「今日こそ、僕の部屋にいらっしゃいませんか?」 勇気を振り絞って言ってみたのは、彼の部屋でのことだった。 彼は一瞬驚いたように僕を見つめた後、それからやっと頬を愛らしく赤く染め、 「それ…なんだがな…、その、……俺も、お前の部屋に行きたくないわけじゃないし、むしろ行きたいとは思うんだが、うぅ…、なんというか……二人っきりってのはどうかと思うんだが…?」 「別に、何もしませんよ?」 信用されてないのかな、と内心で苦笑しながらそう言うと、彼は慌てて首を振った。 「いやっ、お前に何かされるとかそういうのを警戒してるわけじゃないんだ。信じてないとかそういうのでもなくて……つまり、その、……き、緊張して、心臓がおかしくなりそうになる…から……」 しどろもどろになりながらそんな風に可愛らしいことを言ってくれる彼に、僕は笑って頷く。 「僕もですよ」 「――は?」 「僕も、あなたが僕の部屋に来てくださって、しかも二人きりになるなんてことを考えたら、それだけで胸がドキドキして、おかしくなってしまいそうです。でも、あなたに来ていただきたいとも思うんです。もっと僕のことを知ってほしい、と。ですから、こうしませんか?」 僕は笑顔のまま、提案する。 「あなたの妹さんも一緒にお誘いする、というのはどうでしょう?」 「…え? 妹も…? いいのか? それで」 「はい。僕にとっては、妹さんも十分大切な…そうですね、家族のようなものですから、家に上げることに否やはありませんよ」 「家族のようなものって…」 「あなたの妹さんですから、当然でしょう?」 にっこり笑って言えば、彼はぱっと顔を赤らめた。 「は、恥かしいこと言うなよ…!」 「恥かしいですか? では、考えを改めましょうか」 僕が笑みを崩さずに言えば、彼はもごもごと口の中でかすかに、 「…いい」 と言った。 それが聞こえなかったわけではないのだけれど、もっとはっきり聞きたくて、 「なんですか?」 と問うと、 「いいって、言ったんだ! ちゃんと聞こえてんだろ!?」 怒ったように言っているのに、嬉しそうなくすぐったそうな顔では、とてもそうは聞こえない。 僕は手を伸ばして彼の肩に両手を置くと、そのままそっと顔を近づける。 「いい、ですか?」 「ん…。そんくらい、本気で考えてくれてんだろ…?」 「勿論ですよ。…あなたのことを、何よりも愛してますから」 「俺も…好きだぞ」 「知ってます」 くすぐったそうに微笑んだ彼が目を閉じる。 キスをして欲しい時の、暗黙のうちに成立した約束だ。 だから僕はそろりと顔を近づけると、彼の唇に自分のそれを重ねた。 背中に彼の手が回されるのを感じながら、一度唇を離せば、今度は彼から引き寄せられ、唇を重ねられる。 薄っすらと目を開いた彼は、僕の様子をうかがっているんだろう。 観察していると言っていいような視線が注がれているのを感じる。 それがくすぐったいのか、それとも嬉しいのか分からなくなりながら、僕は彼の唇を舌先で割ろうとくすぐった。 ――という、ある意味絶妙のタイミングで、 「キョンくーん、入っていいー?」 と妹さんの声が響き、ドアがノックされてしまった。 慌てて身を引いたのは、そうでなければ軽いパニックにも似た状態に陥った彼に突き飛ばされるのが目に見えているからだ。 実際彼が思い切り突き出した手が、僕の肩をかすった。 直撃していたら後頭部を強打する勢いで転がっていたことだろう。 「い、いいぞ」 どもりながら彼が答えると、妹さんがドアを開け、ひょこりと顔をのぞかせた。 「あたし、お邪魔しちゃった?」 と悪戯な笑顔。 「子供は気にしなくてよろしい」 反射的にだろう、ぱしりと返した彼に、妹さんは小さく笑った。 「はぁい」 「で、何の用だ?」 「あのねぇ、お母さんが、今日も古泉くんは一緒に夕ご飯食べるんだよねって確かめてってー」 その言葉に、僕と彼は顔を見合わせて苦笑するしかない。 確かに、遊びに来た日にはいつものように食事をご馳走になってしまうけれど、そう言われると流石に困る。 それに、今日は一応夕食の用意もしてあるので、断らなければならない。 「それなんですが、」 「今日は俺の分もいい。古泉の家で食うからな」 僕が言うより早く彼がそう言い、はにかむような笑みと共に、 「それでいいんだろ?」 と確認を求めてきた。 「いいんですか!?」 「ああ。…その代わり、ちゃんとしたもの食わせてくれよ。前に約束しただろ」 「はい」 約束のことまで覚えていてくれたことが嬉しくてそう言った僕に、妹さんが言う。 「えー? キョンくん古泉くんのおうちに行くのー? いいなー。あたしも行きたーい。古泉くん、あたしも行っちゃだめ?」 「いいですよ。むしろ、お誘いしようかとお話してたところだったんです。ね?」 彼は頷き、 「ああ。どうする? 行くか?」 「そんなの、行くに決まってるよ!」 というのが妹さんの返事で、とたとたと部屋を飛び出して行ったかと思うと、閉まりきらなかったドアの隙間から、 「お母さーん、あたしとキョンくんは古泉くん家でご飯食べるねー」 なんて微笑ましい声が聞こえてくる。 小さく笑ったところで彼が、 「それじゃ、支度しねぇとな」 と立ち上がり、僕たちも階下へ向かった。 はしゃぐ妹さんを連れて、僕と彼は僕の住むマンションへと向かった。 それなりに大きく、小奇麗なところなので、妹さんはなにやら更にテンションを高くして、 「凄いねー! あたしもこんなところに住んでみたいなぁ」 なんて言っていたけれど、彼はどうしてか渋い顔をして、 「なんつうか……、予想通り過ぎるな」 「いけませんか?」 「面白味がないって言うのか? なんとなく、学校で見るお前のイメージそのままに思えて、ちょっと、な」 作り物臭くて抵抗がある、ということだろうか。 「見た目だけですよ」 と僕は苦笑を返す。 「それに、もう住み始めてからそこそこ経ちましたからね。最初はどうであれ、あの部屋はもう僕の部屋です。…それだけに、あなたがどんな感想をお持ちになるのか、不安でもあるんですけど」 「散らかしでもしてたら、むしろ安心しちまいそうだけどな。お前も普通の男子高校生なんだって」 「おや、では片付けずにおくべきだったでしょうか。お招きする前にと思って、一応一通り片付けてしまったんですよ」 「それはそれで、お前らしいのかもな」 小さく笑って、 「入ろうぜ」 と言った彼が先に立ち、エントランスにあるパネルを操作してドアを開ける。 確かにパスワードも前に渡したメモに書いておいたのだから、彼が知っていても不思議ではない。 でも、彼は今、メモを見もしないで開けてしまった。 その意味するところはおそらくひとつきりだ。 「…覚えてくださったんですか」 「っ、」 動揺したように僕を見た彼が、顔を赤く染める。 「そんなに何度も見てくださったんですか? あのメモ」 だとしたら嬉しくてならない。 いや、そうだとしか思えないから、僕は今嬉しくて堪らなくて、締りのない顔になってしまっている。 「お、お前の字が汚くてよく読めないから、どう読むのかって何度も見てるうちに覚えちまっただけだ…!」 なんてよく分からないような言い訳をする彼に僕は破顔一笑する。 「ありがとうございます」 真っ赤になってぷるぷる震えている彼の手を握り、ついでに妹さんの手も引いて、 「ほら、早く入らないと閉まってしまいますよ?」 と、彼が開けてくれたドアを抜けた。 エレベーターで上階へ上がりながら、僕は呟く。 「いっそ、部屋の鍵もあなたに開けていただきましょうか」 「冗談だろ、お前が開けろ。住人なんだから。それから、そのにやけきった気色悪い顔を早く何とかしやがれ」 耳まで真っ赤にしたまま言われたって、何も堪えやしない。 むしろ嬉しさが増すばかりだ。 「逆効果ですよ」 「せめて黙れ…!」 「分かりました」 素直に頷いて、そのまま黙り込む。 その間にも、彼はなにやら考えているらしく、困ったように眉を寄せたり、額を押さえてみたり、あるいはこつこつと自分の頭を叩いてみたりと忙しい。 そんな姿も可愛らしくはあるのだけれど。 妹さんはくすくす笑って、僕を手招きで呼ぶと、 「キョンくんって面白いよね」 とこっそりと困ったことを囁いた。 お願いですから、それ、本人には言わないでくださいね? 考え事に夢中だった彼に気付かれなかったのはよかったけれど。 それから、僕は二人を連れて自分の部屋の前まで行くと、ポケットから鍵を取り出し、鍵を開けた。 「どうぞ」 と声を掛けながらドアを開けると、彼は複雑な表情で、 「意外と綺麗にしてるな」 「見た目だけですよ。片付けはあまり得意ではないので、適当に突っ込んだものも多々ありますし、それに、基本的に物の配置は変えていませんから、見つけようと思えば僕が普段使っているものは何でも見つけられますよ」 そう言った僕の袖をつんつんと引っ張って妹さんが言う。 「ねえねえ古泉くん、探検してみてもいーい?」 「いいですよ。お兄さんと一緒にどうぞ」 と言うと、妹さんが彼の手を握り、 「キョンくん一緒に行こうよ」 「待て待て、いくらなんでもそれは…」 「僕は気にしませんから、どうぞ。おもてなしの用意でもしていますね」 僕は正直にそう言って、台所へと向かった。 夕食まではまだ時間がある。 かと言って、飲物だけ出すのも無粋だから、何かおやつでも用意しようか。 そう思いながら、前に彼と一緒に買った料理の本を手に取り眺め始める。 確かどこかに、おやつの作り方も載っていたはずだけれど。 少しして僕が見つけたのは、簡単なパンケーキの作り方だった。 これくらいなら、僕にも作れるだろう。 試しにココアを混ぜてみてもいい。 エプロンを身につけ、僕はパンケーキ作りに取り掛かる。 時々別の部屋から、 「キョンくんこれなんだと思うー?」 とか、 「あ! この服前に古泉くんが着てたよね?」 なんて妹さんの声が聞こえてくるのを聞きながら。 なんだろう、それだけで、凄く穏やかな気持ちになってくる。 自分の家に、自分以外の人間の気配があるというのが久しぶりだからだろうか。 それとも、彼と妹さんがいてくれるからだろうか。 その両方かもしれないし、それ以外の理由もあるのかもしれない。 とにかく僕は嬉しくて、幸せだと思った。 熱したフライパンにバターを入れ、くるりと回しながら溶かすと、それだけでバターのいい匂いが部屋いっぱいに広がり始めた。 多すぎる油分をふき取って、パンケーキの生地を流し込むと、更に甘い匂いが漂う。 それに惹き付けられたのか、妹さんがやってきて、 「古泉くん何作ってるの?」 「パンケーキですよ。お好きですか?」 「大好き!」 満面の笑みは、どこかやっぱり彼の笑顔と似ているみたいだ。 「それは何よりです」 「ねえねえ、あたしも焼いてみていーい?」 「いいですよ。次は一緒に焼いてみましょうか」 「うんっ」 はしゃぐ妹さんと二人で、色んな形のパンケーキを焼いてみたりした。 慎重に絵を描くようにして生地を流し込んでも、元々そういうことのためのものではないためなかなか難しかったけれど、悪戦苦闘するのも楽しく、ついつい熱中した結果、いびつな形のパンケーキばかりになってしまったけれど、それはそれで悪くない。 綺麗に出来たのは最初に焼いた面白みのない丸いものと、最後の方に成功したハート型のもの、それから丸を三つつなげて作ったクマの顔型のものくらいだ。 「あたしクマさんがいいな。古泉くんはまるいのだよね?」 「僕は形の悪いので十分ですよ?」 「それは皆で食べるんだよ。キョンくんにはハート型の上げるんでしょ?」 ウィンクと共にそう言われては、苦笑する他ない。 何もかも分かっているんでしょうか。 それとも、分かってなくて言っているのでしょうか。 計り知れないものがありますね。 焼きあがったものを三枚のお皿に取り分けて、テーブルに運ぼうとしたところで、 「古泉、ちょっと来てくれ」 と彼に呼ばれた。 「はい?」 なんだろう、と思いながら僕は妹さんに後を任せ、呼ばれるまま寝室に向かったのだけれど、そこにいたのは彼ではなく、彼女だった。 「なっ……」 絶句する僕を睨み上げる彼の目は、女性になっているのに男性の時よりよっぽど怜悧に見えた。 「こ、今度はどうしたんですか?」 そう聞く僕の目の前に突きつけられたのは、水着姿の女性が胸の谷間を強調して写っている写真が表紙のグラビア雑誌だった。 「コレは何だ」 厳しい語調で聞かれ、僕は戸惑うしかない。 「何と言われましても…」 よく見つけましたね、と言いたいのが正直な気持ちだ。 こんなものがあったことすら忘れていたのに。 「何かという説明はいい。何でこんなものがお前の部屋にあるのか、しかもベッドと壁の隙間なんて言う場所に隠してあったのか説明しろ」 低い声で唸られ、僕は困惑混じりに、 「そんな場所に入り込んでたんですか」 「……は?」 と彼は戸惑いの声を上げる。 「それ、もらいものなんです」 「もらいものぉ?」 訝しむ彼に、僕はきちんと説明する。 「クラスで他の方々が見ていたのを横目で見ていたら、くれたんですよ。それも、もう半年以上前ですね。もらったことさえ、今まで忘れていました」 「…そう……なのか…? お前のじゃ、なくて?」 「もらったものですから、ある意味では僕のものですけどね。中身をぱらぱらと見たような記憶はありますが、それだけです。それで、」 と僕は抑えきれずに苦笑を浮かべ、 「どうして、女性になっているんですか?」 「どうして、って……」 かあっと彼が赤くなったのは、自分の勘違いが恥ずかしいと言うことだけではないんだろう。 気まずそうにしているのに乗じて、というわけではないのだけれど、ちょっとばかりの悪戯心が疼くくらいには、彼は可愛らしかった。 「こんな写真なんて見ないで俺を見ろ、といったところでしょうか?」 からかうように言ったところで、彼は憤慨するだけだろうと思っていた。 実際、彼は驚きに目を見開き、 「なっ…!」 と絶句した。 「違いました?」 くすくす笑いながらそうダメ押ししつつも、ここまでが限界だろうなと思っていた。 これ以上からかうと嫌われてしまうか、そこまで行かなくても彼の機嫌を損ねてしまうだろう。 やっと部屋にまで来てくれたのに、それでは勿体無い。 だから、冗談です、とでも言って肩を竦めて終りにしようとしたのに、 「――っ、そう、だよ!」 と彼に抱きしめられた。 「えぇ…っ!?」 まさかの肯定に驚く僕に、 「お前が、俺にはキスまでしかしないくせに、こんなグラビアなんか見てんのかと思ったら、こんな、女の子の姿に、なっちまったんだよ…! だから、お前のせいだ…っ」 泣き出しそうな声でそう言って、彼が僕の体にすがりつく。 そんな反応に驚きつつも、僕の口から出たのは、 「…普段のあなたに言われたら、このまま止まらなくなってしまうところですね……」 という妙に落ち着いた感想だった。 「……なんだよそりゃ」 呆れたように言った彼が、上目遣いに僕を見るのへ苦笑を返し、 「いえ、今も結構大変ではあるんですけどね」 なのであんまりそういう目つきで見ないでもらいたいんですが。 「それ以上に、あなたではない、別の女性なんだと思うと、我慢が出来ると言いますか…理性も強まるというものなんです」 「……そういうもんか?」 「そういうものなんです。少なくとも、僕にとっては。今の状態のあなたに何かしたら、それだけで、あなたへの裏切りのように思えてなりませんからね」 「…ふぅん」 そう呟いた途端、腕の中の感触が変化した。 小さく柔らかだったものが、少しばかり大きくなり、腕に馴染んだ感触に変わる。 「え」 絶句したところで、目を開けたままの彼が顔を近づけ、唇を重ねてきた。 腕が首の後ろに絡められ、放すまいとばかりに深く口付けられる。 うっかり見開いたままだった目に映るのは、赤く染まった彼の目元に、熱っぽく潤んだ瞳。 コレはヤバイ。 何がどうヤバイのか説明するまでもないくらい、ヤバイ。 このままだと自分が何をしでかすか分からなくなりそうだというのに、やっと唇を離した彼に見つめられ、 「…古泉……」 と酷く艶っぽく響く声で呼ばれると、それだけで理性が限界を叫びそうになる。 同時に、このまますぐ側のベッドに押し倒してしまいたいという衝動に駆られ、彼を抱きしめる腕に力がこもる。 その葛藤に身動きが取れなくなりかかった時、 「キョンくーん! 古泉くーん! パンケーキ冷えきっちゃうよー?」 という妹さんの声が廊下の方から聞こえ、我に返った彼によって僕は思いっきり突き飛ばされた。 よろけた僕へ彼が慌てて、 「っ、す、すまん、古泉!」 「いえ…いいんですよ」 「ほんと、すまん」 平謝りしてくる彼には悪いけれど、正直、本当にこれでよかったと思っている。 …本当ですよ? 強がってなんていませんから、ええ。 |