贅沢な悩み



何がどう気に食わないのか知らないが、このところハルヒの機嫌がどうにも低空飛行で、どうにも取り成せないままでいると、案の定、古泉が疲れた様子を見せるようになった。
それは本当に微かなものであり、気付いたのはおそらく、長門を除外すれば俺くらいのものだろう。
そんな風に、少しの変化をも見落とさないようになったことを、嬉しくもくすぐったくも思いながら、同時に自分の無力さを歯痒く思った。
古泉が戦っていても、俺には何も出来ない。
それどころか、そんなことにならないようハルヒの機嫌を取ることも出来ない。
そもそも、あの機嫌の悪さも退屈だとかなんとかいうもののせいというより、バイオリズムとかの問題って気がするからタチが悪かったといえばそうなのだが、とにかく俺は、無力感に打ちひしがれていたわけだ。
せめてアフターフォローでも出来ないものかと思い、俺は土曜の朝、比較的早い時間に起き出して、古泉の部屋に向かった。
朝なら二人きりでもいいだろうなんてことも思いつつ、タッパーに入れた白飯だのを抱えて古泉の住むマンションへと向かうのも、楽しかった。
初めて合鍵を使うのも、それだけで胸が高鳴るくらいだった。
やっぱり疲れていたんだろう古泉がまだ眠っているらしいので、俺は出来るだけ音を立てないよう気をつけながら朝食作りを開始した。
とは言っても、大したものは作れない。
玉子焼きと具の少ない味噌汁を作った後は、家から持ってきた漬物なんかを切るくらいのもんだ。
足りないようだったら古泉の希望を聞いて作り足せばいいだろう。
そう思いながら、そっと寝室のドアを開けても、古泉は身動ぎ一つしなかった。
よく眠っているらしい。
それを起こしてしまうのは少々忍びなかったのだが、せっかく朝飯を作ったんだし、そろそろ起きる時間でもあるはずだからと、古泉に近づく。
つい、足音を殺してしまったのは、もう少しだけでも眠っていて欲しかったから、のはずだった。
ところが、古泉の寝顔を覗き込むと、何やら衝動めいたものが湧き上がり、俺はまるきり寝込みを襲うとでもいうしかないようなことをしでかしていた。
古泉の顔の側に手をついてベッドに屈みこみ、すやすや眠っているがゆえに穏やかな弧を描いたその唇に、自分のそれを重ね合わせたのだ。
我ながら、何をやってるんだかと呆れ、軽蔑されなきゃいいんだが、と思ったところで、古泉が苦笑を浮かべ、目よりも先に口を開いた。
「…ん、森さんってば、また振られでもしたんですか…?」
―― 一瞬にして、目の前が真っ暗になった。
古泉の、俺にはなかなか聞かせてくれないような甘ったれた声に、その発せられた言葉に、胸がギリギリと痛む。
なんだそれ。
キスされて、それで森さんと間違えるってなんだよ。
いや、分かってる。
それが意味することなんて単純なことだってことくらい、俺にも分かる。
ただ、それがあまりにも信じられなくて、受け入れられないと思うくらいには、古泉は俺のことを愛してくれていると信じていた。
それも……全部嘘で、まやかしで、でっち上げの、演技だったんだろうか。
そう思うと悲しくて、文句の一つも投げつけてやりたいのに言葉にならなくて、ただ涙だけが零れたところで、それまで呆然としていた古泉が叫んだ。
「ごっ…誤解です!!」
「何がだ…!」
なんとか口にした言葉はみっともなく震え、俺の動揺をストレートに表現していた。
誤解も何もないだろう。
お前は森さんとキスするような関係で、俺なんか本当は、好きでも何でもなく、って……。
畜生、涙が止まらん。
こんな情けない姿をこれ以上さらしたくなくて、これ以上古泉の声を聞きたくなくて、俺はその場から逃げ出そうとした。
しかし、それより早く古泉に腕をきつく掴まれる。
それこそ、痛いくらいに
「っ、放せ…!」
「嫌です。放したら、行ってしまうでしょう…? お願いですから行かないでください。本当に誤解なんです…!」
言い募る古泉の言葉に耳も貸さず、俺は唸る。
「痛いって…」
「すみません、でも、緩めたら逃げてしまうんでしょう? 少しの間だけ、我慢してください」
「…さっさとしろ」
そう睨みつけるのがやっとだった。
逃げ出そうともがくほどの力も出ず、それ以上に、古泉の必死な様に、期待してしまっていた。
どうせ全部、嘘なのに。
しかし古泉は俺の抵抗が緩んだのを見て取ると、ほっとしたような顔をした。
そうして古泉は、俺に事情の説明を始めたのだが、その内容はなかなかにショッキングなものだった。
森さんと古泉が本当にキスをしたりする関係だということもショックだったし、俺よりも森さんとの方がよっぽど親しいらしいのも悔しくて、悲しくてならなかった。
暴れても力は弱く、古泉に簡単に押さえ込まれてしまう。
しゃくり上げながら零れていく涙が流れを作り、気持ち悪い。
それでも、強く抱きしめてくれる腕も、温もりも気持ちよくて、愛していると囁いてくれるのが嬉しくて、俺は逃げ出せない。
それに、自業自得とはいえ、古泉が俺の今日の行動に本当に驚いているらしいことが悲しかった。
確かに、俺は甘えきっていた。
古泉がいくらでも許してくれるのをいいことに、わがままばかり言ってきた。
焦らすみたいに、キスしか許さなかったり、試すようなことを何度もしてきた。
それで愛想を尽かされたんだとしたら、と思うと酷く胸が痛んで、涙が溢れた。
だから、俺は心に決めた。
古泉にあんな風に思わせてしまった原因は間違いなく、俺のこれまでの言動であり、試すようなことをし続け、焦らしてきたからだと分かったから。
…もう、変に焦らしたりしない。
俺は古泉が好きだから。
先に進むのが怖くないわけじゃない。
今だって十分怖い。
だが、それ以上に俺は、古泉が好きで、古泉に自分のこの感情を伝えたいと思っているから。
そう、マリアナ海溝よりも深く反省したってのに。
……なんでこいつは手を出して来ないんだ、と不貞腐れる破目に陥っていた。
綱引きか、といつだったかとは少しばかり違う意味で思う。
あの時はお互いの駆け引きめいたものにそう思ったのだが、今度は、下手に力を緩めると綱だけ引っ張られ、自分は置いていかれ、動けないというあたりが似ているように思えた。
もういいって言ったんだから、堂々とキスとかそれ以上のことなんかをしてくりゃいいのに、古泉は前と同じかそれ以上にそういうことを仕掛けてこない。
キスはする。
俺からも、古泉からも。
ただ、抱き締めてもその抱き締め方は健全以外の何物でもないやり方だし、前みたいに耳を甘噛みされるだの指先を舐められるようなこともない。
ちょっといい雰囲気になったんじゃないかと思ってきたところで、古泉は急に用事を思い出して体を離したり、あるいは慌てたように俺を突き放す。
…それが、面白くない。
俺がどんな気持ちであんなことを言ったと思っているんだろうか。
軽々しく言ったつもりはない。
覚悟だって、決めた。
なのに。
……とまあ、そんなことをついついハルヒに愚痴ると、ハルヒは砂糖を大幅に増量してザリザリ言うほどになった餡子でも口の中につっこまれたようなしかめっ面をしながら、
「じゃあ聞くけど、」
と俺を睥睨しつつ、
「あんたは何がしたいの?」
「何って……」
「具体的にどんなことをするのか、あんたほんとに分かってんの?」
一瞬何を言われたのかと思ったが、すぐにその意味するところを理解し、顔から火が出たかと思うくらい真っ赤になった。
「お、女の子がそんなこと言うもんじゃありません!」
反射的にそう言えば、ハルヒは笑って、
「なんだ、分かってたの?」
「…そりゃ……一応、は…」
これまでにインターネットを使って調べたあれやこれやを思い出し、思わずもごもごと口ごもった俺に、ハルヒはむしろ安心したように、
「知ってるならいいけど、知らないのかと思ってたわ」
って、お前な。
「仕方ないでしょ。あんたが鈍くて恋愛下手なんだから」
そう言われてしまえば、俺には反論の余地もなく、黙り込むしかない。
「で、あんたはどっちなのよ」
「どっち…って……」
「上か下か。あ、タチかネコかって聞いた方がいい? それとも攻めか受けかって聞く方が分かりやすいの?」
「なっ…!」
だからお前はもっと恥じらいってもんを持ってくれ。
「そんなもん、なんの役に立つってのよ。ほら、いいからちゃっちゃと答えなさいっ」
「し、知るか、そんなもん…っ」
そう言いながらも、頭の中ではやっぱり俺の方が下なんだろうなと思っていた。
時々女になっちまうのは俺だし、大体、普段のこの女々しすぎる思考回路からするとそうとしか思えん。
これまでに体験したあれこれだって、古泉の方からしてくるのが多く、俺は基本的に待ちの体勢だしな。
何より、俺は古泉に無理をさせたくない。
俺はなんの経験もないし、だからどう考えたってうまくやれはしないだろう。
それでも古泉は、無理して笑って受け入れてくれるような気がする。
…だからこそ、そんな風にしたくない。
そんな風にされたって、嬉しくないし、むしろ悲しいだけだと思う。
だから、我慢するなら俺がいい。
「まあいいわ。大体想像はつくし」
と若干気になることを言ったハルヒだったが、一応相談に乗ってくれるつもりはあるらしく、
「してほしいなら、そう言えば? キスの時みたいに」
「そうはいかんだろ」
キスの時だってどうかと思ったんだ。
更にエスカレートした要求をするのは、流石に人としてどうかと思うぞ。
「でも、遠回しにしたって古泉くんに通じないのはあんたも痛感してるでしょ」
「それは……」
そうかもしれんが、俺にだって恥じらいはあるし、品位というものを気にしないというわけでもない。
それに……本当は、怖いんだ。
古泉があれ以上の行為に及ばないのは、古泉がそれを望んでいないからじゃないのかと、思えてしまうから。
「ばかね、そんなこと、あんたたちに限ってあるわけないじゃない!」
そう言ってハルヒは明るく笑い飛ばしてくれた。
「少なくとも、古泉くんがあんたに対して持ってる感情を疑ってるなら、それくらい時間の無駄になることはないってあたしが断言してあげるわ。ただし、」
とハルヒは苦笑らしきもので唇を歪ませて、
「古泉くんが、変にあんたを気遣うあまり、手出し出来ないって可能性は否定出来ないけどね」
「気遣ってって……」
「あんたのことを好き過ぎるのよ、古泉くんは」
にやにやしながらハルヒは続ける。
「好きだから、大事にしようとしすぎちゃって、あんたをヤキモキさせてるんじゃないの?」
「…そう……なんだろうか」
「そうよ。だから、そうね、古泉くんを押し倒せないって言うんなら、あたしが何とかして古泉くんをけしかけてみるから、あんたは無駄に不安がったりしてないで、精々色気でも振りまいてなさい」
ないものを振りまけるようなスキルは持ち合わせとらん。

今日は古泉が急用で一緒にいられないため、俺は部室に顔を出していた。
と言っても、古泉がいなくてはすることもない。
うかつにボードゲームを視界に入れるとそれだけで古泉を思い出して切なくなってしまったりするようなどうしようもない有様なので、大人しく机に突っ伏すのみである。
その間に、ハルヒはぺらぺらと俺の目下の悩み事を長門と朝比奈さんに喋りまくっていたのだが、それを聞いた二人の反応はと言うと、正直、予想以上にありがたくないアドバイスしかもらえなかった。
朝比奈さんは良識ある彼女らしく、
「え、えっと…やっぱり、遠回しに言うとかしかないんじゃないでしょうか…」
と言った。
「役に立てなくてごめんね、キョンくん」
いえ、あなたはそのままでいいんです。
むしろそのままでいてください。
いつまでも俺の心のサンクチュアリでいていただきたい。
で、長門のアドバイスはと言うと、
「……押し倒す?」
待て、お前は一体どこで何に毒されてきたんだ。
ハルヒの影響だったら、今度こそ付き合い方を考え直してくれ。
「押し倒すのがだめならやっぱりアレしかないんじゃないの? ベッドの上で待つとか。あ、勿論裸でなきゃだめよ?」
「押し倒すのと根本的に同じだろうが、それは」
そっち系統は勘弁してくれ。
そんなことをしたら今度こそ正気を疑われるかはたまた愛想をつかされそうで怖い。
結局、うんうん唸りながら考えてもいい考えは浮かばず、俺は空手で帰ることになった。
ハルヒが古泉をけしかけるとしたらどうするつもりだろうなと思いながら、そんな風に古泉を思い出すともうだめで、気がつけば、最初はちゃんと家に向かっていたはずの足が、急くように古泉の部屋へと向かっていた。
もう用事が終って帰っているかもしれないと思ったのだ。
しかし、古泉の部屋の鍵は自分で開けなければならず、部屋の中はやはり無人だった。
もしかして、と思って確かめた寝室のベッドも空っぽのままで、
「…まだ帰ってないのか」
口をついて出た呟きは弱く、情けない。
それを振り切るように俺は荷物を放り出し、ベッドに飛び込むように突っ伏した。
古泉の匂いがする、なんてこっ恥かしいことを思いながら、その匂いに安心を覚えるほど、俺は古泉と一緒にいることに慣れ、それに幸せを覚えるようになっちまっているらしい。
苦笑いしながら枕に顔を埋めると、古泉の使っているシャンプーの、どこか甘い匂いがした。
安心したまま眠っちまった俺だったのだが、そのせいで、かなり恥ずかしい目に遭うことになっちまった。
いや、別にそれが嫌だったわけじゃない。
むしろ、嬉しかったと思うし、安堵もした。
しかし、恥かしいことは間違いなく、それ以上に……あー……古泉に悪いと思った。
しかし、そんな目に遭ったのもハルヒのせい、なんだよな?
多分。

……すまん、古泉。
悪気はなかったんだ。