先週の日曜、俺は妹と共に初めて古泉の部屋に足を踏み入れた。 そこでまあ、なんやかやのちょっとしたトラブルはあったものの、夕食をご馳走になって帰ったのだが、俺が思っていたよりもずっと古泉は、学校で見る古泉とあまり違っていないらしいと言うことが分かった。 それは、古泉が家でも無理をしているということではなく、学校でも無理をしていないということなんじゃないだろうか。 そう思ったままを聞いてみた時、古泉は柔らかく笑って、 「そうですよ。…そんなに僕って無理しているように見えるんでしょうか」 「嘘臭く見えるっつうことだ」 思わずそう突っ込んで、一瞬まずったかと思った。 聞きようによっては人格否定にも繋がりかねん発言だったからな。 慌てて訂正しようとしたのだが、古泉は軽く笑って、 「それは困りましたね。大して嘘を重ねているつもりはないんですけど。特に、あなたには」 と言ったおかげでその気も削がれた。 言葉よりむしろ、向けられた視線の柔らかさに、どうしようもなく胸の中が騒ぐ。 こんな些細なことでときめいたりするなんて、そっちの方がよっぽど恥かしく思えるのだが、いかんともし難い。 「あなたに嘘は吐けませんし、吐きたいとも思いません。言えないことがいくらもあるだけですら、苦しいんです」 「…ばか。言わなくていいことまで言えなんて言うかよ。嘘さえ吐かなきゃ、いい」 そう言ったが、その言葉は少しだけ、ごまかしを含んでいた。 本心をそのまま口にするなら、もっとシンプルな言葉で済む。 『俺のことを好きだって言うのが嘘じゃないならいい』 俺が古泉に望むのは、それだけだ。 「…ありがとうございます」 そう言って微笑む古泉は何よりも綺麗に思える。 それは見た目の話だけではなく、そんな表情をする理由のせいでもあるんだろう。 優しくて強くて、だが、それだけじゃない弱いところなんかもあるから、側にいたい。 見ていたい、もっと知りたいなどと思う。 だから俺は、先日古泉がしてくれたように、勇気を出して言ってみたのだ。 「今日、お前の部屋に行ってもいいか?」 部活を強制的に休みにされた日の帰り道、まだ坂を下り始めてからいくらも経っていない時のことだった。 「え…?」 驚いたように目を見開き、眉を上げる古泉に、俺は眉を寄せ、 「そんなに驚かれるようなことを言ったか?」 「そりゃ…驚きますよ。あなたからそんなことを言ってくださるなんて、まだまだ先のことだと思っていましたから。でも、」 と古泉は男であるにも関わらず、花がほころぶような笑みを浮かべ、 「こういう驚きはいいものですね。嬉しいです」 「…そうかい」 そう言ってもらえると俺としても嬉しくはあるのだが、それ以上に…なんというか、妙に恥かしく思えてくるのはなんでだろうか。 やっぱりこの笑顔が悪いんじゃないのか? 妙にどきりとさせられるせいで、羞恥心を刺激されるに違いない。 「で、いいのか悪いのか返事をしろ」 「勿論、いいですよ。どうぞいらしてください」 ニコニコと笑いながら言った古泉は、背中に花でも背負ってるんじゃないかと思うくらい、現実離れして嬉しそうだった。 そこまで喜ぶなよ。 こっちが恥かしくなる。 「すみません。でも、自分でもどうしようもないので、ご容赦ください。それくらい、嬉しいんですよ」 そう言った古泉に連れられて、俺は古泉の部屋を訪ねた。 前回とは違って、今度はちゃんと古泉が先導して俺を連れて行ってくれる。 俺は大人しくついて行くだけだ。 数日振りのその部屋は、何も変わってなどないはずだというのに、どこか違って見えた。 ちょろちょろと危なっかしい妹がいないせいだろうか。 それともやはり、俺が緊張してしまっているせいだろうか。 「すぐにコーヒーをお入れしますね」 いそいそと台所へ向かう古泉に頷きを返して、俺は遠慮なくソファに腰を下ろした。 柔らかいが沈み込みすぎもしない、ほどよい座り心地のそれで、時々昼寝などもしているのだと、先日古泉が言っていた。 確かに、寝心地もよさそうなソファだ。 俺はこてんとソファに寝転がり、その感触を確かめてみる。 古泉もこんな風にここで横になるんだろうかと思うと無性に恥ずかしくなってきて、すぐに飛び起きたが、古泉にはばっちり見られちまったらしい。 「お疲れでしたら、お休みになっていかれても構いませんよ?」 と冗談めかして言って、低めのテーブルにコーヒーカップを置いた。 「別に、疲れてなんかない」 「そうですか。では、何をして過ごしましょうか」 わざわざ聞かなくてもいいだろうと思うのに、古泉はそんなことを聞いてくる。 こいつも緊張してるのかね。 「何でもいいだろ。いつも通りで」 「いつも通り、ですか」 「俺の部屋に来た時と同じでいいってことだ。お前も、それでいいんだろ?」 「…そうですね」 ふわりと微笑んだ古泉が俺の隣りに腰を下ろす。 ソファの沈み込む感覚に、どうしてか胸がざわついた。 ドキドキする。 古泉を直視出来なくなる。 思わず目を伏せた俺に、古泉は遠慮の欠片もなく顔を寄せてきたかと思うと、 「目、そらさないでくださいよ」 と笑いを含んだ声で囁いた。 「っ…お前が近づいてくるのが悪いんだろ…!」 「いけませんか? あなたの部屋でいつもしていることと同じですよ」 そう言っておいて、古泉は俺の目尻にそっと口付けた。 いつもと同じように、優しく、柔らかく。 だというのに、俺は妙にどぎまぎさせられ、古泉から逃れるように体を仰け反らした。 「なんだか、いつもと勝手が違いますね」 くすくすと面白がるように笑った古泉が俺の手を取り、手の甲に口付ける。 そんなキザったらしい仕草が古泉は妙に似合っている。 口付ける先が俺の手なんかじゃなかったら、もっと様になるだろう。 「だめですよ」 たしなめるように古泉は言った。 「あなたでなければ、こんなこと、したいとも思わないんですからね。あなただから、触れたいんです」 使う相手さえ間違えなければ最高の殺し文句だろう言葉を囁いて、古泉が俺の耳にキスを落とす。 それが頬に触れ、鼻先に触れ、瞼に触れる。 気がつけば俺は、押し倒されていると言っても決して言い過ぎではないような体勢に持ち込まれていた。 いつの間に、というべきか、それとも己の鈍臭さに呆れるべきなのか。 「あなたのそういうところも可愛くて好きです。でも、ほかの人にもこんな風にされないように、気をつけてくださいね」 悪戯っぽく言って、古泉はもう一度俺の頬にキスをする。 と言うか古泉よ。 「はい?」 「さっきから唇を避けてるのはわざとか?」 ふふ、と忍び笑いを漏らし、 「わざと、というのは響きが悪いですが、確かに意図的にそうしてましたよ。いつになったらあなたからねだってくださるかと思いまして。…いつもなら、痺れを切らして自分からキスしてくださってる頃でしょう? 僕の部屋はそんなに落ち着きませんか?」 「いや……落ち着かないわけじゃない」 むしろ、落ち着ける方だとは思う。 先日初めて来た時も、なんとなくだが居心地のよさを感じたくらいだからな。 ただ、 「…お前と二人きりってのがな……」 「恥かしいですか? それとも、怖い?」 「…さて、どうなんだろうね」 よく分からん。 「僕にしてみれば、あなたの部屋で、いつ妹さんやお母様がいらっしゃるかとびくつきながら過ごすよりは、多少気が楽なのではないかと思うのですが、どうでしょう」 それも一理ある。 しかしそれは同時に、歯止めが利かないということでもあるんじゃないだろうか。 誰か来るかもしれないとか、聞かれるかもしれないと思うからこそ制御出来てる部分があるのはまず間違いないことだろうからな。 「そうですね…。あなたと二人きりだからこそ、僕もここまで強気に出られるように思いますし」 そう言っておいて、古泉はふと思い出したように表情を翳らせ、 「……強気な僕は、お嫌いですか?」 と聞いてきた。 俺は目を瞬かせるほかない。 今更何を言い出すんだか。 大体、 「お前が強気に出たところで、別に大したことないだろ」 「酷いですね」 そう言いながらも笑ってるってことは自覚してるんだろ。 俺が呆れるくらい、俺にべた惚れなくせによく言うもんだ。 「確かにその通りではあるんですよ。…だからこそ、あなたをこの部屋に誘ったのかもしれません」 「どういう意味だ?」 「あなたの家ではどうあっても、あなたがいつも以上のことなんて許してくれないでしょう? でも、ここなら違うかもしれないと、そう思ったからかもしれませんよ?」 「…だとしても、今日ここに来たのは俺の意思だろ」 「ええ、それだけに、嬉しいですよ」 そう言った古泉が額に口付ける。 ああもういい加減にしてくれ。 「分かりました」 くすりと笑った古泉の唇が、俺の唇にやっと触れる。 その柔らかな感触を味わいながら、俺はじっと古泉を見つめた。 古泉の言った通りかもしれない。 俺があそこまでこの部屋に来ることを躊躇ったのも、今日いきなり来たいと言い出したのも、俺の部屋だけではこれ以上進展のしようもないと分かっていたからじゃないのか。 逆に言えば、ここに来ればもっと進みようがあると思い、それを望んできたと言うことになる。 それはそれで非常に恥かしいことではある。 しかし、だ。 それでいいとも思えるのは、やっぱり俺がこいつに負けないくらい、こいつにべた惚れだからなんだろう。 更に言うと、こいつがそんな風に、俺の意思を優先し、俺の嫌がることを決してしないだろうという信頼があるからでもある。 その信頼を試すわけではないのだが、それに甘えたいと思っちまうのは、俺の悪いところかもしれない。 どう考えたって残酷なだけだからな。 でも俺は、それを止められないのだ。 古泉が俺を、女の俺でも他の誰でもない、今の俺を、好きだと言ってくれるからこそ。 「古泉……」 唇と唇の間から呟くように名を呼べば、愛おしげな瞳が向けられる。 それだけで、ぞくぞくした。 古泉に愛されていると分かるだけで、だ。 恋の病とはよく言ったものである。 こんなもの、本当に病気だとしか思えん。 「好き…だ……」 「僕も、あなたが好きですよ。…愛してます」 そう言った唇が俺の耳に触れたかと思うと、耳朶を甘噛みされ、 「ひぁっ…!?」 と妙な声が俺の口から漏れた。 「な、何してんだ…っ?」 「すみません。柔らかくておいしそうに見えたものですから、つい」 そう謝りながらも、古泉は俺の耳から唇を離そうとしない。 歯で硬さを確かめ、舌で形をなぞり、届かない奥まで吐息で探ろうとするかのように息を吹きかける。 「ゃ、…っ、く、すぐったい、だろ…」 「本当に嫌なら、突き飛ばしてでも逃げてください。そうしてくれる人でしょう? あなたは」 うっとりと熱っぽく囁きながらも、古泉はそれを止めない。 その声にすら、ぞくぞくと体が震えた。 なんだこれ。 前代未聞の感覚にびくつく俺を殊更に優しく抱き締めて、古泉は更に舌を這わせる。 耳の穴の中に舌先を差し入れられ、びくんと体が跳ねた。 「やめろって…! 汚いだろ…」 「気になりませんね。でも、あなたが気になるのでしたら、後で耳かきでもしましょうか。ちょっと得意なんですよ」 「ばっか…! ぁ、っんん…っ」 「…可愛いですね」 その囁きが、限界だった。 「っ、も、無理! キャパオーバーもいいところだ!!」 そう叫んで、俺は古泉をぐいっと押し返した。 ここでそうしておかないと、これ以上こんなことをされていたら押し返すだけの力もなくなると思ったからである。 押し返された古泉は、残念そうに苦笑しながら、いつものようにあっさりと体を引き、ハァハァと息を乱す俺のことを助け起こした上で、 「やっぱり、いつもよりはずっと平気でしたよね? この前なんて、ちょっと耳を舐めただけで思い切り突き飛ばされましたし」 とこれまた嬉しそうに言うのだ。 もはや、健気とかそういう次元ですらない気がする。 「し、るか…!」 羞恥に真っ赤になっている俺に、古泉は穏やかに微笑みつつ、 「愛してますよ」 などと宣った上で、 「耳かきはどうします?」 と何事もなかったかのように聞いてきやがったので、思わず殴り飛ばしていた。 耳かきは、非常に気持ちよかった。 |