おそらく、古泉と付き合いはじめてから初めて、俺は古泉のことを恐ろしいと思った。 あるいは、古泉が、演技でない本心をいくらかずつでも見せてくれるようになってから、初めてのことだったかも知れない。 それ以前は、胡散臭くて得体の知れない古泉のことを、薄気味悪いとかそら恐ろしい奴だとか思っていたからな。 本当の古泉を知るようになってから、古泉のことを怖いなんて思うようになる日が来るとは思わなかった。 それくらい、古泉は優しく、案外素直で、分かりやすい奴だったから。 大体、恐怖と言う感情は、得体の知れないものに感じるものであり、知ってしまえば怖くなくなるのが普通だ。 その理由が超常現象であったとしても、理由と理屈が分かっちまえば、少々のことは怖くなくなる。 不意に驚かされて恐怖に似たものを感じるのは、驚かされた瞬間にはそれが何か分からないからだろう。 だから、古泉を知るほどに、古泉を怖いなんて思うことはなくなっていた。 そうなると思っていた。 それなのに、俺は今、古泉が怖い。 ……なんなんだ、あのテクニックは。 ゴッドハンドかと茶化してやりたい気持ちすら失せる。 ただ制服越しに背中を触られただけ、それだけだと思おうとするのに、思い出すだけで背中がぞくりとした。 それくらい、俺の記憶に焼き付いている。 俺が文句を言おうと口を開ける度、狙い済ましたように俺の弱いところに触れてきた、あの手。 ごつごつと筋張った男らしい手なのに、綺麗で、さわり心地のいい手に触れるのが、前から好きだった。 握り締めるのも、重ねるのも、軽く触れ合わせるだけでもいい。 何度も触れた手の感触は、すぐにだって呼び起こせる。 それなのに、あの手が俺の背中をあんな風に撫で回すなんて考えたこともなかった。 今だって、想像しきれない。 全然別の手に思えた。 俺の手が触れられる古泉の手はとても優しいのに、俺の背中に触れてくるあの手は、酷くいやらしくて、おかしな気持ちばかり湧き立たせた。 気持ちよくて、そのまま流されてしまいそうな、だが、それは怖いような、複雑な気持ちでいっぱいになった俺が、最終的に抵抗しちまったのを、古泉は俺がそういう行為そのものを嫌がったとでも思ったのだろう。 珍しいほど余裕たっぷりに、俺のことをからかってすらくれたんだからな。 それを面白くないと思いながら、同時に、くすぐったくも嬉しく感じた俺は、もうどうかしている。 あの時、本当は、気持ちよすぎて、どうにかなってしまいそうで、無理だと止めちまったのだ。 それを古泉が微妙に勘違いしなければ、そのまま俺は古泉に食われてたんだろう。 そうなっていたら、どうなっていたんだろうな。 手で背中を触れられるだけで、あんなに気持ちよくて、おかしくなりそうだった。 その手が、もっと別の場所に触れていたら…。 ――悪寒ではないがそれによく似た何かに、背中がぞくりと震えた。 そんな調子だったから、次の日も俺は挙動不審極まりなく、ハルヒにも、 「あんた、風邪でも引いたの?」 と言われたのだが、俺は一体どんな顔をしてるんだ? 「熱っぽい顔してるわよ。風邪じゃないの?」 「風邪……かもな」 本当は風邪なんかじゃないことくらいよく分かっている。 しかし、正直には言いかねた。 これまでハルヒには色々世話になってきたから、聞かれるままにあれこれ答えちまったりもしてきたが、古泉にも言えないようなことを言う訳にはいかず、言えるはずもなかった。 「昨日部室に来たんだから、今日は来ない日でしょ? 古泉くんに送ってもらって、ついでに看病でもしてもらったら?」 からかうように笑って言ったハルヒの言葉に、俺は肯定とも否定とも付かない曖昧な返事を返して、机に突っ伏した。 知らず知らずのうちにため息がこぼれる。 一度混乱したらなかなか回復しないものであるらしい。 俺の頭は昨日からおかしくなりっぱなしだ。 古泉のことばかり考えて、ってのは今更か? だが、いつもと方向性が違いすぎる。 いつもなら、古泉のあの頼りない笑顔だとか、嬉しそうな顔だとか、泣きそうな可愛い顔とかを思ってにやにやしちまうのが常だってのに、今日はむしろ逆だ。 古泉の手や、キスする時に見える長いまつげの落とす影、唇の感触なんかを思い出して、どうしようもなく胸の中がざわつく。 くすぐったいほどの恥ずかしさとも違う。 照れくさいのとも違う。 酷く切なくて、物足りなくて、胸が痛くなる。 そのくせ、だからと言って古泉を求めるのは怖いのだ。 恥ずかしさや照れもあるが、それ以上に、自分がどうなるのか分からなくて、どうにかなっちまった俺に、古泉がどう思うのかということが怖くて、動けなくなる。 そうなると、切なさは募るばかりで、余計に苦しい。 なんだこれ、と思った。 こんなに切ないのは、古泉に一度拒絶されたあの時以来じゃないかと思うくらい、苦しかった。 あの時と違うのは、泣きそうになるんじゃなくて、顔が火照ってどうにもならないということだろうか。 どうにも落ち着かない気持ちのまま、俺はだらだらと過ごしたのだが、放課後になって古泉が、 「お迎えに上がりましたよ」 と満面の笑みでいつものように迎えに来た時、自分がなんの覚悟も決めていなかったことに気が付いた。 時すでに遅し、というやつか。 「こっ…古泉…」 古泉の顔を見るだけで、だめだと思った。 恥ずかしい。 そのくせ、目はそらせない。 「どうしました? 顔が赤いですよ」 首を傾げる古泉に、まだ教室に残っていたハルヒが言わなくていいことを言う。 「朝からずっとこうなのよ。風邪気味みたいで」 「おや、それはいけませんね。今日は早く帰ることにしましょう」 そう言って俺のかばんを取り上げようとした古泉の手が視界に入ったら、もう落ち着いて見てなどいられなかった。 「っ、いい! 一人で帰れる!」 俺は古泉の手を振り払うようにしてかばんを抱えると、脱兎のごとく一目散に逃亡した。 ハルヒが何か叫んだような気もしたが、耳に入らないくらい、必死で逃げた。 顔はもう真っ赤になっているんだろう。 見なくてもそれが分かるくらい、熱い。 走って帰って汗だくになったまま、俺はベッドに倒れこんだ。 「…何やってんだ……」 古泉がしょげにしょげている様子が目に浮かぶ。 ついでに、ハルヒが怒髪天を突く勢いで怒り狂っているのも。 古泉に誤解されなかっただろうか。 あいつは割とネガティブになりがちだから、これで俺に嫌われたなんて全く以って見当違いの勘違いをしないといいのだが。 メールでもしてフォローしておくべきだろうか。 だが、なんと言ったらいいのか分からん。 昨日のことが恥ずかしくて、なんて言ったら、やっとあいつが自分から積極的になろうとしてくれたってのが台無しになりそうだし、俺だってそれを望んでいるわけじゃない。 今はただ、まだ、少し、覚悟が足りてないだけで、その、いずれは、古泉ともっと先に進みたいとか、思わないでも、ない、わけ、だから、な。 そう考えるだけで憤死しそうになるんだから、先は長そうで申し訳ないが。 どうしようか。 後で電話でもしたらいいだろうか。 電話なら、文字でなく声で伝えられる分、ちゃんと伝えられる気がした。 うかつに素っ気無いメールを書いて古泉に誤解されるくらいなら、羞恥を堪えて電話をかける方がいい。 よし、そうしようと思った時、階下でなにやら賑やかな音がした。 続いて聞こえてくる、階段を上ってくるいくつもの足音。 まさかと思いながらドアを押さえようとしたが、遅かった。 「キョンっ!」 豪快にドアを全開にしたハルヒの怒鳴り声が、いっそ清々しく響き渡った。 「ハルヒ…、長門に、朝比奈さんまで……」 「古泉くんも来てるわよ。今はちょっと下で待ってもらってるけど」 そんなことより、とハルヒは俺を睨みつけ、 「あんた、何考えてるわけ?」 「な、にって……」 「古泉くんと何があったのか知らないけど、あんな態度とってどうすんのよ。余計にこじれるだけでしょ」 「それ、は…そうなんだろうが……」 理屈では分かっていても感情はどうにもならないということはいくらでもあってだな。 「ごちゃごちゃうるさいっ」 びしりと怒鳴ったハルヒは、ムカつきを隠しもせず、 「ケンカしたわけでもないのに、あんな態度とってどうすんの!? あれから古泉くんが落ち込んじゃって、鬱陶しいことこの上なかったんだから! 慰謝料を請求してやったっていいくらいだわ。勿論、あたしの分だけじゃなくて有希とみくるちゃんの分もよ?」 「う…、すまん……」 じっと注がれる長門の視線が心なしか痛い。 朝比奈さんは困ったように微笑みながら、 「あたしは別にいいですけど…でも、どうしちゃったんですか? せっかく、いい雰囲気だったのに……」 「それは…その……」 赤くなって口ごもる俺に、ハルヒは盛大なため息をこれ見よがしに吐くと、 「いいわよ、言い辛いなら言わなくっても。あたしだって、本気で言いたくない時くらい分かるわ」 そうだろうな。 これまでだって、あれこれ根掘り葉掘り聞いては来ても、本当に聞かれたくないようなことまでは踏み込まず、俺や古泉の惚気でしかないような話ばかり聞いてくれてたんだから。 「あたしが言いたいのは、ただの照れ隠しなんかで何もかも台無しにするんじゃないってことよ。好きなんでしょ? 古泉くんのことが」 「…ああ」 頷けば、ハルヒは小さく、しかし明るく笑った。 「だったら、ちゃんとそれを言ってあげなさい。あんたに嫌われたかも、ってうじうじしてたから」 「古泉が?」 「他に誰が落ち込むってのよ」 それはそうなんだが、やっぱりまだそんなに簡単に落ち込むのか、あいつは。 もういい加減自信がついたんじゃなかったのか? 「なんだか分からないけど、僕が調子に乗ってやりすぎてしまったんです、とかなんとかぶつぶつ言ってたわよ。あのヘタレの古泉くんのことなんだから、やりすぎくらいが丁度いいってあたしは言ったんだけど」 「それは…そうかもな」 思わず苦笑しながらも同意してしまった俺に、ハルヒは今度こそはっきりと笑った。 「もう大丈夫ね?」 「へ?」 「そうやって笑えるくらいなんだから、古泉くんとだって、ちゃんと話せるでしょ?」 そう言われて、考える。 今は、恥ずかしさや照れ臭さを感じる以上に、落ち込んでいるという古泉を慰めたいような気がしている。 何より自分のために誤解を解きたいという気持ちでいっぱいだ。 これなら、大丈夫だろうか。 ……そうだな。 「ああ、大丈夫そうだ」 「なら、あんたに任せるわ。あたしたちは、これからお茶でもしに行こうかと思ってるから」 そう言ってハルヒは長門と朝比奈さんを連れて部屋を出て行った。 少しして、おずおずとドアが開き、隙間から古泉が顔をのぞかせた。 一目で、落ち込んでいると分かるような、少しばかり悲しげな顔に、胸が罪悪感で痛む。 「あの…入っても、いいでしょうか…」 「さっさと入れよ」 苦笑しながら言うと、古泉はほっとした様子で部屋に入ってきた。 ベッドに座り直した俺の隣に来るのかと思ったら、古泉は俺の前に正座した。 そうして、不安げに視線を揺らしつつも俺を見つめて、うまく言葉を見つけられないようにしばらく黙り込んでいたが、ややあって、唐突といっていいような言葉を継げた。 「…ね、やっぱり怖くなったでしょう?」 そう、どこか自嘲するような調子で言ったので、俺は慌てて、 「違うっ…」 と言っちまった。 「違う? どこが違うんですか? …僕が、いけないんですよね。あなたが嫌がるようなことを、いくら挑発されたからとはいえ、してしまうなんて……」 ずぶずぶと後悔の海に沈みこもうとしている古泉を、俺は反射的に抱きしめた。 「っ、あの…?」 戸惑いの声を上げる古泉をきつく抱きしめるのは、こんな顔を見られたくないがためだったはずなのだが、押し付けると今度は早鐘を打つ心臓の音を聞き取られそうで恥ずかしくなった。 「そう、じゃ、ないんだ…」 「何が…ですか……?」 …言わねばならんのだろうな。 言わなきゃ、こいつの誤解は解けないんだろう。 それは身にしみている。 黙っていても伝わるなんてのは幻想で、言葉にしたって伝わるかどうか分からないのが当然なんだ。 恥ずかしいのも照れ臭いのも、耐えるしかない。 古泉なら、呆れたり引いたりしないで、ちゃんと受け止めてくれると信じて。 そうして、そういう意味では、古泉は本当に信用性が高いのだ。 だから俺は、なけなしの勇気を振り絞って告げた。 「俺、抵抗しちまった、だろ…?」 「え? ……ええ、されましたね。嫌…だったんでしょう?」 「嫌なのは、嫌だった。が…それは、その、お前とああいうことをするのが嫌なんじゃなくてだな……」 「何が、嫌だったんです?」 言葉を途切れさせる俺に、古泉は不安そうに先を促す。 恥ずかしさで死にそうになりながら、俺は震える声で答えた。 「…っ、お前に、触られると、おかしいくらい、気持ちいいんだよ…っ」 「……え?」 ぽかんとした声に、勇気がぐらつきそうになるのを必死に堪えて、俺は言葉を続けた。 「気持ちよく、て、どうにかなっちまいそうで、俺は、そんな自分が怖くて、無理って、言っちまったんだよ…!」 もう耳どころか首も、それどころか全身真っ赤になってる気がした。 それくらい恥ずかしい。 いつの間にか、俺の方が古泉にすがりつくような形になっていた。 そうでもしていなければ耐えられないくらい恥ずかしいし怖かった。 呆れられただろうか。 引かれただろうか。 大したことをされたわけでもない、ただ背中を触られただけなのにそんなに気持ちよくなるなんて、どれだけ感じやすいんだとか淫乱なんじゃないのかとか、俺自身ですら思ったから、古泉がどう思うかなんて分かりやしない。 ただ、それでも、見捨てたりはしないと信じたかった。 「…本当、に?」 まだ戸惑いの滲む声で確認を求められ、俺は泣きそうになりながら頷いた。 「だか、ら…って、見捨てたり、すんなよ…」 「見捨てるわけないでしょう」 困ったようにだが、古泉は笑ってそう言ってくれた。 「むしろ、嬉しいです」 「ぅ…?」 嬉しいって、なんでだよ。 「嬉しいに決まってるでしょう? …感じてもらえて、嬉しいです」 囁かれた声がくすぐったい。 抱きしめるために背中に回された腕も。 「嫌じゃなかったなら………また、してもいいですか?」 低く囁かれた言葉に、声に、ぞくりとした。 思い出してのそれより、遥かに威力のあるそれに、背中どころか全身が震えた。 「ぁ……こ、いずみ…?」 恐る恐る体を離して古泉を見つめると、古泉は昨日と同じかそれ以上に熱っぽい目でこちらと見つめていた。 「…またそんな可愛い顔して」 からかうように言いながら、その手が俺の背中をすべる。 「ひぁ…っ!?」 「ねえ、どうなんです? またしてもいいんですか? それとも、もう二度とだめですか?」 「に、二度と、なんて、ことは…その、ない、が……」 しどろもどろになりながら答えれば、古泉は嫣然と微笑んだ。 「じゃあ、してもいいってことですよね?」 腰の辺りで止まっていた手が、また肩近くまで俺の背中を撫で上げる。 それだけで、震えが止まらなくなりそうになって、 「――っ、ア、まっ、ま、まだ無理だっ…!」 と叫んで古泉を全力で突き飛ばした俺は、そのまま部屋から逃亡を図り、ずっと廊下で聞き耳を立てていたハルヒに、今度は俺がヘタレ呼ばわりされることとなった。 悪いのは俺じゃなくて古泉の手だ…っ! ――というか、覗くな!! |