普通の恋人同士ってのがどんなものなのか、俺にはよく分からん。 ただ、テレビだの漫画だのを見ていると、もっと甘ったるく過ごすものなのかと朧気ながらに思えたりする。 俺と古泉の場合はどうかと言うと、確かに甘くはあるのだろうが、それ以上に不思議な緊張感があるように思える。 気を抜けばどこまでも引っ張り込まれて戻れなくなりそうな感覚は綱引きや綱渡りに似ている。 時にはその綱さえ見えなくて、つまりは古泉がどうしたいのか、自分がどうしたいのかも分からなくなって、真っ暗な中で綱を手探りしているような気もしてくる。 それでも俺は、そんな緊張感も楽しいものだと感じているし、古泉も多分同じなんだろう。 どこまで踏み込んでいいのか、踏み込ませていいのか、お互いに計りあっているような不思議な感覚がずっと続いてきていた。 このところ、部室に行くのは二日に一度のペースになってきていた。 ハルヒの計らい…と言うのだろうか。 単純にうざがられているだけだという気もする。 部室に行くのは大体、月水金の三日間で、後は古泉と一緒に過ごさせてもらっている。 ありのままに言えば、ハルヒに、「鬱陶しいから毎日来るな!」(要約)と怒鳴られた結果だ。 それでどう過ごしているかといえば、俺の部屋でだらだらしているだけなんだが、それでも嬉しいし楽しい。 俺の部屋でばかり過ごすのは、そうそう外で会っていられるだけの経済的余裕がないからというのがひとつ。 ひとり暮らしをしているという古泉の部屋に行くだけの勇気が俺にないからというのがひとつだ。 ……いや、相手はあれだけ鈍くて、じれったくなるほど紳士的な古泉なんだから、勇気なんて要らないのかもしれないがな。 それでも、なんとなく上下関係と言うか、役割のようなものが決まりつつある以上、本当に二人きりになるというのには勇気がいる気がするわけだ。 もしかすると、必要なのは勇気じゃなくて覚悟なのかも知れんが。 それに、俺には分からないんだ。 古泉の部屋、つまりは古泉の生活領域であり、私的な場所に、俺なんかが踏み込んでいいのかということが。 古泉は、立場上仕方なく、本当の姿を見せてくれてない。 もしかすると、今のこれだって随分と演技をしているのかもしれない――なんて思うのは冗談が過ぎるだろうか。 古泉は本当にリラックスしているように見えるし、俺を好きだと言ってくれる目にも嘘はないように思える。 それに、ハルヒや長門が許してくれたってことは、古泉が嘘や陰謀で動いているわけじゃないという証明だろう。 何よりも、俺はあれだけ紆余曲折があった末に古泉がやっと口にしてくれた俺への想いを信じていた。 だが、それでも、まだろくに知らない古泉の部屋に入っていいのかと悩んでしまうわけだ。 古泉のことだから、俺が行きたいと一言言えば、こっちが拍子抜けするほどあっさりと入らせてくれそうではあるのだが、それだけにそれを言ってしまっていいのかと悩む。 果たして俺にそこまで踏み込むだけの権利があるだろうか。 そんな風に考え込んでいると、隣りでじっと本を読んでいた古泉が不思議そうな顔をして俺を見た。 「あの、どうかしましたか?」 「ああ、いや、ちょっとな」 苦笑すると、古泉も同じように笑って本を床に置いた。 どうするつもりだ、と思いながら見ていると、両手を空けた古泉は俺に向き直るような形になって、 「考え事をしてたんでしょう? …僕には相談してもらえませんか?」 と悲しそうに眉尻を下げた。 そんな表情は正直言って反則だと思う。 頼りないというのとはまた違う。 同情を誘って、嘘を吐くことを俺自身が許せなくなるような表情だ。 「そ…ういうんじゃ、なくて…」 というか、ドキドキするからあんまり顔を近づけるなよ。 俺は血液が顔の方に集まってくるのを感じながら、 「お前のこと、考えてたんだよ…!」 と唸るように言った。 恥かしくて目を閉じたのだが、それでも、 「僕のことを?」 と首を傾げた古泉の表情がどんなものか、分かる気がした。 「どんなことを考えてたんです?」 「どんなって…」 「教えてください。気になりますから」 そう言って古泉は尚も顔を近づけてくる。 もう吐息が顔に掛かるほど近い。 心臓は落ち着きの欠片もなく動いていて、このままいきなり止まってしまいそうだ。 「…俺は、お前のこと、あんまり知らないんだと思って、な…」 それだけ、俺が何とか口にすると、古泉は小さく笑ったようだった。 「僕も、あなたについては知らないことばかりですよ。だからこそ、知りたいと思います」 優しい声が俺の体を包み込むようだと思った。 それと同時に思うのは、今は古泉が綱を引っ張っているんだなと言うことだ。 もう手繰り寄せる必要もないくらい近づいちまってる俺の心を、更に引き寄せようとしている。 そのまま引き摺られたいとどこかで思っている俺に、古泉はそっと言葉を紡ぐ。 「それに、あなたといることで、僕は自分でも知らなかった自分を知ってもいるんです。あなたをもっと知りたい。自分のことも、もっと知りたいと思いますし、そんな僕のことを、あなたにも知ってもらいたいと思います」 薄目を開けて古泉を見た俺に、古泉はにっこりと微笑して、 「今日だって、あなたのことをもっと知りたくて、あなたの本を借りて読んでみたりしてたんですよ?」 と傍らに放り出したままの本を指し示す。 「あなたも、僕のことを知りたいと、思ってくださっていると、僕はそう思って、いいんですよね…?」 自信のない言葉に、俺ははっきり、 「当たり前だろ」 と返した。 「俺だって、お前に知って欲しいと思ってるし、お前のことを知りたいと思ってる。……ただ、俺はどこまでお前のことを知っていいのか、どこまで踏み込んでいいのか、分からなくて……」 「それで、悩ませてしまったんですね」 すみません、と古泉は口にはしなかった。 ただ、そんな色を瞳に滲ませた。 「んな、申し訳なさそうな顔、すんな…」 俺がそう言うと、少し驚いたように眉を上げた古泉だったが、すぐに破顔一笑して、 「……ありがとうございます」 その白くて綺麗な、ただし、それでもいくらか男らしく筋張った手が、俺の不恰好な手を取る。 「どこまで、なんてことは気にしないでください。あなたに知られたくない面が全くないとは流石に言えません。僕だって、聖人君子ではありませんからね。後ろめたいことは探せばいくらだってあります。でも、それでも、それも含めてあなたに知ってもらいたいと思ってるんですから。知りたいと思ったら、いくらでも聞いてください。そうでなければ、調べていただいても構いませんから」 「…ん、ありがとな」 古泉のそれだけの言葉で、悩んでた自分が本当に馬鹿のように思えてきた。 付き合い始めてから、あるいはそれ以前でも、古泉が古泉自身として何かする時には、いつだって古泉は誠意を持って俺に接してくれている。 それなら、悩まずにちゃんと聞けばよかったんじゃないか。 馬鹿だな、と自分を笑って、それからさっき考えていた、古泉の部屋に行っていいのかということを聞こうとしたところで、古泉がポケットから何かを取り出した。 「このところずっと、いつお渡ししようかと思ってたんですけど…」 そう言いながら俺の手に乗せられたのは、くしゃくしゃになった一枚のメモと、古泉の温もりの移った銀色の鍵だった。 …温い。 「これ…」 驚きに目を見開く俺に、古泉ははにかむように笑って、 「言うまでもないかもしれませんが、僕の部屋の鍵です。マンションの住所に部屋番号、暗証番号もきちんと書いておきましたから、いつでもいらしてください」 「……いい、のか…?」 まだ戸惑いの抜けない俺に、古泉はかすかに声を立てて笑った。 「悪かったら、渡したりしませんよ。…好きに使ってください。僕と二人きりになることに身の危険を感じるようでしたら、僕がいない時に入って、生活ぶりを調べられても構いませんよ?」 冗談っぽく言った古泉に、 「馬鹿。んなことするかよ」 と言ったのだが、古泉はまだ笑ったまま、 「いえ、正直な気持ちを申し上げますと、そうしていただいた方がいいような気もするんです。……あなたと僕の部屋で二人きりになるなんてことになったら、流石に自制しきれるか、自信がありませんから」 「んなこと言って…」 冗談だろ、と笑った俺に、古泉は大真面目な顔をして、 「本当ですよ。今だって、結構我慢してるんですからね」 などと言う。 「我慢なら、俺だってしてる」 そう言って古泉を抱きしめると、古泉の心臓が俺のそれに負けないくらい早鐘を打っているのが分かった。 その速さも強さも、愛おしい。 古泉の肩に預けた頭を起こして、古泉にキスをすると、かすかに顔を赤く染めた古泉に抱きしめ返された。 そうしてどこか熱っぽく、 「もう少し、いいですか…?」 と至近距離で囁かれる。 「…ん」 おずおずと顎に手を添えられ、もう一度キスをする。 俺は古泉の長くてたっぷりした睫毛なんかを観察していたのだが、唇を軽く舐められるとそんな余裕も失せた。 滑らかなそれを気持ちいいと思った時には、自分から唇を開き、舌を差し伸べていた。 俺がそれに羞恥を覚えるより早く、古泉がそれに舌を触れ合わせると、それだけでぞくぞくとした気持ちよさに体が震えた。 「ん…っ……ぁ…」 くちゅ、と恥かしい音が響く。 それでも止めたくないと思わせる何かがその行為には潜んでいる。 でも、俺はまだこれより先には踏み込みたくない。 まだしばらくは、これくらいの距離を保ちたい。 やっぱり綱渡りだ。 古泉を放したくない。 でも、近づき過ぎたくもない。 恋愛ってのは複雑で、だが、だからこそこんなにも楽しいと思いながら、俺はそっと古泉の肩を押して体を離し、詫びるようにその頬に口付けた。 困ったように笑いながらもそれ以上押してこない古泉は、他の誰よりもかっこいいと思う。 |