それでもまだ時間があったのを幸いと、彼を抱き寄せた。
「重いぞ」
と抵抗しようとする彼を、
「ちっとも重くありませんよ」
と制して、膝に乗せてしまえば、彼の体温が少しだけれど伝わってくる。
彼の匂いがして、そのまま目の前にある彼の唇にむしゃぶりつきたくなる。
それは彼も同じなのか、どこか潤んだ瞳をこちらに向けて、薄く唇を開いていた。
「…ここなら、見えませんかね」
ごくりと生唾を飲み込みながら尋ねると、
「多分な。…ってか、お前、生唾……」
からかうように笑いながら、彼は僕の首に腕を絡めてくる。
「しょうがないでしょう?」
「ん……そういうことにしておいてやろうか」
「ええ、お願いします」
そう話している間にも僕たちの顔は近づき、そっと唇が重ねられる。
「んぅ……もっと…」
低く囁いた彼に答えるまでもなく、キスは自然と深くなる。
唇を舌先でくすぐって、それで足りなくなると舌を絡めて、吸って、彼の口内にまで侵入する。
くちゅくちゅといやらしい音とはぁはぁと荒くなるばかりの呼吸に煽られて、きつく抱き締めあう。
「…あー……五時間目、サボりてぇ…」
とまで言ってくれたのは嬉しいけれど、
「そうもいきませんしね」
「だな。下手に内申点を下げられても困るし」
「そうですね」
「…ただでさえ、お前と同じ大学なんて言うと高望みだろうしな」
ぽそりと呟いた彼が愛しい。
「あなたならきっと大丈夫ですよ」
「だといいんだがな。悪いが、今度勉強教えてくれ。一人じゃ自信がない」
「ええ、いつでも」
「約束だからな」
「はい」
にこにこと頷きながら彼を解放し、立ち上がる。
腰や足についてる埃を軽く払ってあげると、
「…すけべ」
と返されたけれど、
「そんなこと言うと、もっと本格的に触りますよ?」
「それは断固として断る。お前に本気で触られたらどうなるか知れたもんじゃない」
「褒め言葉ですよね。ありがとうございます」
「褒めてねえよ」
そう言いながらも彼は笑っていて、
「ほら、とっとと戻るぞ。時間がない」
と言って背中を向け、そのままどんどん歩いていってしまう。
そうしないと名残惜しくて離れられなくなるだろ、なんて可愛いことを聞かされたのは先日の話だ。
言わなくても分かるのに、と思いながら、わざわざ言ってくれた優しさが嬉しくて堪らなかった。
そんな風にしてなんとか一日やり過ごして、待望の放課後を迎えた僕はいそいそと彼の教室に向かう。
彼のクラスもホームルームは終っていて、荷物をまとめ終えていた彼はまた眩しいくらいの笑みを見せてくれる。
「待たせたな」
「全然待ってませんよ。涼宮さんは……いらっしゃらないんですね」
「あいつなら、6時間目が終った途端逃げてたよ」
また何を企んでるんだか、と呆れながら、彼は僕の隣りを歩き始める。
そうして、二人で部室に向かったのだけれど、今日の部室は様子が違った。
涼宮さんや朝比奈さん、長門さんといった団員が揃ってのはともかく、どうして谷口氏や国木田氏、阪中さんといった彼のクラスメイトの面々に、鶴屋さん、コンピュータ研究部の部長氏までいるのだろうか。
そう驚き、戸惑ったのは一瞬で、すぐにピンと来た。
なるほど、この面々が暗躍していたのか、と。
苦笑している僕の横で、彼は驚いた顔のままだ。
僕が見つめているのに気付いて、むっとした顔をしたのは、自分が分かってないことを僕が分かったのはつまらない、ということだろう。
可愛いな、と思ったところで、涼宮さんが悪戯っぽく、
「種明かしはいるのかしら?」
と告げた。
それからされた話は驚くべきものだった。
何かしたんだろうとは思っていたけれど、まさかそこまで綿密にあれこれ仕組まれていたとは、と正直脱帽して、怒る気にもなれない。
苦笑するばかりの僕にかわってか、彼は怒りを堪えながら話を聞いていた。
血管が切れないかと心配になるくらい、怒っていた。
「ま、そんなわけだから、一応お祝いのつもりだったんだけど、ちゃんとしたお祝いにはなってない気がするから、これあげるわ。みんなでちゃんとカンパしあったのよ」
と言いながら涼宮さんは可愛らしいラッピングバッグを彼に差し出してきた。
「カンパって…お前な……」
「ほらほら、開けてみなさいよ」
そう急かされて、彼はバッグを開き、硬直した。
一体何が入っていたんだろうか。
僕は彼の隣りからそれを覗き込み、流石に顔を引きつらせた。
そこに入っていたのは、「お徳用」と書かれたコンドームの箱とローションのボトルだった。
「やっぱり残っちゃうものよりは消耗品の方がいいかと思ったのよ。後々まで残る記念品なんて、要らないものだと本当に邪魔なだけだしね! だから、あんたたちに必要そうなものにしてあげたわ!」
感謝しなさいとばかりに言ってのけた彼女は本当に凄い。
僕なんかは感心するばかりだ。
でも、彼にとってはそれこそ、堪忍袋の緒が切れる発言だった。
「っ、お前は本当にいい加減にしろ!! そんな風にされて喜べる奴がどこにいる! お前はもっと常識ってもんを身につけて来い!」
見たこともないような剣幕で怒鳴り散らした彼に、彼女もむっとした顔で、
「何よ! お祝いしてあげたんだから、もっと喜びなさいよね!」
とやり返す。
これは不味い、とその場にいた他の誰もが思った。
僕だってそうだ。
涼宮さんの機嫌を損ねると不味いということよりも、ここで彼が怒りに任せて何か酷い言動をしてしまった場合、後で一番苦しむのは彼だと思うと、止めなければならないと自然に思えた。
僕は二人の間に割って入ると、彼を正面からきつめに抱き締めた。
「落ち着いてください…っ」
「離せ古泉! あの馬鹿、一発くらい食らわせてやらんとまたやらかすぞ!」
「そんなことしたら、あなたが後で一番落ち込むんですから、やめてください!」
暴れる彼を無理矢理押さえ込んで、人前だというのにも関わらず、強引に口付けた。
「んんっ…!?」
驚きに目を見開いたままの彼を酸欠状態になれとばかりに抱き竦め、深く口付ける。
周囲のどよめきも、驚ききった涼宮さんの顔も気にならないふりをして、彼が抵抗出来なくなるまで、彼の体から力が抜けるまで抱き締め、ほんの少しだけれど彼の弱いところを撫で、くすぐる。
ようやくぐんにゃりとなった彼を、今度は支えるために抱き締めなおすと、彼は恨めしげに僕を見上げて、
「…この、ばか……」
とすこぶる可愛らしく毒づくので、
「すみません、非常事態と見まして、手段を選ぶ余裕もありませんでした」
「全く……部長氏も谷口もドンビキしてるぞ」
と言われたけれど、彼の手は僕のブレザーをぎゅっと掴んでいて、
「…もしかして、まだ足りませんでした?」
と小声で囁くと、真っ赤になった彼に、
「調子に乗るな!」
という言葉と共に、肘鉄を食らわされてしまった。

ああ、本当に幸せだなぁ…。