好きになって



彼に置いていかれてしまった後、一応しばらく待ったものの、彼が戻ってくる気配も涼宮さんたちが来る様子もなく、僕は諦めて帰路についた。
あんなことを言うつもりはなかった。
それは確かだけれども、あれは僕の本心でもあった。
だから、これで彼に嫌われてしまっても、関係が崩れてしまっても、悔やむまいと心に決めながらも、快く眠れないまま朝を迎えた。
その僕の背中を、
「おはよう、古泉」
と軽やかに叩いた人がいた。
驚いて振り向くと、見覚えのない女生徒がそこにいた。
顔だちはそう特徴もないのに、なんだか印象的な明るい笑顔を浮かべ、焦げ茶色の長い髪を綺麗なポニーテールにして揺らしている。
一度見かけたら覚えてしまうだろうと思うほどには、魅力的な人なんじゃないだろうか。
しかし僕は彼女に見覚えがなかった。
同じ北高の制服を着ていて、僕にそんな風に気軽に声を掛けてくるんだから、どこかで接点はあるはずなのに。
戸惑いながら、
「おはようございます」
と返すのは、処世術だ。
しかし、彼女にはお気に召さなかったらしい。
怪訝な顔をして随分と低い位置から僕を見上げると、
「なに部外者用の当たり障りのない顔してんだ、お前。まさか、あたしのことを忘れたとでも言うつもりじゃないよな?」
「……え」
思わず絶句すると、彼女は驚いた顔をした。
僕が本気で分かっていないことに驚いたらしい。
「寝ぼけてんのか? それとも記憶喪失とか言わないよな? またあの空間が発生したのか? それで疲れてるって言うんなら、あたしのことを思い出せないなんてばかなことも許してやらんでもないが」
――そんな、まさか。
愕然としている僕に、彼女は悪戯っぽく笑い、
「まあ、珍しい顔を見れたから許してやろう」
なんて言った。
その直後、
「キョン!」
と彼女の背中を彼のクラスメイトである谷口氏が軽く叩いた。
「おう」
「なんだ? 同伴出勤か?」
などと下卑たことを言う谷口氏に彼女は、
「お前はおっさんか」
と冷めたツッコミを入れている。
――間違いない。
彼が女性になってしまった。
それも、世間の認識も、彼自身の認識も含めて。
となると原因は間違いなく僕だ。
昨日のやり取りを思い出すまでもない。
「え、ええと、あの、すみませんが、急用を思い出したのでお先に失礼します」
僕はなんとかそれだけを言って、彼女らから離れた。
「あ? おい、古泉ー……」
彼女が呼び止めようとするのにも構わず、部室棟へ急ぐ。
靴を履き替えるのも惜しくて、手に靴を持ち、靴下のまま三階まで駆け上がった。
部室には、やはり長門さんがいてくれた。
「一体…どうなってるんですか?」
何が、と言わなくても彼女にはやはり通じるらしい。
「彼が女性になった。……それだけ」
「それだけって……これは、大変なことでしょう?」
「どうして?」
「どうして、って……」
彼女は何を言おうとしているんだ。
ぐらぐらと目眩がし、倒れそうになるのをぐっと堪える。
「彼が女性になったんですよ? 涼宮さんの力によるものなんでしょう?」
「そう。……何がいけないの?」
「何がって……」
「彼も満足している。加えて、涼宮ハルヒの情報創造能力を観測出来たことは、私達にとっても有意義なこと。…どこにも、いけないことはないはず」
「何言ってるんですか。こんな……彼の人生を歪めるようなこと…どうして、黙って見ていられるんです? 彼が男性であったことを覚えている人間が僕たちしかいないんだとしたら、男性としての彼のこれまでの人生はどうなるんです?」
「これは彼が選択したこと。過去を塗り替えてでも、新しい自分を手に入れたいと、彼は願った。それを私やあなたが無理に変えようとすることこそ、彼の人生を歪め、彼の意思を歪めること。違う?」
「それ……は…」
反論しがたい言葉に、僕が言葉を詰まらせると、彼女は珍しくも畳み掛けるように言葉を続けた。
「彼の人生を決めるのは彼自身。他者の不用意な介入はそれが誰のどのようなものであれ、また、どのような形を取っていても、彼の人生を歪めるだけ。……違う?」
「……」
答えられない僕に、彼女は真っ直ぐな視線と共に問うた。
「彼はあなたのために女性になりたいと願った。これまでの自分の記憶さえも書き換えられると分かっていてなお、あなたと付き合いたいと思った。……それだけ彼に愛されているのに、あなたは何が不満?」
そう言われて、言葉どころか息が詰まった。
彼女は嫉妬心を露わにするでなく、羨望の眼差しを向けるでなく、ただ本当に不思議そうに聞いてきた。
僕のことが理解出来ないというように。
理解なんて、出来ないだろう。
僕自身、何がしたいのかどうなりたいのか、よく分かっていないのだから。
「…不満、というわけじゃないんです。ただ、僕は…怖いだけで」
彼の人生に僕なんかが介入してしまっていいのかと思うし、真っ当でない道を歩ませたくないとも思ってしまう。
それくらい、彼は僕にとって憧憬の対象であり、守りたい存在なのだ。
願わくば、本人が物足りなく感じるほど、平凡で、平穏無事な一生を送ってもらいたいと思ってきた。
だから、彼にこれほどまで強く思われるということに戸惑い、どうしていいのか分からなくなってしまう。
「…自信を持って」
そう励まされ、僕は無理矢理唇で笑みの形を作り、
「ありがとうございます」
と答える。
「大丈夫だから。…あなたたちは、幸せになれる。そうなるだけの権利も義務もある」
「義務…ですか」
「……私も涼宮ハルヒも諦めたものを、あなたは与えられようとしている。だから」
僕には彼と幸せになる義務があると。
優しくて嬉しい言葉に、泣きそうになりながら、僕はもう一度お礼を言った。
かくなる上は、ちゃんと彼に向き合うしかないと覚悟を決めて。

放課後、僕は彼を屋上に呼び出した。
現れた「彼」は相変わらず「彼女」のままで、少しばかり上気した頬が胸をざわめかせた。
思わず、男に呼び出されたからってこんな人気のないところにほいほい出てきちゃいけませんよと忠告して差し上げたくなるくらい。
「古泉、こんなところに呼び出すってことは、昨日のこと、ちゃんと考えてくれたんだろうな?」
昨日のこと、というのは、彼女が僕に好きだと言って僕が考えさせてくださいと言った、ということだと長門さんに聞いていた。
男性から女性に変わったことで、記憶もいくらか改変されてしまっているらしい。
変わらないのは、僕が情けない男だと言うことくらいか。
「ええ…そんなところです」
答えた僕の口調や声が重いからか、彼女は悲しげに顔を歪め、かすかに俯いていた。
ややあって、その薄桃色の唇が開かれる。
「やっぱり……あたしのことは、好きになってもらえないのか?」
「それに答える前に、ひとつ、教えてもらえませんか?」
「なんだ?」
困惑に揺れる綺麗な瞳が僕を映す。
「……どうして、僕なんです?」
「……あたしが、知るかよ」
そう言って彼女は深く悩ましいため息を吐いた。
「気がついたら、好きになってたんだ。お前のことならなんでも知りたいって思ったし、お前を独り占め出来たらって考えちまう時もあった。何でお前かなんて、あたしにも分かんないよ。そりゃ、お前の顔も好きだし、声も好きだけど、それだけじゃない。からかった時の反応が楽しいからとか、そういうのだけでもないんだ。お前が、お前だから、あたしは好きなんだ。他の誰でもなく、お前が」
愛らしいソプラノで、いつになく雄弁に、そして照れもなく真っ直ぐに言う彼女に、本当に強い人だと思った。
その何分の一かでも僕に勇気があったなら、もっと違っていたんだろうか。
黙って聞き入っていた僕の反応が芳しくないのを見て取ってか、彼女の表情がくしゃりと歪む。
今にも泣き出しそうに。
「…お前は…あたしなんかじゃ、嫌かも、しれない、けど……でも、あたしは、お前が好きだ…」
震える声で言った彼女を、抱きしめたくなった。
申し訳なくて、愛しくて、守りたい。
傷つけているのは僕なのに、その僕が彼女を守りたいなんて思うのは全くのお門違いだと思いながらも。
「……僕もあなたが好きです」
そう告げると、彼女は僕を見つめた。
驚きに見開かれた目の端から、溜まっていた涙がひとつ零れていく。
「本当…か…?」
「ええ。…あなたを嫌えるはずなんて、ありません」
諦められるはずも、なかったんだ。
僕は彼のことを愛している。
彼もまたそうだと知って、どうして諦められるなんて思ったんだろう。
そんな風に思ったがために、また彼に余計な苦労をさせて。
嬉しそうに微笑む彼女を、今度こそ抱きしめると、柔らかくていい匂いがした。
少し、男性の時とは違う匂い。
でも、それが僕を惹き付けることに違いはない。
「あなたが、好きです」
「本当に、本当なんだな?」
念を押す彼女に、
「ええ」
だからどうか、男性に戻ってくれませんか。
「――は? お前、何、言って……」
当然のことながら、驚き戸惑う彼女に、
「あなたは忘れているようですが、昨日まであなたは確かに男性だったんです。それが、涼宮さんの力によって、これまでの記憶も含めて女性になってしまっているんですよ。あなたが女性になることを望んだために起きた変化ですから、あなたが男性に戻りたいと思えば、戻れるはずなんです」
「んな、ばかな…」
「ばかなことだと言い切れますか? 涼宮さんの力はあなたもよくご存知でしょう」
彼女はぐっと眉を寄せながらしばらく考え込み、やがて妥協案を提示するように言った。
「……分かった、百歩譲ってそれが本当のことだとしよう。だが、お前だって、男なんかよりも女の方がいいんじゃないのか?」
「性別なんて関係ありません。あなたがあなたであれば、僕は変わらずあなたを愛しく思います」
「だったら、別に女のままでもいいんじゃ……」
「それは、僕が困るので出来ればやめてもらいたいんですが…」
「……何、言ってんだ、この――」
顔を真っ赤にした彼女は僕の腕を振り解き、走って逃げながら大声で叫んだ。
「ガチホモ! 変態! くたばれ! …いや、やっぱりくたばるのはなしだけど、とにかく反省しろこの大馬鹿野郎!!」
ち、違うんですー…!

これで嫌われてしまったら、泣くに泣けない。