部室には、私一人きりだった。 涼宮ハルヒは急用で帰り、朝比奈みくるも友人に連れて行かれた。 私は一人きりで本を読んでいた。 やがて来る人を待ちながら。 その人がやってきたのは、放課後になって三十分ほどが過ぎた頃だった。 力ないノックの音を放置したら、少ししてドアが開く。 入ってきた古泉一樹は曇天を背負っているような暗い表情を見せていた。 「…首尾は?」 私が聞くと、がたんとパイプ椅子に腰を下ろしながら、 「……男性に戻ってほしいと言ったら、ガチホモ、変態、くたばれ、などと罵られました…」 ……素直じゃない。 私は呆れつつも古泉一樹に幾許かの同情を覚え、本を閉じ、立ち上がって古泉一樹に近づいた。 そうして、涼宮ハルヒがしてくれたように、よしよしと頭を撫でると、 「…ありがとうございます」 と古泉一樹が力なく笑った。 「…あなたは、彼が男性であった方がいいの?」 「と言いますか…」 言い辛そうに言葉を一度途切れさせた古泉一樹は、少し考え込んだ後、言葉を繋いだ。 「…女性でいられるだけで、申し訳ないんです。彼の姿を見るたびに、そこまでの決断をさせてしまった自分の不甲斐無さを痛感しますし、どうして彼がそこまで僕を思ってくださるのかと戸惑いもするんです。…つい昨日まで男性だったはずの人が女性になっているということで違和感もありますし」 そう言ってため息を吐き、 「…何より、男性の時だって愛し過ぎて困ったくらいなんです。それが女性になったら、余計に困ります…」 「つまり、性志向はノーマルなのか」 「ノーマルですよ!? ゲイだとでも思われてたんですか!?」 そう叫んでから、古泉一樹は先ほどの問いかけが私の口から発せられたものでないことに気がついた。 私は黙ったまま。 先ほどの発言は、考え込んでいてドアの開く音にも気がつかなかった古泉一樹の失敗。 少し前にそっと忍び込んできた彼――今は彼女?――は、不機嫌に古泉一樹を見つめている。 古泉一樹はぎこちなく、私の方に向けていた体を後ろに向けた。 そうして、仁王立ちする彼を見るなり、顔を真っ赤にした。 「いいいいい、一体いつから…!?」 「男性の時だって云々言ってたあたりから」 「――って、それではあなたはやっぱり、男性だったことを忘れてなかったんじゃ…」 「おう」 悪びれもせず言って、彼は自分の椅子に座った。 相変わらず古泉一樹を睨みつけながら。 睨まれている古泉一樹はと言うと、ぐったりと机にうつ伏せになっている。 「どうして、わざわざ本当に女性になってしまったかのようなふりをしたんですか…」 「ふりもなにも、ちゃんと女にはなってるぞ。朝比奈さんほどじゃないが、胸だってあるし」 言いながら彼は自分の両手で胸を寄せてみたりしている。 そうしてニヤリと笑ったかと思うと、 「難なら触って確かめるか?」 「要りません!」 真っ赤になって慌てる古泉一樹に、彼は悪戯っぽく笑いながら胸を解放した。 「俺が、なんでわざわざ一人称をあたしに直したり、完全に男だったことなんか忘れてるふりをしたのかって言うとだな、そうでもしなきゃお前が白状しないと思ったからに決まってんだろうが」 「僕はそれにまんまと乗せられてしまったわけですか…」 古泉一樹がはぁ、とため息を吐くと、 「ため息なんか吐かなくていいだろうが」 と怒られている。 「吐きたくもなりますよ。…言ってしまうつもりなんて、本当になかったんですから」 「なんでだよ」 「理由は昨日言った通りです」 「忘れたな。あんな不愉快な発言は」 そう吐き捨てた彼はそのまま黙り込んでしまった。 私は古泉一樹に言う。 「あなたが彼を思うからこそ身を引こうとしたのも分かる。……でも、私は彼の意見を推奨したい。同性愛にリスクがあっても、好きという気持ちがあるなら乗り越えられるものではないの?」 「……分かりません」 絞り出すような声で、古泉一樹は言った。 「結局僕は、臆病なんです。どうしようもなく、怖くてならないんです。僕のせいで、」 と古泉一樹は彼を見つめ、 「…あなたが傷つき、人に後ろ指を指されるかもしれないと思うと、それだけで身が竦む思いがするんです」 「……ほんと、ばかだな」 突き放すような言葉に比して、とても優しい声と穏やかな表情で彼は言った。 「傷つくって言うなら、お前の昨日の態度の方がよっぽど傷ついたし、大体、今更人に後ろ指を指されるのを嫌がると思うのか? ハルヒともう一年以上つるんでるんだぞ、俺は」 伸ばされた白くて細い手が、古泉一樹の薄い色の髪に触れる。 私が先ほどそうしたのよりもずっと優しく、愛おしげに、撫でる。 「そりゃ、絶対後悔しないとは流石に断言出来んが、それでも、お前と一緒に苦労するなら悪くないと思ってる。それくらいには、俺は本気なんだ」 「……本当に、僕で、いいんですか?」 「お前じゃないと嫌だ」 「――僕が、あなたより年下でも?」 彼の反応をうかがうように聞いた古泉一樹に、彼は目を見開き、 「そうだったのか!?」 と素直な驚きを表した。 自分から言っておきながら、古泉一樹は怯んだ様子で、またいくらか表情を曇らせつつ、 「…ええ。ひとつだけ、ですけど」 「それってやっぱり、機関の命令、なのか?」 「そうです。僕が一番、高校生をするのに適当だったようで…」 「はー……。お前も、大変だったんだな。いや、今も大変なのか?」 労わるように、心配するように言った彼に、古泉一樹の心拍数が先ほど落ちた反動のように跳ね上がるのが分かる。 その唇には、笑み。 「それほどでもありませんよ。少なくとも今は」 「そっか。そりゃ何よりだ」 「それで、いいんですか? 僕が年下でも」 「関係ないな」 はっきりと彼は言い切った。 「大体、性別も関係なくなるくらい、お前のことが好きになっちまったんだぞ。今更年齢なんて気にすると思うか?」 「気にする人はすると思いますけど……」 「俺は気にせん。それで結局、」 楽しげに古泉一樹の瞳を覗き込んだ彼は、 「俺のこと、好きなんだろ? だったら、……付き合って、くれ」 頬を赤らめながらそう口にした。 古泉一樹はまだ戸惑うようにではあったけれど、柔らかな笑みを返し、 「…喜んで」 よかった。 ……と、そう、思った。 彼らが幸せになってくれるようで嬉しい。 思いが通じ合ってよかった。 もう、二人とも泣かなくていい。 そう思うと、嬉しくてならない。 私の胸の中まで温かくなった。 本当なら、そんな風に思うのはおかしいのかも知れない。 これで私の失恋は、本当に確定してしまったのだから。 でも私は、そんな痛みよりも遥かに、温かい気持ちで胸がいっぱいだった。 私にそんな感情が芽生えたこと。 それがここまで育ったこと。 全部、二人と、SOS団の仲間のおかげ。 ありがとうと告げたい気持ちになりながら、私は立ち上がる。 それでやっと私のことを思い出したのだろう。 彼は恥かしそうに私を見た。 「長門、ありがとうな。お前のおかげで、こいつもやっと覚悟を決めてくれたらしい」 「…お礼は、涼宮ハルヒと朝比奈みくるにも」 「…そうだな」 「あなたが思っている以上に、協力していたから」 「そうだったのか?」 驚きを見せる彼に、私は頷く。 「みんなで古泉一樹のことも、あなたのことも、応援していた。…気付いていなかった?」 「ああ、全然…。というか古泉、お前、ハルヒたちに応援されてもああだったのか?」 古泉一樹は苦笑して、 「すみません」 「情けない奴だな。…いや、俺も大概そうではあるんだが……」 「そうだと知ったら、幻滅しましたか?」 古泉一樹の問いに、彼はにやっと笑い、 「するわけないだろ。…分かってるくせに」 「ありがとうございます」 ……甘い。 何がとは言わないけれど、甘い。 私は小さくため息を吐いて、ドアに向かう。 「長門?」 「……後は二人で」 甘さから逃げるように、私は部室を出た。 それから、涼宮ハルヒと朝比奈みくるにメールを送る。 『やっと付き合うことになった。』 ただ、それだけ。 誰がと言う必要はない。 少しして、メールではなく電話が掛かってくる。 『有希! 本当なの!?』 開口一番にそう叫んだ涼宮ハルヒに、 「本当」 と答えると、 『そう、やっと…。よかった…』 嬉しそうに呟いた涼宮ハルヒにとって、彼は女性として認識されているため、 『本当にもう、古泉くんったら、なんでああも煮え切らなかったのかしら』 と呟いている。 『でも、やっと通じたのね。…よかったわ。これから、寂しくなるかしら?』 「……どうして?」 『どうしてって……付き合い始めたら、部室に来なくなるかもしれないわよ。二人っきりで過ごすのに忙しくて』 「彼らはそんなに薄情じゃない。……でも、」 『でも?』 私は先ほどの甘ったるい空気を思い出して嘆息する。 「……来ないでくれた方が、私達のためかもしれない」 ……それにしても、彼はいつ男性に戻るつもりなのだろう。 |