柔らかく幸せな



今日は、前々から約束していた通り、彼とデートをする日だ。
そう思うだけで嬉しくて、今週はきっと随分しまりのない顔をしていたことだろうと思う。
彼も似たような気持ちだったのか、今週は表情が柔らかくて、いつにもまして愛らしかった。
それなら、デート本番の今日は、一体どれほどに可愛いのだろう。
うきうきしながら家を出られるのも、彼が女性になっているのではないかという心配をしなくていいせいだろう。
このところ、彼は女性になることがない。
そのこと自体にもほっとしている。
何せ、女性になった彼は本当に眩しいくらい魅力的で、僕以外の不埒な輩もふらふらとおびき寄せられそうなほどなのだ。
嫉妬する対象をこれ以上増やしたくない僕としては、女性になられたくない。
男性としてですら、十分ライバルが多いのに。
しかし彼が女性にならないと言う事実そのものよりも、彼が女性になりたいと思わないということが嬉しい。
それはつまり、彼が満足してくれていると言うことだから。
そのことが嬉しくて、幸せだ。
彼を待たせるのも、僕が彼を待つことで彼に申し訳ないなんて気持ちをさせるのも嫌で、僕は彼を自宅まで迎えに行く。
手土産を携えていくのはエチケットとしてではなく、僕からの気持ちを少しでも伝えたくて、だ。
家族に十分いきわたるだろう量の焼き菓子の詰め合わせを持っていくと、出迎えてくれたのは妹さんだった。
「古泉くんおっはよー」
にこにこと笑顔で迎えられて、僕も笑みが深くなる。
「おはようございます。お兄さんは、もう準備はいいでしょうか?」
「もーちょっと待ってて」
「では、」
と僕は焼き菓子の袋を差し出し、
「はい、これはお土産です。皆さんで召し上がってください」
「わぁい! 古泉くん、いつもありがとー!」
喜んでもらえると僕としても嬉しい。
勧められるまま居間に上げてもらって、お母様も交えて三人でお茶をしていると、彼が慌しく顔を出した。
「待たせてすまん」
「いえ、大丈夫ですよ」
「うっかり寝坊しちまってな。またこういう時に限ってこいつも起こしに来ないんだ」
とため息を吐く彼に見えないところで、妹さんがこっそりと舌を出した。
どうやら、わざと起こさなかったらしい。
苦笑しながらも僕は紅茶を飲み干し、ソファから立ち上がる。
「もう出られますか?」
「ああ」
「では、行きましょう」
その前に、と僕は彼の頭に手を伸ばす。
「可愛らしい寝癖が残ってますよ?」
「…っ、」
真っ赤になった彼が、そのまま洗面所へと逃亡を図るのを見送りながら、ついつい小さく笑うと、妹さんにウィンクされてしまった。
やっぱり、全部見透かされてるような気がする。
ややあって、ようやく身支度を整え終えた彼と共に家を出た。
妹さんに、
「いってらっしゃーい」
と見送られるのもなんだか不思議な気分だ。
くすぐったい。
肩が触れそうな距離で歩きながら、彼が言った。
「今日は芝居を見に行くんだったよな?」
「芝居と言いますか…演劇ですね」
「どんなのだ?」
「ええと、コメディのはずです。高校生の少々どたばたした日常を描いた」
僕が短く答えると、彼は不思議そうに僕を見つめた。
なんだろう。
「…珍しいな。お前の説明が短いなんて」
そう言われて、僕は苦笑するしかない。
「あまり細かく言っても面白くなくなるだけでしょう? 僕は、あなたに説明をすることも好きですけど、今日はそれ以上に、あなたと二人で楽しみたいんですから」
「…そうか」
素っ気無く返しながらも、彼の頬はどんどん赤くなっていく。
そんな強がりなところも可愛くて、愛しくて、
「…好きです」
と囁くと、彼が一気に真っ赤になった。
「おま、え、は、また…っ!」
「すみません。言いたくなってしまったんです」
出来れば抱きしめたいし、キスだってしたい。
でもここは天下の往来だから我慢するしかない。
「それとも、路地裏にでも入ります?」
冗談っぽく囁けば、
「んなことしてたら、開演に間に合わないだろ!」
と言われた。
そうかもしれない。
ぱっと抱きしめて、キスをして、それで終わりなんてことにはまずならないだろうから。
「では、急ぎましょうか」
「急ぐ?」
「そうしたら、劇場についてから、ちょっとどこか暗がりでも探せるかもしれないでしょう?」
冗談半分、でも残り半分は結構本気で言ったのに、
「あほか!」
と怒られてしまった。
そんな調子でふざけあうのも楽しくて、何より怒った素振りを見せた彼の足取りがいくらか速まるのが嬉しくて、自然と笑顔になった。
劇場に着いて、僕が鑑賞券を買いに向かうと、彼は小さな声で、
「珍しい」
とまた呟いた。
「何がですか?」
「いや、お前が前売り券なんかを買ってなかったのが珍しいと思ったんだが。…大抵準備してるだろ?」
「ああ、そう言うことでしたか。……今日は、当日券の方がお得なんですよ」
悪戯っぽく笑って、僕は彼を窓口に引っ張って行き、
「すみません、カップル割引で二枚お願いします」
と係りの女性に声を掛けた。
隣りで彼がびっくりした顔をしているのを見ないようにするのは、見たらどうしようもなくだらしない顔になってしまいそうだからだ。
なんでもない風を装って、首尾よく割安のチケットを手に入れた僕は、窓口から離れながら彼に囁く。
「二人組なら性別に関係なく適用されるんですよ」
「分かってる」
と返しながらも彼の顔は赤い。
恥ずかしそうにしながらも、それでもくすぐったそうに僕を見つめて、
「…が、なんか、……嬉しい、な」
そのはにかむような笑みに、僕の胸はじんと熱くなる。
「嬉しいんですか?」
意地が悪いかと思いつつ、彼にはっきりと言って欲しくてそうねだると、彼はちょっと困ったような顔をしながらも、
「ああ。……堂々と、付き合ってるんだって感じがして、嬉しい」
「僕はいつだって堂々としてるつもりですよ」
「そうだな。俺も、堂々としていいんだと思ってはいる。だが……やっぱり、躊躇っちまうんだよな」
苦笑しながら、どこか申し訳なさそうに言う彼に、僕は出来る限り優しく微笑んで、
「焦らなくていいんですよ。少しずつで、僕は十分です」
「…ん」
そう言った彼が、迷うようにそろりと手を伸ばし、僕のシャツのすそを二本の指で抓んだので、僕はその手を引き寄せ、握り締めた。
一瞬、手を引き戻しかけた彼だったけれど、僕が微笑みかけると、そのままにすることを許してくれた。
くすぐったくも暖かい気持ちになりながら座席へと向かう。
途中、券を切るところで手を離し、その後はつなぎ直したりしなかったものの、気持ちは繋がったまま、離れようがない。
僕たちは比較的後ろの方の席に肩を寄せ合うようにして座った。
会場内にはそこそこの人が入っていて、劇の評判のよさが伺えた。
その評判通りならいいのだけど。
「なぁ、」
話しかけられて彼を見ると、彼は僕に向かって手を差し伸べていた。
「…もう一回」
「…嬉しいです」
とろけた顔で応じながら、僕はその手を握り締める。
「変な触り方するなよ」
「そんなことしませんよ」
「…信用ならん」
……僕のことをなんだと思ってるんだろうか。
そう思いながらも、僕は意趣返しの意味を込めて、
「その割に、自分から手を差し出してくださいましたね。おまけにそんなことを言うなんて、本当はして欲しいってことじゃないんですか?」
「んなわけあるか!」
小声ながらも、軽く声を荒げた彼に、
「静かにしましょう。他の方の迷惑になりますから」
と言いながら、指先でその唇を押さえると、彼は顔を赤くしながらも黙った。
そうして、ぼそぼそと小さな声で、
「お前は、自分の手がおかしいって気付け」
「おかしい、ですか?」
「ああ、おかしい」
「具体的にどうおかしいんです?」
「…っ、前にも、言っただろ…。おかしなくらい、…っき、気持ちよく、なるのは、お前の手がおかしいからに決まってる…っ」
そんなことを言うほどに、彼の顔が赤みをまして可愛い。
「手の平くらい、大丈夫だと思いますけど」
「……そう、か?」
「ええ」
試しに、と彼の指先を軽く撫でてみた。
すると、彼はびくんっと体を震わせ、僕の手を振り払った。
「っ、無理! やっぱり無理だ!」
「…あなた、どれだけ感じやすいんですか」
心配になってきたんですけど。
まさか僕以外にもそんな反応見せたりしてないでしょうね?
「別に、敏感だってわけじゃない。お前の手の方がおかしいんだろ…」
「そんなこと、あなた以外に言われたこと、ありませんよ」
「俺だってない」
「…じゃあきっと、」
僕は小さく笑って、
「僕があなたを好きで、あなたも僕を好きでいてくださるからですね」
「……だからお前はどうしてそう恥ずかしいことを…」
という彼の呆れ交じりの文句は、開演を告げるブザーにかき消され、僕たちの会話も終了した。
始まった劇は、予想以上の出来だったと思う。
舞台をうまく利用した画面構成も、舞台では効果的に用いることが難しい心理描写もしっかりしていて、そのくせちゃんと笑わせてもくれるなんて、そうそうないんじゃないだろうか。
でも僕は、それ以上に彼に夢中だった。
舞台を見つめながら、表情がころころ変わるのが可愛い。
おまけに、時々僕と目が合うと、微笑んでくれたり、あるいはくすぐったそうに目を細めたりしてくれる。
あんまりしつこく見つめすぎたのか、顔をしかめられたりもしたけれど、不機嫌そうな顔をしながらも、彼は舞台を見ろと舞台を指差してくれた。
面白いシーンがあっても、僕にそれを見ろと示してくれる。
そんな彼の優しさが嬉しくて、彼と同じところで笑ったり出来ることが楽しかったばかりか、劇そのものの出来がよかったおかげで、本当に充実した時間を過ごせたように思った。
思い切り笑って、楽しんで、お腹も空いたので僕たちは食事に向かうことにした。
「どこにします?」
「適当でいいだろ」
「じゃあ、僕に任せてもらえますか?」
「ああ。あんまり高いところにするなよ。あと、割り勘だからな」
おごらせてもらいたいところなんだけど、許してはくれないんだろうな。
少し寂しいけど、彼のそんなところも好きだから、いいということにしておこう。
僕は、前に勧められたことのあるカフェに入ることにした。
少しばかり大きめのそこは、テーブル席がカーテンなどで仕切られている、ちょっとばかり変わった造りになっている。
その、四人がけの席に二人で向かい合わせに座って、ランチのライスコロッケセットを食べながら、彼は無邪気な笑みを見せてくれた。
「案外面白かったな」
「そうですね」
「…本当に分かってるか?」
からかうような、訝しむような目を向けられて、僕は首を傾げる。
「どうしてそんなことを?」
「だってお前、」
堪えかねたようににやりと笑った彼は、
「ずっと俺ばっか見てただろ」
僕は苦笑して、
「それでも、ちゃんと分かりますよ。……それより、見られるのは嫌でした?」
「んー……」
と考え込んだ彼は、
「…嫌というより、困った、な」
困った?
「どうしてです?」
「分かれよ」
恥ずかしそうに頬に赤みを差しながらそう言われたけれど、分からない。
「鈍いのはこれだから」
と呆れたように呟きながら、彼は一層顔を赤らめながら、
「…キスしたくて、困った」
「っ」
僕の顔まで一気に赤くなる。
何言い出すんですか、この人はもう。
「仕方ないだろ。…お前とキスするの、好きなんだから」
そう言って、どこかとろんとした目を向けられると、我慢なんて出来なくなる。
「…キス、します?」
「……ここでか?」
「大丈夫だと思いますよ。カーテンで完全に隠れてますし」
「つってもレースだろ、これ」
「見えませんよ」
「……本当に?」
そう確かめてくる彼が可愛い。
「ええ」
と笑顔で応じれば、彼は椅子から立ち上がり、
「じゃあ、したい」
そんな風にストレートに求めてくれるのが嬉しくて、僕もいそいそと立ち上がる。
広めのテーブルに手をついて、顔を近づける。
いつものように開かれたままの彼の瞳を見つめて、ぎりぎりのところで目を閉じ、唇を触れさせた。
触れるだけでも、気持ちいい。
こんな場所だから、これで離れようと思ったのに、彼の方がそれでは我慢が出来なかったらしい。
ぺろりと少しばかり、ライスコロッケのソースの付いた唇を舐められ、誘われる。
そうして、彼にそんな風に誘われて、僕が抗えるわけもない。
舌を絡めて、彼の舌を吸い、歯列をなぞると、彼が鼻にかかった声をかすかに漏らす。
「…ん……、ぁ、いかん…」
「なんです?」
「……やっぱり、こうしよう」
勝手にそう言って彼は僕の席の方へと自分のお皿を押し出し、それから自分から僕の隣りに移動してきた。
「え、あ、あの…?」
「いいだろ。もう伝票も来てるし、お冷だってそこに置いてある以上追加には来ないはずだ。食後のコーヒーは先に持ってきてもらってある。つまり、」
邪魔は入らないってことですね。
「そういうことだ」
そう笑って、彼は僕に抱きついてきた。
仔犬のようにかすかにくふんと鼻を鳴らしたのは、無意識なんだろうけれど、可愛らしくて仕方ない。
「外に出て会うのも悪くはないが、こうやって出来ないのが嫌だな」
くすぐったそうに、恥ずかしそうに微笑む彼が愛しくて、
「そうですね。…僕も、ずっとこうしたかったです」
抱きしめた彼の体は温かくて、触れているだけで気持ちいい。
大事にしたい、と心の底から思えた。
そんなことをしながら食べたから、随分時間を取ってしまったし、食事も冷め切ってしまったのだけれど、それでも、とても楽しい時間になった。
「これからどうする?」
彼に聞かれ、僕は答える。
「なんでもいいですよ。このまま帰ってもいいですし、どこかに買い物に行くのも悪くないですね」
「買い物か…」
そう呟いてなにやら考え込んだ彼は、
「なあ、お前、ペアのものとか欲しいか?」
と聞いてきた。
「突然なんですか?」
「いや、カップルの定番はそういうのかと思ったんだが。あと、お前そういうの好きそうだし」
「別に好きでも嫌いでもないですよ」
本気で、僕のことをなんだと思ってるんだろうか。
「そう言うあなたはどうなんです?」
「俺がそんなものに興味があると思うか?」
「……思いません」
「その通りだ」
そう言って軽く笑った彼だったけれど、
「だが、」
と少しばかり恥ずかしそうに僕を見て、
「お前の部屋に俺のものをおきたい気はするな」
「え?」
「縄張りを主張したいような、そんな感じなんだけどな。…お前の部屋に、俺のものがあったら、嬉しい気がする」
そのはにかむような笑顔が愛しくて、
「それは確かに、僕としても嬉しいですね」
「本当か?」
「はい」
「…じゃあ、買いに行くか」
「ええ、そうしましょう」
と頷いて、僕たちは雑貨店などが並ぶ方へと足を向けた。
「買うならやっぱり、マグカップとかかね」
と言う彼に連れられるような形で、食器の棚を眺める。
「どれでもいいですよ。置くスペースはありますから」
「お前の部屋、物が少ないからな」
「一人暮らしならあんなものですよ。部屋が広すぎるんです」
「それはそうかもな」
そう笑って、彼はマグカップをカゴに入れ、グラスもカゴにそっと落とし込む。
それから、食器コーナーを離れて、こういう時の定番だろう、歯ブラシとコップのセットをカゴに落とす。
バスタオルやパジャマまで入れるということは、泊まりに来てくれるということでいいんですよね?
どきどきしながら見守っていると、唐突に彼が言った。
「なぁ、今日買う分を家で使うから、今、家にある分をお前の部屋に置いていいか?」
「え?」
「いや、その方がいいかと思って…」
どうしてですか?
「……そうしたら、家でお前のことを思えるだろ。それに、買ったばかりのものを置いたって、お前の部屋にマーキングした気にはならん」
なるほど、そういうことか。
「ただし、」
と彼は恥ずかしそうに目をそらして、
「……家に新しいのを置いたせいで、今日のことを思い出したりして、お前が恋しくなって、いきなり押しかけたりしてもいいなら、だけどな」
なんて可愛らしいことを言うものだから、思わず場所柄もわきまえずに抱きしめてしまった。
「ちょっ、こら、古泉…!」
「あなたなら、いつだって大歓迎ですよ。いつでも、いらしてください。あなたが来てくださるだけでも、嬉しいですから」
彼は抵抗をやめて、
「…そうかい」
と諦めたように呟いたけれど、その頬の赤さも、潤んだような瞳も、酷く愛しく感じられた。

大好きです。
本当に本当に、愛してます。
あなたを愛してます。