一体彼はいつ元に戻ってくれるつもりなんだろうかと考え、僕は戦々恐々としながら通学路を歩いていた。 眠い頭はぼんやりとしかものを考えられないので余計に困りものだ。 なお、僕が眠い理由は別に閉鎖空間が発生したからとかそういう理由ではない。 もっと単純で、どうしようもない理由だ。 …それにしても、戻ってくれていなかったらどうやって説得しよう。 唸りながら歩いていると、ぼすんとカバンで背中を叩かれた。 「よう」 と不機嫌に声を掛けてきたのは言うまでもない。 彼だ。 「元に戻られたんですね」 思わず笑顔で言うと、彼は不貞腐れたような顔に怒りを滲ませ、 「戻っちまったんだよ!」 ともう一度僕を叩いた。 どうやら、元に戻るつもりはなかったらしい。 「なのに、戻ったんですか?」 交際することになったと、長門さんが涼宮さんに伝えたんだろうか。 それで、彼女はもういいと思って? 僕はそう考えていたのに、彼は違ったらしい。 独り言のようにぶつぶつと、 「やっぱり満足しちまったからか…?」 なんて可愛らしいことを呟いている。 本当に、可愛くて可愛くて、困る。 男でもこれなんだから、女性になんてなっていられたら僕は理性が持たないところでした。 心底思う。 戻ってくれて何よりだと。 それでつい、緩んだ笑顔になってしまいながら、 「満足してくださったんですね」 と言うと、彼は自分の独り言が漏れていたことにやっと気がついたらしい。 顔をぱっと真っ赤に染めて、 「っ、だ、って、……なぁ…っ」 と口ごもっているのも可愛い。 「僕も同じですよ。…嬉しくて、嬉しくて、昨日は眠れなかったくらいです」 それが僕の寝不足の最大の理由だ。 恐ろしく単純で、どうしようもない。 それなのに、こんな寝不足の気だるささえ幸せに思えてしまうんだから、本当に困ったものだ。 「寝てないのか!?」 驚き、心配そうに顔を覗き込まれても嬉しい。 「大丈夫ですよ、一晩くらい、どうってことありません」 心配されるのも嬉しいけれど、こうして彼の表情を曇らせてしまったり、不要な心労を掛けてしまうなら、あまり心配をかけてもだめだな。 「本当に大丈夫なんだろうな?」 まだ心配そうな彼に笑顔で、 「ええ。…そんなに酷い顔してますか?」 「…いや、いつも通り、嫌味なくらい綺麗な顔だ」 ……ええとそれは褒めてくださってるんですかね。 「皮肉だ」 そう笑った彼が眩しいくらいに思えた。 僕は自分の口元を押さえながら、 「いけませんね。どうにも顔が緩んでしまって…」 と呟いた。 彼に会ってから、自分でもだらしないと思えてくるくらい、表情筋が弛緩しっぱなしだ。 今、真面目な表情をしろと言われたら困り果ててしまうに違いない。 でも彼は、僕の顔を見つめつつ、 「別に大丈夫だろ。緩んでる、って言っても少しだから、分かる奴は普段からお前のことをよく見てる奴くらいじゃないのか?」 僕のことをよく見てるって言ってるんですよねそれは、と僕が言うより早く、彼ははにかむような表情を見せ、 「それに、……その、そういう顔も、…嫌いじゃ、ないし……」 ――本気で一体何なんですかこの人は! 可愛すぎるんですけど!! 余計ににやけてしまった僕の頬を軽く引っ張って、 「流石にそれはにやけすぎだ」 と言ったくらいだから、自分のせいだと言うことも分かってないのかもしれない。 そんなわけで、僕のまるきり病気のような表情筋の緩みは彼と別れるまで続いた。 正確に言うなら、更にその後まで、だ。 彼と別れてからは少しばかり落ち着いたものの、それでも普段と比べると、ずっとだらしのない表情になっていたに違いないから。 彼のことを思うだけでにやけてくる顔を隠そうと、窓際に立ち、雲の流れを見ているような風を装っていた休み時間。 不意に、 「古泉くん、ちょっといいか?」 と声を掛けられた。 話しかけてきたのは、先日僕に告白してきた同じクラスの女子生徒で、その背後には遠巻きにこちらをうかがっている女子生徒の姿が見える。 一体何事だろうと思いながら、 「何でしょうか?」 と向き直ると、彼女はちょっと声を潜めて、 「ちょっとした噂を聞いたんだが、その真偽を確かめさせてもらいたいだけなんだ。もし不快に思ったら、悪い」 そう前置きしてから、 「……5組のキョンくんと付き合ってるって、本当なのか?」 と言われ、一瞬頭が真っ白になった。 それでも僕は辛うじて平静を保ちつつ、 「……その質問に答える前に、ひとつお聞きしたいんですが、その噂の出所はどこでしょうか」 彼女は苦笑して、 「出所って言うか、5組の涼宮さんが朝、教室でキョンくんに、やっと古泉くんと付き合うことになったのね、おめでとうって叫んでたらしいよ」 ……なるほど、大いにありうることだ。 それなら、否定する必要はないだろう。 だから僕は、普段よりもずっとにやけた笑みを浮かべつつ、 「それでは、否定しなくてもよさそうですね」 「じゃあ、やっぱり?」 「はい。昨日からお付き合いさせていただいてます」 そう答えた時に周囲がざわめいたけれど、気にしない。 「じゃあさ、」 彼女は気を使ってか、他に聞こえないような声で、 「好きな人って、キョンくんのことだったんだ?」 「そうです」 「そっか……。あのキョンくんがね…」 どことなく親しげだけれど、 「彼と面識でもあるんですか?」 「まあ、一応同じ中学だったし」 そう笑った彼女は、 「と言っても、同じクラスになったことはなかったからな。向こうは覚えてないかも知れん」 「それは残念です。彼の中学生の頃の話でも聞けたらと思ったのですが」 冗談めかして言えば、 「残念だったな」 と返した上で、 「…ま、何にせよ、おめでと。ずっと片思いで辛かったんだろ?」 「ええ。やっと報われて…幸せ過ぎて困りますね。ところで、」 僕はちらりと彼女の向こうにいる女性陣に目を向け、 「あなたは彼女達の代表、ということでしょうか」 「ま、そんなとこだな」 にやりと笑って、彼女は悪びれもせずに言った。 「普通に考えりゃ、あたしが一番聞きやすいだろ? 同じクラスだし、古泉くんと話す機会も多かったから」 「ご苦労様ですね」 苦笑しながら言えば、彼女は軽く頷き返した。 そうして、 「幸せにな」 と言われ、少しばかり顔が赤くなるのを自覚した。 僕が否定しなかったせいもあるのだろうし、涼宮さんのことだから聞かれれば聞かれるまま、堂々と本当のことを話しまくってくれたのだろう。 放課後には、僕と彼のことはすっかり噂になってしまっているようだった。 そのうち生徒指導室に呼び出されるかもしれない、と思いつつそれまでに何らかの手を打とうと決めて、僕が部室のドアを開けると、 「古泉くん、おめでとー!」 と涼宮さんがご機嫌で叫び、朝比奈さんと長門さんも、 「本当に、おめでとうございます」 「おめでとう」 と嬉しくなるような祝福の言葉をくれた。 「ありがとうございます。皆さんのおかげですよ」 そう返しながら、彼に目を向けると、彼はいつもの席でぐったりと机に突っ伏していた。 「ええと……大丈夫ですか?」 僕が声を掛けると、彼はのろのろと顔を上げ、 「……なんでお前は平気な顔してられるんだ? 俺みたいに問い詰められなかったのか?」 「問い詰められたりはしませんでしたね。最初に聞かれた時、堂々と認めたからでしょうか」 「は!?」 驚きの声を上げる彼に、いけなかったのだろうかと今更ながら心配になってきた。 ちゃんと考えたら、いけなかった気もする。 涼宮さん公認とはいえ、普通の男子高校生としての立場を考えるなら、同性愛者であると噂が立つのは決していいことではないはずだから。 「すみません、やっぱりいけませんでしたか」 「い、いや…いけない、とは……言わないが…」 もごもごと、迷うように彼は言った。 少しずつ赤味を増していく頬さえ愛らしい。 「…その、よかった、のか? 言っちまって……」 「涼宮さんが大きな声で言ってしまっていたんでしょう? それに、僕としても、堂々と主張したかったんです。あなたは僕の大切な、愛しい人なんだということを」 彼は今度こそ絶句して真っ赤になった。 その表情は、言葉よりも雄弁に、嬉しいと言ってくれているようだ。 どうやら、言ってしまってよかったらしい。 怒られたらどうしようかと思ってただけにほっとする。 赤くなった彼が可愛くて、愛おしくて、 「僕が好きなのはあなただって、言いたかったんです。…好きですよ。愛してます」 調子に乗ってそう囁くと、真っ赤になりながら彼が口の中で何かを呟いた。 僕の思いあがりでなければ、俺も、とかそういう言葉に違いない。 それへ、聞こえませんと返していいものかと考えていると、涼宮さんが長門さんに、 「…有希の言った通りね」 と言うのが聞こえた。 なんのことだろうと思って涼宮さんを見ると、彼女は丁度椅子から立ち上がろうとしているところだった。 その目が僕と彼を睨みつけ、右手が大きく振り上げられる。 「鬱陶しいから二人ともさっさと帰りなさい! そのべたべたいちゃいちゃした空気が見苦しくない程度に落ち着くまで、部室に来るんじゃないわよ!」 という言葉と共に、僕たちは荷物ごと部室の外へ追い出されてしまった。 「……いけませんね、ついつい、周りが見えなくなってしまって」 彼に、お前のせいだと怒られる覚悟でそう口にすると、彼は僕から表情を隠すように顔を伏せながら、 「…俺も同じだから」 と言ってくれた。 それだけでドキドキしてしまうけれど、こういうのも悪くない。 しかし、彼も同じだとしたら、涼宮さんたち傍観者にしてみると、さぞかし鬱陶しく、癇に障ったことだろう。 部室に戻るのは諦めて、先に帰らせてくださるというご厚意に甘えさせてもらった方がよさそうだ。 「それでは、団長の命令でもありますし、言われた通り、帰ることにしましょうか」 「そうだな」 苦笑混じりに言った彼の手を、 「じゃあ、」 と取った瞬間、それは見事に振り解かれていた。 「あ……」 しまった、とばかりに彼が呟くのへ、僕は情けなく眉を下げながら、 「…やっぱり、手を繋ぐのはだめですか? ほんの少しだけでいいんです。渡り廊下まで行けば人目があるでしょうから、そこまででも」 そう言うと、彼はひとしきりああとかううとか呻いた後、彼の方から手を握ってくれた。 ただそれだけのこと、と言われればその通りなのだけれど、それだけのことがとても嬉しく、幸せでならない。 「幸せです」 そう呟けば、 「これだけでか?」 と驚いたように言われてしまった。 「いけませんか?」 彼はしげしげと僕を見つめた後、僕が本当に心の底からそう言っているのだと分かったらしく、軽くため息を吐いた。 「お前は多分、もっと欲張ったっていいと思うぞ。むしろ、もっと欲張りになれ」 「欲張りに……ですか」 でも、これ以上の幸せなんて申し訳ない気がしてしまう。 それでも、強いて希望を言うならやっぱり、 「じゃあ、これからデートでもしませんか?」 「なっ……!」 真っ赤になって再び絶句した彼は、しばらく唸った後、 「………分かった、分かったから、そんなどこかの消費者金融のCMの小型犬みたいな目で見つめてくるんじゃない!」 と言った。 …どんな目なんですか、それ。 というか、僕、そんな目をしてました? |