癖になるほど



古泉が前かがみになって、少し顔を傾けながら唇を近づけてくる時、前髪がさらりと流れて、いつもと違う位置に、それから俺の顔にまで掛かるのを見ているのが好きだ。
キスをする時にそうして目を開けているのは趣味が悪いかと思って、薄目で伺うだけにしていたのだが、一度気が付かれた時に、
「別にいいですよ、見ていても。その代わりに、僕が見ていても怒らないでくださいね?」
と言われ、そう約束してからはじっとそれを見つめていられるようになった。
そう言った割に、古泉はたまにしか目を開けたままキスしては来ない。
薄く目を閉じて、そっと優しく口付ける。
まさか、そんな時に瞼の下に落ちる睫毛の影にさえ俺が見とれていると、ばれているわけではないはずだと思いたいのだが、計算でもしているのかと思うほど絶妙な角度を、古泉は俺に見せてくれる。
見ているだけでどうにかなりそうなのに、触れる唇は柔らかくて気持ちがいいし、困るくらいドキドキして顔が熱く、赤くなる。
もっとしたいのか、それともそれくらいで止めておいて欲しいのかさえ、俺には分からん。
触れさせた唇を一度離して、古泉が恥かしそうに笑うのも好きだ。
恥かしそうに、そのくせ幸せいっぱいと言った表情は、カテゴリーではいつも浮かべているものと同じく、笑顔というものに入れられる。
だが、その柔らかさも自然さも、いつもとは比べ物にならないほど違う。
勿論、いい方にだ。
本当に、心の底から幸せそうに古泉が笑ってくれるのが嬉しい。
それから、一度では足りないとばかりに、もう一度唇を近づけてくるのも、嬉しい。
俺も一度では足りないから。
その唇が、まるで肩透かしでも食らわせたいかのように頬に触れても、また嬉しい。
頬へキスされるのも、頬にキスするのも好きだから。
かすかに掛かる吐息のくすぐったさも、感じる体温も全て愛しい。
俺からする時は、すべすべして、まるで女の子みたいな頬に余計にどぎまぎさせられる。
…いや、女の子の頬なんて、指先ですらろくに触れたこともないんだがな。
それでも、古泉の頬はつるつるして気持ちがいいものだと解る。
あまりに気持ちがいいものだから、つい、舌先でぺろりと舐めてみた時は、
「そういうことするんでしたら、僕の方もしちゃいますよ?」
という言葉と、悪戯っぽい笑みと共に、頬にキスされ、軽く舐められた。
ほんの少し、時間にして一秒足らず、面積は1平方センチメートルを超えるか超えないかと言うぐらい、ちょっとだったはずだ。
それなのに、くすぐったくて、恥かしくて、気持ちよくて、俺は思わず真っ赤になって古泉を突き飛ばしちまったわけだが、古泉は怒りもせずに、
「結構恥かしがり屋さんなんですよね、あなたって」
と笑っていたので、悔しくてもう一発殴ってやった。
好きだとか愛してるだとかいう感情と、照れってのは全くの別物だと思った。
ちょっとした沈黙があると、キスをする。
キスってのは黙ってないと出来ないからな。
だから、沈黙も嫌じゃない。
むしろ、いつしようかとお互いに間合いを計っているような緊張感が甘やかですらあるから、好きな方だと思う。
喋って、古泉の声を聞いて、難しい言葉に彩られた素直じゃない古泉の言葉に耳を貸して、それから、訪れた沈黙に満足しながらキスをする。
古泉から、あるいは俺から。
そうでなければどちらからということもなくキスをする。
キスをすることだけにかけては、もはや熟練の域に達してるんじゃないだろうかというくらい、お互いの呼吸が分かる。
手を重ね合わせたいと思っているとか、そうじゃなくて固く繋ぎ合わせたいと思っているとか、そんな瑣末な違いまで分かる。
だから本当は、古泉が触れるだけのそれじゃ我慢しきれなくなりながらも、俺のためにとじっと耐えてくれてることも分かってる。
分かっていて、その先に進もうとしないのは、そうやって俺のためにと我慢してくれる古泉が愛しくてならないからだ。
俺も男だから、キスだけじゃ足りないっつうことくらい分かってる。
もっと先に行きたいってのも。
谷口なんかを見てたら、よく分かるからな。
……谷口はいくらなんでもがっつきすぎだと思うが。
それでも、普通はキスだけじゃダメなんだろ?
それなのに、古泉はそんなこと少しも言い出さずに我慢してくれている。
時々悪戯みたいに俺の唇を舐めてきたりはするが、俺がちょっと眉を寄せて睨むだけで止めるくらいだ。
もう少し押してくれてもいいと思わないでもないのだが、俺を尊重してくれようとするその気持ちが嬉しくて、それに甘えたくてしょうがないんだ。
そんなことをして甘えてばかりいると、いつか何らかの形で痛い目を見るのかもしれない、と少しくらいは思わないでもない。
だって、そうだろ?
こんな、本当に愛してくれてると分かっている恋人に対して、試すような真似をして、ずっと我慢を強いてるんだからな。
その結果、古泉に嫌われたらと思うと震えそうになるほど、そのことが怖い。
だが、それでも俺は、もう少しだけでいいから、こんな風に優しく、大事にしてくれる古泉に甘やかしてもらいたいのだ。
その代わりに、というわけでなく俺からも古泉にキスをする。
代わりなんかじゃなく、俺がしたいだけなのだが、これは古泉を酷く喜ばせる行為らしい。
本を読んでいる古泉に顔を近づけてキスをすれば、
「何ですか?」
なんて余計なことも言わないで、笑って応えてくれる。
古泉のその、はにかむような笑顔も、可愛くて好きだ。

だから、いつものように俺は古泉に顔を近づけようとした。
目が覚めたら古泉のきれいな顔がすぐ近くにあったんだ。
それなら、大人しく見ているだけで済ませられるわけないだろ?
だが古泉は、ギリギリのところで俺の唇を手の平で押さえた。
顔に似合わず筋張って男らしい手の平の感触だって、そりゃあ嫌いなわけじゃないが、唇の感触に比べたらどちらがいいかなんて言うまでもない。
だから俺は唇を押さえられたまま、
「あにすんら」
と聞いたのだが、古泉の返事は苦いものの混ざった笑みと赤く染まった頬で、
「あの…すみません、流石に電車内では…というか、公共の場所ではやめときましょうよ…」
と恥かしそうに言われた。
電車内? 公共の場所?
「……あれ?」
「あれ、じゃありませんよ。寝ぼけてるんですね?」
苦笑混じりに言われて思い出したが、今俺たちがいるのは電車の中で、俺は古泉と並んで座席に座ったまま転寝をしていたのか。
「全くもう…困った人ですね」
くすくすと笑う古泉がやっと手を離してくれたので、小さな声で、
「だ、って、しょうがないだろうが。目が覚めたらお前の顔が見えたんだから……」
と言い訳にもならないようなことを言い立てたが、その間も周囲からちらちらと向けられる視線が恥かしいことこの上なかった。
俺は古泉以上に赤くなり、
「…悪い……」
と俯いて謝ったのだが、それに対して古泉は、
「いえ、構いませんよ」
と笑い、俺の耳に唇を近づけて、
「癖になるくらい、してますもんね? …キス」
などと囁きやがった。
「――っ、」
文句のひとつくらい言ってやりたいが、とっさには言えない。
とはいえ、勝ち誇ったよう、とまでは行かないものの余裕ぶった表情を浮かべた古泉はムカつかないでもない。
だから、と俺は唸りながら効果的な一言を考えて、言い放った。
「誰かさんがキスより先に進もうとしてくれやがらないからな」
自分がそうしないようにしておいて何をかいわんやという話ではあるのだが、どうやら古泉には効果があったらしい。
ぎくりとした様子で目を見開いたかと思うと、赤くなって絶句した。

ざまあみろ。