三度目は突然に



前提として話しておかなければならないことだと思うので、言わせてください。
僕と機関の関係についてのことを。
より正確に言うならば、直属の上司、あるいは指揮命令系統の中で直接僕の上位に位置する、森さんのことになる。
彼女と出会ったのは能力に目覚めて少し経った頃のことだった。
訳の分からない力に振り回され、いささかやさぐれていた僕を彼女が叩きなおしてくれた…というと非常に聞こえがよくなるので面映ゆいのだが、彼女が僕の恩師ないしは姉のようなものであるということを分かっていただけると幸いである。
一年上の学年、しかも中学から高校に編入するという無謀な命令を無事遂行できるようにビシバシ勉強を教えてくれたのも彼女だし、生活環境などについても厳しく目を光らせてくれているのも彼女だ。
実際、彼女は僕を異性だと思っていない。
というか、確固たる自我を確立した一個人であることすら、しばしば忘れられているような気がする。
自我の芽生え始めたばかりの幼児のような扱いをされている、というのが一番誤解の少ない表現じゃないだろうか。
彼女から見ると僕は手の平の上から逃げ出せないくせにそうしようともがく孫悟空のようなものに過ぎないのだ。
僕にしてみても、彼女は異性ということ以上に森さんという畏敬と恐怖の対象でしかない。
……本気で怖いんです、あの人を怒らすと。
なので、基本的に無抵抗及び絶対服従という、封建時代も真っ青な主従関係が僕たちの間にはあり、つまりは彼女にからかわれるなんてことも、僕にとっては日常なんです。
そのからかいの範囲には、世間一般によくある、実の姉弟ならやるんじゃないかということが当然のように含まれているわけです。

家の中に人の気配を感じても、僕は目を開けなかった。
立場上、僕の部屋の鍵を持っているのは僕と彼だけではないし、森さんなんて用もないのにやってきて人の食生活にけちをつけて行ったりするのだから、そんなことがあっても気にならなかったのだ。
それよりも、ここ数日涼宮さんの機嫌が悪かったおかげで疲労困憊した体を休めるのに必死だった。
かすかな物音は、僕を起こさないように気を遣ってくれているようにも聞こえたけれど、森さんならそんなことはないからそれは気のせいだろう。
少しして漂ってきたのは、ごま油を加熱する、なんとも言えないいい香りだった。
玉子でも焼いてくれてるんだろうか。
…珍しいなぁ。
後でいくら請求されるんだろう。
財布の中にはいくら入ってましたっけね。
ああでも、いい匂いだなぁ……。
いつか、彼と一緒に暮らせたら、こんな風に朝を迎えられるんだろうか。
想像するだけで口元が緩む。
思春期にありがちな痛々しい妄想だってことは分かりますけどね、これくらいいいじゃないですか。
森さんに察知されたら、それこそ鼻で笑った挙句、夢も希望もズタズタになるような現実を目の前に並べ立てられることになるだろうから、ばれないように押し隠す。
それにしても……どうせ朝ごはんを作ってくれるなら、前に作ってくれたピザトーストが食べたかったな。
そんなに凝ったことをしたようにも思えなかったのに、とろりととろけたチーズややけに味わい深いトマトソースが絶品だったから。
あの後しばらくピザトーストに凝ったものの、どう足掻いても同じ味が出せずに挫折した記憶がある。
試しにレシピを要求したら、対価として給料半年分なんて法外な額を請求されて泣く泣く諦めたのも懐かしい記憶だ。
今作ってくれているのもそういう絶品かつ僕には作れないような代物だったらどうしよう。
……いっそ食べない方が自分のためかもしれない。
そんなことを考えつつ、まだ夢の世界と現実との境目付近をふわふわ漂っていると、小さな音と共に寝室のドアが開いたのが分かった。
薄目を開けて伺いでもしたらばれた挙句、「目が覚めているのにだらだら布団に入ってるんじゃありません。さっさと起きて身支度でも整えたらどうなの?」と冷淡に言われるのは目に見えている。
今だって本当は危険信号がちらついてるんじゃないだろうか。
びくつく僕を脅かそうとでもしているのか、押し殺した足音が本当にかすかに耳に触れるだけだ。
ベッドの傍らに膝をつく気配。
今日は一体何で来るんだろうか。
いきなり「わっ!」と驚かすのは前にやられた。
前にやったことを繰り返すような森さんじゃあないから、今度は別なことだろう。
それとも、そうと思わせておいて同じ手段で驚かせるとかだろうか。
……だめだ、完全に翻弄されてる。
あの人にはたとえ機関とか超能力とかなんてものがなくなったとしても、一生勝てないに違いない。
彼とは全然違う意味で。
かすかにベッドが沈み込む。
まるで、手を掛けたように。
さあ何が来るんだ?
鼻抓みの刑か?
それとも鼻かじりの刑か?
前に森さんが長年付き合っていた彼氏とやらに振られた時には、腹いせとして濃厚なキスで真夜中に起こされた挙句、朝まで自棄酒に付き合わされたんだったな。
酒臭くないから、それはないと思いたい。
ところが、ある意味予想通りである意味予想外なことに、柔らかな唇の感触が僕のそれに触れた。
触れるだけのキス、というのがまた予想外である。
僕は苦笑しつつ、
「…ん、森さんってば、また振られでもしたんですか…?」
と言いながら目を開けて――硬直した。
そこには信じられないと言わんばかりに大きく目を見開いた彼がいたからであることは、賢明なる方々には言うまでもないことだろう。
驚きのあまり何も言えない僕に、彼は唇をわななかせる。
声にもならなかったのだろう言葉が、震えてもいない鼓膜に突き刺さる。
見開かれたままの瞳に、じわりと涙が滲んでくる。
その一滴が零れ落ちた辺りで、硬直がやっと解けた僕は慌てて飛び起きると、
「ごっ…誤解です!!」
「何がだ…!」
彼の震える声が耳に痛い。
裏切り者とでも言いたげですらある。
いや実際、彼からすればそうとでも言うしかないんだろう。
僕はとにかく彼が逃げてしまわないように、その腕をきつく掴んだ。
「っ、放せ…!」
「嫌です。放したら、行ってしまうでしょう…?」
お願いですから行かないでください。
本当に誤解なんです。
「痛いって…」
「すみません、でも、緩めたら逃げてしまうんでしょう? 少しの間だけ、我慢してください」
「…さっさとしろ」
ギロリと僕を睨みつけた彼に、それでも僕はほっとした。
よかった。
まだ話を聞いてくれるつもりはあるようだ。
「まず、あなたを森さんと間違えてしまったことは完全に僕に非があります。本当に申し訳ありませんでした。ごめんなさい」
と可能な限り深く頭を下げた。
「で、あの、おそらく誤解されていることだと思うのですが、僕と森さんの間にあるのは同じ組織に属するものとしての関係に多少親戚付き合い染みた馴れ合いが混ざったものだというのが実際のところなんです。甘酸っぱいものなんて欠片もありませんっ!」
「キスとかするのにか?」
「それは、森さんが僕をからかってるだけで……」
そう答えた僕に、彼の眉がぴくりと跳ね上がり、目がそらされた。
「…本当にキスなんかしてんのか」
「……え」
「キスだって分かってないくらい寝とぼけてたのかと思ったんだが、違ったらしいな」
「そ、それは……」
どうやら、思い切り墓穴を掘ってしまったらしい。
「やっぱり放せ!」
と抗う彼を僕は必死に引き寄せ、腕の中に捕らえる。
「放せって、言ってんだろうが…! 本気で嫌いになるぞ!?」
「聞けません…っ。すみません、僕も必死なんです」
「嘘、吐け…ぇ…」
ぼろぼろと涙が零れ落ち、細い川を作る。
それを拭い取りたいのに、暴れる彼を押さえ込むのに必死でそれも出来ない。
「嘘じゃありません。僕が好きなのはあなただけですし、これまでにだって、あなた以外に好きになった人なんていません」
聞けないとばかりに彼は首を振る。
それを落ち着かせるように、
「お願いですから僕の話を聞いてください」
「や…だ…!」
らしくもなく、まるで駄々っ子のように言って、彼は首を振る。
「聞きたくない…っ!」
「聞いてください。お願いします。…本当、なんです。あなたが、あなただけが、好きなんです。愛してるんです」
「嘘だ…」
泣きじゃくり続けるあまり、ひくりとその体が震える。
それを強く抱きしめて、僕はなんとか言葉を紡ぐ。
「本当です。森さんは僕の姉のようなもので、キスされたことだってありますけど、それは彼女が自棄酒を飲むような状態だったからなんです…っ」
僕としては、キスとしてカウントしたくもない。
酒の匂いのする、一方的なキスなんて。
「僕がキスしたいと思ったのはあなただけですし、僕からキスをするのも、あなただけです。何より、分かっていただきたいのは、森さんと僕の関係はあなたと妹さんの関係と同じくらい、健全かつ恋愛色の欠片もないような関係だってことなんです! 嘘だと思うなら、森さんに聞いてください」
そんなことになったらまず間違いなく、僕に対して、「何で私が古泉なんかと恋愛関係にあるなんてことを思われなきゃならないんですか」などと大魔神も真っ青な怒りの矛先が向けられるのだろうけれど、そんなことを厭うような余裕もない。
「お願いですから、信じてください…っ! 僕が好きになったのは後にも先にもあなた一人なんです…!」
「……だったら、なんで、俺だって気付いてくれなかったんだよ…」
涙声で言った彼を見つめれば、悲しみをそのまま焼き付けたような表情に胸がきりりと締め付けられた。
「すみません…。寝ぼけていたということ以上に、その、……あなたが、せっかくのお休みの日に、わざわざ僕の部屋に来て料理をしてくれるなんて、思わなかったんです。そんなことをしてくださるなんて、思いもしなくて……」
「それに、腹が立つんだよ…!」
憎々しげに言った彼に、今度は僕が目を見開かされる番だった。
「え…?」
「お前と付き合ってんのは俺だろ!? なのになんで、朝飯作りに来て他人と間違えられなきゃならんのだ。それとも何か? そんなに、伝わってなかったとでも言うのか? 俺はこんなに……っ、こんな、見っとも無く泣いちまうくらい、お前のことが、…好き、なのに……」
そう言ってまたひとつ大きくしゃくり上げた彼は、それでも僕をきつく睨みつけた。
「驚かれたりするようなことじゃないだろ…。恋人の部屋を訪ねて、寝てるのを起こすのも可哀想だからって飯作ってやって、起こすついでにキスしてやれと思ってしただけだ。なのに、それを思いもしなかったなんて言われるのか? 俺は。……なんでだよ…」
「す……みません、でした…」
「謝るな」
強く言って、彼は僕のパジャマの襟を強く掴むと、
「…なあ、俺はそんなに伝えられてないか? お前が好きだって、言えてないのか…? 足りないのか? それとも……お前を試すような真似、するから……お前に、愛想、尽かされた…?」
まるで縋りつくように言いながら、いっそ悲壮と言う言葉が似合いそうなほどにその表情が歪む。
「愛想を尽かすなんて…そんなこと、あり得ません…。ただ僕が、……僕に、自信がないのがいけないだけです」
「だからそれは、足りてないってことだろ!?」
喚くように言った彼が僕の首に腕を絡めるような形で抱きついてくる。
「ごめん……ごめんな…古泉…」
「謝らないでください…」
どうしたらいいのか分からなくなる。
それでも彼に泣き止んでもらいたくて、僕は思うままを口にするしかない。
「僕に自信がないのは…僕が、恋愛に慣れていないせいだと思うんです…。どうしたらいいのか、分からなくなってしまうし、それに…自分がそんなことを出来るなんて、一度も思わなかったんです…。だから、あなたは悪くないんです。悪いのは、全部僕で…」
「ばっか…!」
まだ涙の止まらない目で僕を睨み上げて、彼は唸るように、
「その、何もかも自分のせいにするのも、止めろよ…! なんで、そんななんだ、お前は…」
「すみません…。僕の方こそ、愛想を尽かされても仕方ない…ですよね……」
「そういうことが言いたいんじゃねえって言ってんだろ、俺は!」
「でも、」
「いいから、少し黙れ!」
そう怒鳴った彼が、僕の唇を自分のそれで塞いだ。
どこか苦いキスが胸に痛い。
虚を突かれ、唖然としている僕を見つめて、
「…もう、お前に甘えるのは止めにする」
「……それ…は……」
まさか、別れるってことですか…?
怖くて口にも出来ない僕に、彼はゆるく首を振る。
「そういうことじゃない。……俺はこれまで、お前に甘えすぎてたと思う。今回のことで痛感した。お前が甘やかしてくれるまま、自分ばっかり好き放題したりするんじゃ、そりゃあ、お前も不安になるよな。……だから、止めにする。もう、お前の信頼に甘えて、お前を試すような真似なんかしない」
「試すような真似なんて……」
「してたんだよ。お前が本当に気付いてなかったのかどうかは知らんがな」
そう言って小さくため息を吐いた彼は、きゅっと僕を抱き締め直し、
「…もうしばらく、それに甘えたいって思ってた。でもそれは、ワガママだよな。俺ばっかり甘えてたら、お前がそうするなんてことは出来んだろう? だから……もう、焦らすような真似はしない」
「……え…?」
どういう意味なんだろうか。
本当に分からない。
ただ、じわじわと赤く染まっていく彼に、浅ましい部分が妙な期待を訴えてくるのだけが分かる。
「古泉…」
熱っぽい声で彼が僕を呼ぶ。
それだけで、頭の中の理性とか自制心とかいう部分がどうにかなってしまいそうな声で。
触れ合うギリギリまで近づいた唇が、
「…愛してる」
と甘ったるく囁く。
ぴたりと寄せられた肌が、さっきまでとは違う意味で胸を締め付け、締め上げる。
「あ、の……」
「もう、何をされようと、拒まないから」
はっきりと告げられた言葉にくらりと目眩を感じたところで、ぐぅ、とお腹が鳴った。
落ちるのは沈黙だ。
「……ほんと、顔に似合わず締まらん奴だな」
ややあってそう呟いた彼は苦笑染みた笑みを浮かべつつ、
「とりあえず、朝飯にするか? もう冷めちまってるような気もするが、食えんほどでもないだろう」
と言いながら僕の腕を解き、僕の上からもベッドからも下りた。
自分のあまりの不覚さにずぶずぶと後悔の海へと沈みこみそうになっている僕を振り返った彼は、酷く魅力的に微笑み、
「……続きは後でもいつでもいいだろ。俺がお前を好きなのは、ちょっとやそっとじゃ変わらんからな」
と恥かしそうに早口に言って、とたたっと軽やかな足音を響かせ、キッチンの方へと消えた。
残された僕はと言うと、自分の身に何が起ころうとしているのか把握しきれないまましばし呆然とした後、漂ってきた味噌汁の香りに誘われて、のろのろと寝室を出たのだった。

自分の度胸のなさが憎いと、今までになく強く思った朝だった。